愛と呼べない夜を越えたい

増田朋美

愛と呼べない夜を越えたい

その日は、十一月の初日だったが、もう冬が来たのかなと思われるほど寒い一日だった。テレビでは、今年は冬が急激にやってくるという報道が流され、また日本人が気候に悩まされる季節がやってくるんだなというある種の覚悟というものが、義務付けられるようになるのだった。

その日、杉ちゃんと蘭は、いつも通りの診察のため、総合病院を訪れた。二人の診察は、いつも通りに、あっという間の診察で終わってしまい、又会計を待つまで、長い時間を待たなければならなくなるのであるが、今日は、数分で終了した。こんなに早く終わってしまうのも、また珍しいことであるが、そういう時には、必ず思いもよらない事件が起こってしまうものなのである。

ちょうど、薬をもらい終えて、杉ちゃんたちがタクシー乗り場に移動しようとしたところ、

「おう、竹村さんじゃないか!」

と、杉ちゃんが、声をあげたので、蘭は、何だと思って、車いすを止める。確かに、待合室の椅子の上に、竹村さんが座っていた。杉ちゃんのことを、有害人物と公言していた、竹村優紀さんである。

「あら、一体どうしましたか。」

と、竹村さんは、にこやかに笑った。

「こっちのセリフだよ。なんで竹村さんが、こんな病院にいるんだよ。」

「いえ、私は、ただ患者さんの通院の手伝いをしているだけです。ほかには何もありません。」

そういわれて蘭は、竹村さんが待っている、診療科の表札を見た。何だと思ったら、そこは精神科。確かに竹村さんのクライエントさんが、訪れるような場所である。

「クライエントさんは、ちょうどいま、診察を受けていらっしゃるんです。こういう診療科ですと、一分診察というわけにはいきませんからね。それで待たせていただいています。」

竹村さんは、いつも通りのしっかりした口調で、二人にそういうことを言った。

「そうですか、竹村さんは、クライエントさんの通院の手伝いもするんですか。」

蘭は、思わずそういうことを言った。

「ええ、新しいことは、しなければなりませんからね。受診が必要な方は、必ず誰かが、連れていかなければならないでしょうから。其れをご家族がすべてするようでは、無理な時代なんですよ。其れならだれか代行しなければならないでしょう。」

「そういえば、そうですね。」

蘭は、竹村さんに言われて、一寸、押されたように言った。竹村さんの言い方は、一寸、強いものがあって、答えが違ったとしても、はいと言わなきゃならないのではないかと思われるような節がある。蘭もそう感じてしまったのであった。

「それに私たちが、黙っていては、クライエントさんも落ち着いてはくれませんよ。こんな、世の中になったんですから、何かできることを探さなければならないでしょう。誰かが来てくれるのを待っているようでは遅いですよ。」

まあ確かにそうだ。蘭の仕事も、最近はなかなか客がやって来ず、一寸色が薄くなったから、手直ししてくれという客ばかりで新規で龍を彫ることはあまりなくなった。

「だから、人を呼ぶ新たな手段をつくらなければなりません。古いやり方にしがみついていては、其れこそ身の破滅です。其れよりも、前向きにいかないといけませんよ。」

そういわれて、蘭は、はい、確かにと小さくなった。自分は確かに何もしていない。其れなら、竹村さんにきついことを言われても仕方なかった。

「竹村さんこの、金魚鉢みたいなものは何?」

ふいに杉ちゃんが、竹村さんの持っていたカバンの中から、一寸顔を出している写真を指差して言った。杉ちゃんという人は、なぜか、そういう変なものを目ざとく見つけてしまう癖があるのだ。

「それですか?金魚鉢ではございません。其れは、金魚を飼育するためのものではなく、ヒーリングのための、クリスタルボウルという楽器なんです。其れを指定したばちでたたいたり、ふちをこすったりすることにより、心を落ち着かせると言われております。」

竹村さんは、その画像を取り出しながらいった。確かに、赤だったり紫だったり、いろんな色に染められた、金魚鉢くらいの大きさのガラスの筒が、その写真には写っていた。一体其れは何なのか、杉ちゃんも蘭も気になるところである。

「はあ、竹村さんの愛用楽器は、バイオリンではなかったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、もちろん、バイオリンはバイオリンで続けているんですけどね。もっと、ヒーリングをするには、それなりの資格が必要かなと思いまして。かといって、今さら、何か心理学的な資格を取りなおすのでは、時間がかかりすぎますし、私にできることは音楽以外ありませんから、こういう楽器を学ぶしかないかなと思い直したんです。」

と、竹村さんは答えを出した。その答えに、蘭は、なるほど、竹村さんは時代に合わせて、ちゃんと勉強しなおしているなと、感心してしまった。

「最近は、気候も安定しませんし、おかしな伝染病も流行したり、常に不安が付きまとっていますから、不安に直接作用する、こういう楽器を教えた方が、いいのではないかと思いましてね。バイオリンは、指を鍛えることはできますが、あまりヒーリングという点では優れておりません。其れなら、こういうもののほうがいい。まあ、何回か、演奏を聞いていただいた方が、情緒が安定し、のんびりした考えに変わったという人もおりましたのでね。それで、始めたんです。」

と、いう竹村さんに、

「クリスタルボウルというのは、そういう効果があるんですか?」

と蘭は聞いた。

「ええ、何とも、お寺の梵鐘の音に似ているので懐かしいと言ってくれた、高齢者の方もいますし、その音を聞きながら、ぼんやりしていると、心が落ち着いてきたという方もいます。私は、単にクリスタルボウルをたたいているだけなんですけどね。まあ今は、お寺の鐘をきくことがなくなってしまいましたからね。それに、癒しを求める人が多いということでしょう。」

そう答える竹村さんに、

「なるほど、お寺の鐘か。」

と、杉ちゃんは、相槌を打った。

「あの、竹村さん、ご多忙な時に、お願いをして申し訳ないのですが、一寸こちらへ連絡をいただけないでしょうか。」

蘭は、杉ちゃんに聞こえないように、小さい声で、竹村さんに言った。そして、自分の連絡先を、そっと竹村さんに手渡す。

「ああ、わかりました。じゃあ、その時、またお話しますよ。」

と竹村さんは、蘭が渡した連絡先を見て、蘭が何をお願いしたのかわかってくれたらしい。すぐにそういってくれた。其れを杉ちゃんが気が付いたのかそうではないかは不詳だが、杉ちゃんは、口笛を吹いてにこやかに笑っているだけであった。

一方そのころ、製鉄所では。

「水穂さん大丈夫ですか。どうも最近よくありませんね。寒くなってきたから、それでまたせき込むようになったかな。」

ジョチさんは、五郎さんに支えてもらって、布団に座っている水穂さんを眺めながら言った。布団に座ってはいるのだが、水穂さんは、激しくせき込んで薬を飲めば眠ることを繰り返している。その頻度が最近多くなったような気がするので、みんな心配しているのだ。

「ああ、ほらほら、大丈夫ですか。吐き出すときは、慌てずゆっくりとね。」

ジョチさんが、そういうように、水穂さんの口元に当てたタオルは、真っ赤に染まってしまった。五郎さんは、水穂さんの背中をさすって、吐き出しやすくしてやった。

「ぼ、ぼく、薬、もっ、てきます。」

「じゃあ、僕が変わりますよ。」

ジョチさんが、水穂さんの体を支えると、五郎さんは急いで枕元の吸い飲みをとって、台所に走っていった。水穂さんは、まだせき込んだままだった。ジョチさんは、ほら、しっかりと水穂さんに声をかける。水穂さんは頷くしぐさを見せるので、言葉は通じているようであるが、せき込むのは止まらない。

「み、水、持ってきました。」

五郎さんが、吸い飲みを持って戻ってきた。そして、枕元に座って、せき込んでいる水穂さんの口元に吸い飲みを持っていく。水穂さんは中身を飲んでくれたので、何とか、薬を飲ますのには、成功した。これで効いてくれれば、咳も止まるだろうとみんなが予測した通り、数分でせき込むのは止まった。そして、水穂さんは倒れるように、眠り始めてしまった。五郎さんが、その体にかけ布団をかけてやった。

「やれやれ、薬で何とかなったように見えるけど、ごまかしてるだけですよね。まあ、水穂さんのような重病になってしまうと、どんな治療でもそうなってしまうんでしょうけど。何とか、ならないものですかね。」

と、ジョチさんは、眠り始めた水穂さんの顔を眺めながら言った。確かに、俳優並みにきれいだと言われていた水穂さんも、今はげっそり痩せてしまって、美形というより、もっと窶れた、痛々しい感じがある。それでは、一寸かわいそうというか、問題がありそうだということを、感じさせる顔つきをしていた。

「そ、そうですね。僕、も、何とか、な、らないかと、いつも、思って、います。最近は、あつかった、り、寒かった、り、と、落差が、激しいです、からね。それで、水穂さ、ん、も、疲れてしまって、い、るのでは、ないでしょうか。」

五郎さんが、いうことにジョチさんは、なるほどそうですね、と相槌を打った。

「まあ確かに、五郎さんの言う通り、今年の夏は、猛暑でありましたし、今月に入りましたら急に寒くなりましたからね。でも、気候変動だけではないでしょう。水穂さんの体が不安定なのは。きっと何か、ほかに不安はあると思いますよ。」

「そう、で、すね。何、か、リラックス、でき、る、方法、が、あれば、い、いと思うんですけど。何か、ないです、かね。僕、にできる、と言えば、こうして、せき込んだ、時、タオル、をあてがって、やれるだけ、です。それ以外、なに、も、ありません。」

「いいえ、こうして、毎回こちらに来てくださって、水穂さんの世話をしてくれるのはうれしいことです。まあ、僕が言うことではありませんが、水穂さんも喜んでくれるのではないかと思います。」

「そう、で、すか。僕は、な、にか、別の、方法が、あると、いいなと、思うんですが。そうだな、きれいな、音楽とか、優しい、香りとか、そういうものは、ないかなと思うんですけど。」

と、五郎さんは、いやに専門的なことを言い始めた。確かに、体に直接作用するわけではないけれど、心を安定させるために、必要なツールは、いろいろある。現代では、いろんなことが、機械でなんでもできる時代なので、人間の本能的なことと、人間の感情が入り乱れて、おかしくなる人も、少なからずいる。

「水穂、さ、んは、疲れて、いらっしゃる、んだと、思います。もちろん、重い病気のせい、で、もあると、思うんです、が、それだけでは、ない、でしょう。まあ、確かに、出身が、まずい、という引け目は、あると、思いますが、そこらへん、僕た、ちが、カバーして、やらないと。」

五郎さんは、そういうことを言った。吃音者である五郎さんは、時々そういって重大なことを言う。

「疲れねえ。僕たちが感じている以上の事でしょうかね。」

「そうです。た、ぶん、僕たちが、感じている、以上、に、疲れている、と、思います。体力だって、僕、たち、より、ないわけ、です、しね。それでは、それを、癒してやるの、に、僕たち、では、できないかもしれ、ないじゃないですか。」

「そうですね。確かに誰か癒しを専門にしている人を、呼ぼうということですよね。五郎さんのいうことは。それでは、誰かやってくれる人を探すことが重要なんですけど、どうやって、水穂さんのことを治療してくれる人物を連れてきましょうか。さすがに、水穂さんの階級を口にしたら、たぶん、治療者の先生は、全員首を縦にはふらないでしょう。」

ジョチさんは、腕組みをしてそういうことを言った。確かに、それが問題だ。水穂さんの素性を話したら、なんでそんな人に私が、施術しなきゃならないのと声をあげて言うに違いない。中には、私の顔に泥を塗るのかという人もいる可能性もある。特に女性の施術者はそういうことを言うだろう。

「はい、きっと、僕、に、たいして、も、そういうと、思います。」

と、五郎さんは、ジョチさんのいうことを理解したのか、そう頷いた。其れは、その通りなのだ。大体のひとは、自分をかっこよく見せることができる、クライエントに対して施術するが、そうではない人には、冷たい態度をとると思われる。

「まあ、僕の店にも、たまにそういう施術をしてくれる人が来店することはありますし、その人の中でお願いしてみようかな。水穂さんのことは正直に言わなければなりませんが。」

と、ジョチさんは、はあとため息をついて、そういうことを言った。

「この場合、インターネットは全く役に立ちません。インターネットは答えは見つかるかもしれませんが、水穂さんの素性を話したら、すぐに連絡が止まることで逃げてしまいますから。」

「そ、そうです、ね。僕は、役に立ちませんね。そういう、専門的な、方に、まったく人脈がないので。」

五郎さんは、申し訳なさそうに言った。

「じゃあ、仕方ありませんね。店のお客さんに聞いてみます。」

そうするしかないということだけど、断られるのがおちかなとジョチさんも五郎さんも同じことを考えていた。

そんな中。

「理事長さんお電話です。」

と、利用者の一人が、ジョチさんに言った。

「誰からですか?」

とジョチさんが言うと、

「はい、竹村さんという方です。」

と、利用者は答えた。ジョチさんは、はいはいわかりましたよ、と言って、応接室に小走りに急いで行った。

「はい、お電話変わりました。曾我です。」

「ああ、こんにちは。あの、わたくし竹村優紀というものですが。実は、伊能蘭さんのご依頼で、支援施設でクリスタルボウルの演奏をお願いされたのですが、いつならそちらにお伺いしてもよろしいですか?」

と、竹村さんは、慣れた口調でそういうことを言っている。

「はあ、伊能蘭が、また何かあなたに押し付けましたか。」

「ええ、私に、クリスタルボウルの演奏をしてほしい人がいると、懇願してきました。でも、突然押しかけるのもおかしいでしょうからね。そちらの、日程なんかで空いている日が在れば、教えていただけないか、お尋ねしようと思いまして。」

はあ、クリスタルボウルね。蘭さんは、なんでまたそういうものにはまるんだろうな、とジョチさんは思いながら、

「失礼ですけど、蘭さんは、あなたに何をお願いしたのですか?」

と、尋ねた。

「ええ、なんでも、癒してほしい人がいるというんです。其れが、大変重大な願いごとのようで、何度も私にお願いしたいと言って、頭を下げていました。」

「ああそうですか。しかし、クリスタルボウルというのは、不思議な楽器ですね。一度、僕の弟が経営している店に、ヒーラーの方が来てくれたことが在りましたが、頭が静かになるというか、いかにも静かになる音色でした。なぜなら音によって、過去も未来も考えることができなくなって、今ここを感じ取ることができるからです。」

ジョチさんは、竹村さんにそういった。

「あと、これは、大事なことなんですけどね。」

と、ジョチさんは竹村さんに言った。

「ええ、其れは知っていますよ。蘭さんから聞きました。彼は、水穂さんにそのせいで大変ひどいことをしてしまい、その償いがしたくて、私を水穂さんに会わせようとしているんだなとわかりました。」

と、電話口で竹村さんは言う。

「本当にわかってくれていますか?」

とジョチさんは、確認するように言った。

「ええ、蘭さんは、絶対に他人には口外するなと言っていましたが、水穂さんが、その地区から来たということは、変えようのない事実ですからね。其れは、私も演奏するにあたり、しっかり見極めることが必要だと思います。」

竹村さんがそういうことを言うので、ジョチさんは、わかってくれているのかな、とちょっと納得したような気がした。

「そうですか。でも、竹村さん、僕は、水穂さんのためを思うのなら、演奏はしないほうがいいのかもしれませんね。」

とジョチさんは言った。

「確かに、蘭さんが水穂さんに、施術をしてくれと頼むのは、当然というか、自然な流れだと思いますが、僕は、水穂さんが自信を無くしてしまうと思うんですよね。蘭さんが、資金援助して、演奏をしていただいたとしてもですよ。」

「そうですね。それ、なんとなくわかる気がします。蘭さんが、何かしてくれなければ、自分は生きていかれないと落ち込むよりも、自分で一人で生きていく方が、しっかり生きていけるという自負心は確かにありますよね。其れをつぶしてしまう可能性はあると思います。」

竹村さんは、それをわかってくれたようだ。

「確かに、そういうところの出身者であれば、支援させる方が余計につらいということもあるでしょう。アメリカでもよくあるみたいですね。黒人が、白人の援助を拒んで、貧しい生活の中、独自の文化を発展させたということもありますよね。」

「ええ。そこをわかっていただいたら、僕もうれしいですよ。まあ確かに、水穂さんには、何か癒してくれる人が必要だとは思いますが、でも水穂さんが同和地区の出身者であることは間違いないわけですから、外部のひとに、何かお願いするというのは、難しいと思います。其れは日本の歴史的な事情ですから、仕方ありません。」

「わかりました。理事長さん。私は、宗教的なことはあまり詳しくありませんが、愛というのは、時々何のことなのかわからなくなることもありますね。なんでも手を出して、助けてやるというのが、果たしてそれになるのかなと思うときがあるんです。むしろ、愛と呼べない行為のほうが、真実に近いこともあるんじゃないかなと思うんですよね。理事長さんのその気持ち、わかりますよ。」

「ええ、そういうことですから。でも、蘭さんには、そういうことはわかってもらえないでしょうから、蘭さんには別の事情で断ってください。」

と、ジョチさんは、苦笑いして、そういうことを言った。今時蘭さん、くしゃみを敷いているだろうなと思いながら。

「それでは、愛と呼べない夜というのは、なかなか明けないものですな。」

と、竹村さんは、そういって電話を切った。ジョチさんも、はいといって受話器を置いた。


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愛と呼べない夜を越えたい 増田朋美 @masubuchi4996

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