海底の王国
色葉ひたち
第1話 遭難
氷川湊斗(ひかわみなと)は、幼馴染の坂戸大地(さかどだいち)と共に小型ボートに乗り込んだ。二人は海辺の街に住む高校生だ。
港には漁船がたくさん停泊している。漁業は朝が早いから、午後になると港には人気がない。海沿いは港として整備され、周辺には水産加工工場が点在している。
街の人の多くが漁業従事者で、湊斗の父はサラリーマンだが、祖父は漁師だったし、大地の家は父も祖父も漁師だった。
小型ボートは大地の家の物で、大地は自由に使う事ができた。湊斗と大地は、放課後に待ち合わせ、たまにボートで海へ出ていた。広い海を、風を切って走る爽快感は、何度経験しても飽きる事はない。
大地の運転は軽快だ。運動神経が良いせいか、ボートの操り方もうまい気がする。
今日は天気が良く、海の果てまで青空が広がっていた。七月だからまだ日は長く、七時頃まで明るい。だいぶ暑くなってはきたが、海の上は涼しかった。
「期末どうだった?」
大地が湊斗に尋ねてきた。大地は少し日に焼けた健康的な少年だ。一重の切れ長な目をしており、顔のパーツがすべて小さい。背が伸びない事を気にしているが、今年の春の健康診断で百七十センチになったと喜んでいた。一年生の頃から百七十センチを超えていた湊斗は随分羨ましがられたものだ。
「まあまあかな」
湊斗はそう答えた。湊斗と大地は違う高校に通っているが、どちらも公立だからテストの時期は同じだ。
「俺さ、数学で補講くらったよ」
「え? また?」
大地は、成績は悪くないが、数学だけは大の苦手だった。一緒に勉強する事もあるが、湊斗も人に教えられるほど数学が得意ではないので、力になれた事はない。
大地がため息をついた。
「また夏休み何日かパーだよ」
「だな」
「くそーっ!」
大地が海に向かって叫んだ。湊斗はそれを見て笑った。
嫌な事があっても、こうして海に出ると気分がすっきりする。
その時だった。
突然、ボートが大きく揺れて、湊斗と大地は慌ててボートの端をつかんだ。
「何?」
「分かんない」
ボートは前後左右に激しく揺れ出した。周りを見ると、海面が激しく波を打っている。晴天で風もないのに、海だけが嵐の時のように荒れていた。
「まずい! 戻ろう」
大地が慌ててボートを旋回させようとしたが、その瞬間にボートは大きな横波を受け、大きく傾いた。
「うわ!」
二人は大きな悲鳴を上げ、海に放り出された。荒れる海の中で全く体の自由が利かず、どんどん海の底へ引きずり込まれていく。海水が気管に入って胸が痛み、息ができない。
《死ぬ……!》
湊斗は恐怖で頭が真っ白になり、やがて意識を失ってしまった。
どれぐらい時間が経ったのかは分からない。目を閉じていても少し明るさを感じる。湊斗の意識は戻ってきていた。
湊斗は薄っすらと目を開けた。その瞬間、胸が激しく痛み、大きく咳き込んだ。空気は肺に入って来るが、まだうまく呼吸ができない。湊斗は再び目を閉じ、咳を繰り返して、なるべく深く呼吸をしようと試みた。
「大丈夫か?」
呼びかけられたが返事ができない。
湊斗は、船から落ちて溺れた事を思い出した。そして、きっと自分は誰かに助けられたのだと察した。
しばらくじっとしていると、呼吸が落ち着いてきた。湊斗はゆっくりと目を開けた。仰向けに寝ているから、空が見える。
《なんか、空が変……》
湊斗はそんな風に思った。そして、自分はまだ朦朧としているのかもしれないと思い直した。
「大丈夫か? 苦しくないか?」
再び呼びかけられて、湊斗はそちらに視線を移した。
湊斗のそばに自分と同じぐらいの年頃の少年が座り込み、湊斗の事を心配そうに見つめている。肌の色が白く、金髪で目の色が青い。
外国の人かなと湊斗は思った。よく見ると、少年は不思議な恰好をしていた。例えるなら、おとぎ話に出て来る王子様のような恰好だ。
《まさか俺、流されて外国まで来ちゃった? そんな事ってある?》
湊斗は少年を見つめたまま茫然とした。
少年が、
「言葉が分からないのか……」とつぶやいた。
そういえば、少年は日本語を話している。一体ここはどこなのだろうと湊斗は思った。
「言葉は分かるよ」
湊斗は少年にそう答えた。すると、少年がうれしそうな表情をした。
「よかった。大丈夫か? もう苦しくないか?」
「うん。ここはどこ?」
湊斗が尋ねると、少年が、
「アクスラントの西の宮(きゅう)の近くだよ」と答えた。
聞いてもどこなのかさっぱり分からないが、日本ではなさそうだと湊斗は思った。
「俺はどうしてここへ?」
「そこの水路を流れてきたんだ」
少年が指し示した先が良く見えなかったので、湊斗は体を起こした。二人のそばには石を積んで整備された、川のような大きな水路があった。水路も石でできているが、地面にも石が敷き詰められ、湊斗が座っている場所も石畳になっている。
少年が湊斗の体に手を添えて、
「大丈夫?」と言った。
「うん。もう大丈夫」
少年がじっと湊斗を見つめた。何だろうと思っていると、少年が、
「目を閉じている時もきれいだと思ったけど、目を開けるともっときれいだね」と言った。
予想外の言葉に、湊斗は驚いた。男にきれいと言われたのは初めてだ。
少年は、
「こんな色の目を見たのは初めてだ」と言った。
それを聞いた湊斗は、きれいだと言ったのは目の色の事だったのかと安心した。湊斗の瞳の色は日本人としては標準的な黒目だが、ここでは珍しいという事なのだろう。
湊斗は少年に、
「俺を助けてくれたの?」と尋ねた。
「うん。水路から引き上げた。息をしていなかったから、死んでいるのかと思ったよ。人を呼びに行かせたけど、その前に気付いて良かった」
湊斗は、大地はどうしたのだろうと気付き、青ざめた。
「もう一人いなかった?」
「いなかったよ」
「…………」
湊斗は立ち上がって水路の方に近付いた。そして、その景色に言葉を失った。水路は右手の方から左手の方に延びているのだが、右手は行き止まりになっている。そして、そこはガラスのような透明の壁で、例えるなら水族館の水槽のようになっていた。
《どういう事?》
湊斗は、右手に見える水槽のような壁を上の方に目で辿った。壁はずっと上の方まで続いていて、空の方まで延びている。いや、あれは空じゃない。湊斗は気付いた。頭上に見えるのは空ではなく、水なのだ。自分は今、透明で大きなドームの中にいて、外は水になっている。
《まさか、ここは海の中? もしかして、やっぱり俺死んだのか? 死後の世界にいるのか?》
「外海人(がいかいじん)なんだろ?」
少年が湊斗に言ったので、湊斗は振り返った。
「外海人?」
「アクスラントの外の、海の外の人の事だよ」
「アクスラント? アクスラントっていう国なのか? もしかして、海の中にある国なのか?」
「そうだよ」
湊斗は驚いた。自分は海で溺れて、海の中にある国に辿り着いてしまったらしい。海の中に国があって、人が住んでいるなんて、考えた事もなかった。まだ、現実だとは到底思えない。
少年が、
「僕はアクスラントの王太子でフロレンツだ。君の名前は?」と言った。
王太子と言う事は王子様で、将来王になる人という事だ。態度が気さくで、顔立ちも人懐っこい雰囲気だったから、つい気軽に話してしまったが、実は偉い人だったのだと、湊斗は驚いて恐縮した。
「俺は、氷川湊斗……です」
フロレンツが笑った。
「畏まらなくていいよ。ヒカワミナトか。名前の感じもやっぱり違うね。何十年、何百年に一度、外海人が来る事があるって聞いてたけど、本当に会えるなんて」
「俺、戻れるのかな?」
すると、フロレンツが少し悲しそうな表情を浮かべた。
「ここへやってきた外海人がその後戻ったという話は聞いた事がない」
湊斗は血の気が引く思いだった。命を取り留めたのは良かったが、地上へ戻る術がないという事だ。
湊斗はもう一度水路の方に目をやった。水は流れているようには見えず水面は穏やかだ。透明な壁とは反対側、向かって左手の方に水路は長く延びていて、先の方で十字に分かれているのが見える。水路には人影はない。湊斗は、大地は助からなかったのだろうか、と思った。そんな事はとても信じられない。
「ヒカワミナト」
フロレンツが湊斗に呼びかけてきたので、湊斗は振り返った。
「……湊斗でいいよ。氷川が名字で湊斗が名前だから」
「そうか。ミナト、とにかくまずは着替えよう。濡れたままじゃ風邪をひく」
湊斗は自分の体を見た。全身ずぶ濡れで服が肌に張り付き、水が滴っている。
フロレンツが、
「こっちに来て」と、湊斗を促した。
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