第50話 気晴らしと流血と・後
アズルトが指を弾くと、火打石のように閃光が散り、練技場が鉄錆た焔に呑み込まれた。猛火はアズルトとクレアトゥールの身体をも包み、焔の舌先を高く激しく伸ばす。
だが、それだけだった。
焼け焦げた魔力を薄く煙のように漂わせる炎の原を、アズルトは平然と歩き進める。やがて縁まで辿り着くと、足を緩めることなくその外側へと踏み出す。
足跡が錆びた炎を吹き、間もなく幻のように掻き消えた。
二人を包む焔も火勢を弱めている。炎の合間から覗く素肌には火傷の痕ひとつなく、それどころか浴びた血の紅すら見つけることは叶わない。
「なんども見てるけどやっぱり変な感じする」
熱も音もなく燃え続ける道着を睨みながら、納得いかないとクレアトゥールがこぼす。
すでにその生地は斑に生成りの色を取り戻していた。
「熱くないのがそんなに不思議か」
「幻術だって、投影じゃないふつうのは熱いって感覚ある」
「前にも少し話したな。世に在る魔法の大部分は、基底世界の理に発現の工程を委ねている箇所がある。導師や術師が扱う杖なんかの増幅器には、この原理を応用しているものが多い。火のあるところでは火の魔法が、水のあるところでは水の魔法が、風のあるところでは風の魔法が効率的に使えるのも同じ理由だ」
「精霊理論?」
「ああ。精霊魔術――属性魔法でもいいが、それらが魔道の大勢を占めるのは術者の手間が少ないからだ。より少ない魔力でより速くより大きな効果を期待できる。だが世界の仕組みに頼っている以上は、どうしても
「ならやっぱりこれは概念魔術なのか」
アズルトは小さく笑う。
愉快でたまらなかったのだ。
「おまえは
「ひぁっ」
耳をぴんと立て、尻尾の毛を逆立て、クレアトゥールが可愛らしい悲鳴を漏らした。
燃焼――もはや酸化反応ですらないが――により生じる熱量を数秒だけマイナス方向に傾けたのだ。前触れなく氷を押し付けられたようなもの、と言えば想像しやすいか。
半眼になったクレアトゥールが睨む。
「おまえは
「よくできた生徒は褒めないとだろ」
「どこが。そんなのひと欠片も思ってないって知ってるぞ」
はて、と胸の内で首を傾げる。
その後の行動はどうあれ、アズルトとしては最大級の称賛を送ったつもりであった。
それが、まるで伝わっていない。
互いの関係性を思えば、目的意識を共有できればそれで十分だ。この齟齬の原因が彼女の側にあるとしてもその事情に触れる必要はなく、むしろ触れないことが望ましい。抱いた違和感については、流してしまえば話はそれで終わるのだから。
だがこの時のアズルトの脳裏には彼女の事情とは別に、自らに欠陥があるのではという疑念が湧いていた。
アズルトのその人生において、褒めるという行為も褒められるという行為も、等しく縁の遠いものであった。
知識としてそれが重要であることは理解しているし、物語を通してそれが如何なるものであるのか知っている。けれど血肉の通った感情としての記憶がないのだ。いや、それは偽りか。幼少の記憶の中には確かに存在するのだろう。だがそこにある感情はとうに風化し色褪せていて、晩年に親しんだ物語よりなお遠い。
今しがたクレアトゥールに抱いた肯定の感情は本物だった。自らの選択の正しさを肯定する部分があったのだとしても、それは彼女の聡明さに支えられたもの。
だから、アズルトは捨てるという選択肢を前に立ち止まってしまった。
経験を積むべきだ。
経験値を稼ぐべきだ。
稼がねばならない。
ヒトとしての。
いつかの衝動が蘇る。
バッテシュメヘ教官に完膚なきまでに叩きのめされ、決意した思いは薄れることなく残っている。長らくクレアトゥールにかかり切りであったが、級友らの観察は怠らなかったし、それによってディスケンスらとの対話では一定の成果も得られた。けれど主命を果たすため求められるものは数知れず、そのためにもより多くを学ぶ必要性を感じていた。
「急に黙るとかないから」
アズルトが思案に暮れていると、すぐ傍まで近づいてきたクレアトゥールがトンと脇腹を小突いた。
「……いや、伝わっていないようだから本気で褒めようかと」
「ん?」
なに言ってるのかわかんないぞと、困惑に首が傾く。
口にしてから、宣言するのもおかしなものだと思い改めたアズルトは、その問いかけるような眼差しに答えることなく、ひとまず目的を果たすことを優先させることにした。
「おまえにものを教えることを俺は割と愉しんでいる。選り好みが激しくて苦労させられることも多いが、努力家だからな、俺にとっておまえは手間をかける甲斐のある良い生徒だ。とりわけおまえの魔道への執心は
「ぁ。んと……ぅーッ、ん」
驚きにかすかに目を見開いたかと思えば、話半ばでそわそわと目線を彷徨わせはじめ、わずかに俯くと、半歩さらに身を寄せ、意味あり気に金の瞳でじっと見上げてきた。
――近い。それになんなのだろうこの状況は。
アズルトは急き立てられるような思いを抱いていた。
戦闘時もかくやという勢いで頭を回転させる。
不可解な反応、不可解な状況。視線の先にはすっかり火も消えた、戦闘で乱れたクレアトゥールの赤茶の頭がある。金の瞳からは相変わらず考えが読み取れないものの、尻尾はなにかを期待するように揺れていた。
脳裏にとある情景が過る。
――まさか、頭を撫でろとでも。
愕然と、アズルトはその情景と今しがたの思考を反芻する。そして即座に理性が否定を叫んだ。
無いだろう。無い。少女漫画や乙女ゲームでもあるまいし現実でそんなことが――重ねて否定しようとしてはたと気づく。己が今いるのは、まさしくその乙女ゲームの舞台なのではないだろうか、と。
もしかしたらムグラノ地方には、あるいはアーベンス王国にはそうした文化があるのかもしれない。アズルトは大慌てで知識の
あると嬉しい常識リストを作って提出すべきか真剣に悩むところだが、それよりも現状の打開だ。仮にそうであるとするなら、下手に間を空けるのは悪手だ。
アズルトは腹を括る。そしてかつてない緊張感を以ってその言葉を口にした。
「嫌だったら逃げろよ」
平素、クレアトゥールは他人に触れられることに激しい拒否感を示す。それはアズルトであっても同じだ。戦闘行為であったり、彼女が主体となる行動であればまた違ってくるようだが、これはそのどちらでもない。だからこその『無い』でもあったわけだが、もはやぐだぐだと言い訳を並べ立てても仕方がない。
恐る恐る、アズルトは少女へと手を伸ばす。
逃げる素振りはおろか、警戒さえも見ては取れない。
意を決してその赤茶の頭に手を置いた。瞼は閉じられていて、身体の強張りが指先から感じ取れるが拒絶はなかった。であれば、おそらくはこれで正しかったのだろう。
アズルトは安堵し、乱れた髪を整えるように幾度か手を動かす。
それは撫でると言うにはあまりにも拙い、なんとも不器用なものであったが、気づけばクレアトゥールの緊張も解け、撫でられるに任せていた。
「おまえを助けて良かったと思っている。俺は嘘も隠し事も多い人間だからな。おまえは気安い」
「あたしも……おまえがいて良かったって、思ってる」
金色がちらりと見上げ、すぐに足元に落ちる。頬がほんのりと赤い。照れているのかもしれない。そういう姿を見せられると、アズルトとしてもたいへん困る。
年頃の少女の頭を撫でているというこの状況。初めて尽くしでアズルトの鋼の平常心さえ今にも溶け出してしまいそうだった。
「そいつは光栄だ。納得はできたか」
「信じてもいい」
最後に二度、軽く撫でて手を離す。名残を惜しむ視線には気づいたが、どう考えても
思えばクレアトゥールがそうした願望を表に出すこと自体、妙な話であった。なにせ彼女はもう二年以上、そうした感情とは無縁の環境で
これはそれ以前、子供であった彼女の記憶に由来する行い。
そのことに気づいた今となっては、彼女の好意的な感情は恐ろしく、ちりちりとアズルトの保身を危機感で炙った。
クレアトゥールがなぜそんなものをアズルトに求めたかは預かり知るところではない。知りたくもない、と思っている。思っていたと言うべきか。
時計の針はすでに動き出してしまった。
好奇心は猫を殺す。
彼の諺の如く、アズルトは高い授業料を払うことになるだろう。
経験を欲し手を伸ばした先は、アズルトが頑なに避け続けてきた彼女の過去に通じていた。失態である。注意深く事に当たっていれば気づけたはずだ。想像力が欠けていた。
いや、欠いていたのはそれこそ経験かと、抜け出せぬ負の円環に苦虫を噛み潰す思いだった。
練技場を満たしていた炎が間もなく消える。
アズルトは停滞する思考を切り上げることにした。
「さてと、戻るぞ」
「ん」
あえてぶっきらぼうに言ったのだが、尻尾は軽快に揺れた。
やはり、褒めるという行為のもたらす影響は軽視できないなと、自らの体験を含め、丁寧に記憶に仕舞う。
転んでもただは起きないのがアズルトという人間だ。後の負債を抱え込んだからにはせめて今を有効活用しようと、すでに思考は計算と打算に切り替わっていた。
クレアトゥールの機嫌はすこぶる良い。これ以上ないというほどに、だ。計画を次の段階に進めるならば、今日という日を逃す手はないだろう。
アズルトの決断は早かった。
「部屋に帰ったら、今後についていくつか相談したいことがある」
流血の痕跡を焼失した練技場に背を向けて、隣を歩く少女に告げる。
見上げた彼女は金色を瞬かせ、そしてこくりと小さく頷いた。
すべてはここから、ようやく始まる。
長かった
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