第49話 気晴らしと流血と・前

 騎士養成学校イファリスに四つある寮棟には訓練のための施設が入った専用棟が併設されている。考査の結果により変動する組ではなく、寮を基準に振り分けられるこれら施設は、本棟で利用できるものとは違ってどこも同等の設備が整えられている。

 他寮の生徒の立ち入りは原則として禁止。それは騎士の手の内を外へと漏らさぬことを目的とした、騎士養成学校イファリス設立当初から定められている規則だった。寮を単位とする縦割りの構図がもっとも如実に表れた建物であると言えるかもしれない。

 作中での出番はそれほどなかったとアズルトは記憶している。

 横の結びつきが強かったためか、本棟の施設に比べると最低限の設備しか整えられていないためか、あるいはその両方が理由と考えられる。けれどそれば逆を言えば従来的な、とりわけ下位の組にとっては相対的に重要度の高い施設であることを意味している。


 北寮専用棟にある小規模の屋内訓練室、第四練技場では先々刻よりびちゃびちゃと耳障りな水音を立て、真っ当な精神の持ち主なら正視することを躊躇うような光景が繰り広げられている。

 肉を打つ響きに爆ぜる空気の音が混じっては飛沫が舞い、峻烈な赤が視界を侵してゆく。

 第四練技場はさながら戦場を思わせた。噎せ返るような魔力と血と脂の臭いは、慣れぬ者が嗅げばそれだけで吐き気を催すほどに濃い。

 土の敷かれた床面は赤く濡れそぼって、至る所に血だまりが生じていた。歪に磨り潰された肉屑が折り重なり、所々に見える骨片の白さが目を引く。

 少なく見積もって十数人、ともすれば数十にも及ぶヒトの構成物。

 それらを無造作に蹴散らして、全身を赤く濡らした二人が拳を交えている。


 膝丈の道着のズボンのみを身に着けたアズルトが、溜めた膝に垂れかかる臓物を無造作に引きちぎり放り捨てたのと、クレアトゥールが道着から紅の尾を引き地を蹴ったのはほぼ同時。

 脇腹の損傷の重さに回避行動を放棄したアズルトは、左手で腸を腹の穴へと押し込むと、迫るクレアトゥールの掌底を右手で払うようにして掴み取った。


 今ひとたび破裂音が響く。

 触れた指先を、掌を介し瞬間的に膨大な量の破壊的な魔力を叩き込まれ、それに耐えきれなくなった肉体が内部から崩壊したのだ。

 骨と肉だったものが皮膚を突き破り辺りに撒き散らされる。

 アズルトはそれを表情ひとつ変えず無視すると、掴んだ掌を頼りにクレアトゥールの運動方向をずらし、コンマ一秒にも満たぬ隙を生み出す。

 文字通り刹那の後。密着するほどに間合いを殺したアズルトが、勢いそのまま膝をクレアトゥールの腹へと叩き込んだ。


「――ッく」


 始点と終点のみからなるような、神経伝達が可能とする筋運動を完全に無視した挙動だった。全身の筋肉すべてを同時に最高速へと至らしめるそれには初動というものが存在せず、ゆえに完全に不意を突く形で闘気は弾け、彼女の小柄な体を後方へと冗談のように吹き飛ばす。


 アズルトは追撃をしない。ばかりか、即座に蹴りを決めた足で泥土を踏み抜き、余勢を殺しながら側方へと跳ぶことで、クレアトゥールとの距離をわずかでも稼ぐ。

 応急的に覆った腹の皮膚が裂けるが、それよりも右腕の具合が問題だった。

 間合いが開いた数秒で潰れた右腕の状態を確認する。


 力なく体側に垂れるは、肩口に至るまで破断した骨とずたぼろの筋繊維で辛うじて繋がっているだけの無残な有様。

 魔術の発達したラケルであっても治療には困難を伴う重度の負傷。普通の人間であればこれひとつ取っても恐慌状態パニックに陥ること請け合いだ。仮に騎士でも冷静ではいられまい。激痛と止めどなく溢れ出る血液いのち。死を意識させるほどの負傷なのだ。もっとも、命を繋ぎ留めるだけならば魔術を頼れば造作もない。腕を捨てればよいのだ。そしてそれを知るからこそ、多くの騎士は冷静ではいられない。


 だがこの場で対峙する二人はいずれも、そんなまともな思考とは無縁の人間であった。

 アズルトは淡々と傷の状態を分析し、想定よりも若干酷いと結論を下す。

 想定だ。アズルトにとってこの傷は――腹の傷もまた――計画的に負ったものなのだから。

 クレアトゥールの放つ攻撃性を付与されているだけのただの魔力に、ニザの地獄を生き抜いたアズルトを害するほどの力はない。したがってこれらの負傷はアズルトが自ら守りに穴を開け、手ごたえを感じる程度に妨害しつつ定められた範囲で暴れさせた結果、とでもなろうか。

 傷の程度はアズルトの設定した範囲を逸脱するものではなかった。けれど、立ち合うなかで徐々にその上限へと詰められつつある。ゆえに想定以上と彼女の導いた結果を評価した。


 アズルトは己の口の端が緩んでいることに気づく。

 けれどそれも瞬きの内に消えた。感慨に浸っている余裕は今のアズルトにはない。即座に回復までに要する時間を算出すると、後方へステップを踏み体を捻る。

 喉元狙いの初撃、それが避けられることを前提とした右体側狙いの次撃。

 いずれも速度を重視した貫手だが、先ほど腹に大穴を空けてくれたのもそれだ。腹の傷も癒え切らぬ今、そんなものを受けてやるわけにはいかなかった。

 クレアトゥールの立て続けの猛攻を左腕と体術で無理やり捌く。


 経験と技量では勝っているはずなのだが、彼女の身体強化に制限を設けてなお、アズルトは守勢を強いられる。

 避けたはずの爪先が頬をかすめ、破壊を求める魔力が頬の肉をごっそりとこそぎ取ってゆく。意識を刈るほどの衝撃が脳を揺さぶるが、吹き飛ばされることさえあるニザでこの手のものには慣れている。

 肉体のうからの情報を絞り魔力体いしきから直に体に指示を飛ばす。


 続けざまに放たれた後ろ回し蹴りを左の掌底によって軌道変更。瞬時に身をかがめ回避するとともに軸足を狙って足払いをかけるが、跳んで避けたクレアトゥールは宙で器用に体勢を整え、鋭い蹴りを見舞ってくる。と言ってもこれ自体はただの牽制だ。

 ヒトにとって地に足がついていない状態というのは不安定な、自由の利かない、隙を晒すに等しい状態である。創作物では当たり前のように行われている空中からの攻撃は、現実では多大なリスクを伴う。

 けれど、現実であればこそ例外も存在する。他のヒトにはない尻尾という器官を持つ獣人は空中での姿勢制御が得てして上手い。ことクレアトゥールについて言えば素の身体能力の高さと柔軟性が相まって、迂闊に手を出そうものなら手痛い逆撃を喰らう攻めの体勢だ。武器があればまた別だが、徒手空拳でアズルトが優位性を保てる場面ではない。


 次を諦めたアズルトは攻め気だけぶつけると、後方へと滑るように跳躍しコンマ単位の時間を稼ぐことを選んだ。

 音もなく着地したクレアトゥールが踏み込む素振りを見せる――が、実際には尻尾を軽く揺らしてみせただけだった。

 仕切り直しだろうか。

 アズルトが風通しのよくなった口腔から血と肉と砕けた歯を吐き出すと、ふっと息を吐いたクレアトゥールが大きく肩で息をした。

 それが終了の合図となった。


 アズルトも魔力による身体能力の強化を止める。すると、途端に強い倦怠感が襲う。

 低下した心肺機能が強化の余韻を残す肉体の要求で悲鳴を上げ、すこしばかり呼吸が乱れた。

 系を独立させ、要に応じて術の強度を変える方法もあるが、宝珠を得て間もないアズルトが使う技術としては高等に過ぎる。ゆえにこれは入学当初から続く立ち合いの終わりを意味する儀式だった。


 息を整えると、指先で頬を撫で、そこにあった穴が塞がったのを確かめつつ、膝に手を当て疲労も顕わなクレアトゥールへと歩み寄る。

「身体は?」

「ん、へーき。おまえこそ――」

 俯き気味だった顔を上げ、辺りを見渡し口籠る。

 瞳に映るのは夥しい量の血が流れた痕跡。

 アズルトの記憶は曖昧であるが、練技場は例えるならバスケットコート半面ほどの面積を持つ空間だ。そのおよそ半分が赤泥に変じ、幾つもの血だまりを生じさせている。到底、個人が流してよい血の量ではなかった。

 条理を外れたそれはいかにも悍ましく、ヒトの心を怖れで濁らせる。

 もっとも、そんな普遍的な心理を彼女に説いたところで徒労に終わるのは明白だ。

 今、彼女の関心はまるで別のところに向けられていた。


 険のある眼差しがアズルトを見上げる。

「その、大丈夫なのか?」

 萎れた耳は眼や口よりも雄弁に感情を吐露する。

 自分でやっておいて聞きにくい、そもそも聞いてよいのだろうか、怒るかもしれない、それはちょっと嫌だ、でももし問題があるなら。なんて具合にぐるぐると思い悩んでいるのだ。表情が硬いのも大方それが原因である。

「いつもと同じだろ」

「違うから聞いてるんだぞ?」

 誤魔化しではなく、冗談でとぼけているだけと見抜いたのだろう。たちまちに目つきがじっとりとしたものへと変わる。


「素振り一万本を日課にしている生徒がいるとする」

 肩を回し、すっかり元通りになった右腕を確かめながら言葉を続ける。

「ある日、その生徒は授業の空いた時間でうちの千本を消化した。黙々と型をなぞる彼を級友らは称賛した。また別の日、野外実習があった。彼は限られた時間を有効活用するため、級友らの前で五千本の素振りを披露する。級友たちはたいそう驚き彼を称賛した。その生徒には彼らがなにを褒め称えているのかがわからなかった」

「……無理してるんじゃないなら、いい」


 ついと顔を背けたのは照れ隠しだろうか。

 などと呑気な考えに浸っていられたのも束の間のこと、戻ってきた黄金色に鋭く睨まれる。

「代金」

 その一語で不機嫌の理由を察することができた。

 アズルトは今回、薬を服用していない。それはつまり、そうした物に頼らずとも傷を癒す手段があるのだと明かしたに等しい。

 その譲歩が彼女にはお気に召さなかったらしい。

「あたし、払うって言った」

「阿呆、だからだろ。再生者リジェネレーターを装う治療薬にどれだけかかると思ってる。それともなんだ、有無を言わさず金で縛りつけて欲しいのか?」

「んと、どれくらい?」

「卒業までに倍額の借金ですめばいいな」


 再生者リジェネレーターと呼ばれる自己復元魔術に秀でた騎士たちがいる。負った傷を即座に塞ぎ、失われた血液さえ瞬く間に補填する。条理を捻じ曲げ顕現させる魔術によって体現された狂戦士。

 だが彼らをしてもアズルトの再生能力の域にあるのは、赤位でも上位に分けられる者たちだけであろう。再生者リジェネレーターの身体修復能力は使用者の多い治癒系統の魔術では為し得ない。原理を根本から異にするの系統か、生体変化系統による身体構造の改変を用いて為される超常の業だ。魔法薬で代替しようとすれば高価な薬を湯水のごとく使う必要がある。

「ごめん」

「小難しく考えなくていい。お互い、時間は有意義に使うべきだ」

 こくりと、クレアトゥールは素直に頷く。

 すでに明かされてしまった秘事について、堂々巡りの思考はそれこそ無益だ。時は貴重であり、考えるべきは過去ではなく現在とそして未来にある。


「それで、満足はできたのか」

「ちょっときもち悪い」

「軽い魔力欠乏症だろう。ずいぶんとはしゃいでいたみたいだからな」

「そんなでも、ないし」

 ふいと顔を背けるその表情はいつになく柔らかい。返り血で全身を赤く染め上げ、毛先から血の雫を垂らしながらとなると、はたから見ればホラーな光景であったろうが。

 かれこれ二刻にわたって続けられた、膨大な魔力をただただ暴力に変換し吐き出すだけの行為。普段の気晴らしと異なり、思いきり体を動かしたいという要望があったため徒手格闘戦の形態で限界まで行ったわけであるが、骨を折った分の成果は出ているようだ。


「これから……いや、先に後始末だな。心の準備は?」

 必要最低限の確認は果たした。ならば次に優先すべきは会話ではなくこの状況の隠滅だ。施錠はしてあるし、監督役であるカンカ・ディアも防諜用の結界術を残してくれているが、それでも不測は起こり得るものだ。これをクレアトゥール以外の者に見られるのは非常に不味い。

「んーッ、もうなくていいって言っただろ!」

「忘れたな」

 嘯いて指を弾く。

 すると火打石のように閃光が散り、その身もろとも練技場が鉄錆た焔に呑み込まれた。

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