第46話 共謀者の頼み事
大仕事を終えたアズルトは、部屋に帰り着くなり寝台に突っ伏していた。
元よりアズルトは他者と関わることが苦手だ。いっそ苦痛であると言い表してもよい。それは病床に縛られた生前であったり、死に物狂いで駆け抜けた戦場であったり、要因などと堅苦しく考えるまでもない。
彼のこれまでの生において不必要だった、ただそれだけのことである。
ましてやアズルトは自らを取り立てて語るべきところのない凡夫と定義している。
愉楽と諦念に死した生前は言うなれば小心の傍観者であろうか。
そうしたアズルトであるから、この度の企てには入念に準備を整えた上で臨んだ。
理詰めの会話はそのすべてだ。
もちろん痕跡を残さぬよう外堀も埋めてある。
教官の巡回の時間は完全に把握していたし、アズルトが動いた時間に廊下で控えていた寮会の騎士もバルデンリンドの関係者だ。
その準備の最終段階、寮会からの帰りでキャスパーと出くわし鍛錬に誘われたのは想定外であったが、彼をこの段階で寮会へと誘導できたのは、先々を思えばプラスに働くことだろう。
思うままに物事を進められると考えるのは傲慢だ。世界とはもっと強かで、そして残酷なものであるのだから。それでも、アズルトは持てる知識総てを使って仕掛けを施した。
人事を尽くして天命を待つという言葉はアズルトの好むところではないが、今しばらくは待つことしかできないのもまた変え難い事実なのである。
効果のほどによっては代案を動かす必要もある、が――今は忘れたいというのが、仕事を終えたばかりのアズルトの心を占有する願望だ。
騎士とも呼べぬ実験体崩れの戦闘員としては、命の奪い合いをしている方が気楽というものである。ヒトを動かすなんて面倒は誰かに任せたいのが本音だった。いや、本音もなにもオルウェンキスにすべてを押し付けるためアズルトは手を尽くしているのだ。
餅は餅屋。貴族に相対すべきが貴族ならば、王侯に差し込むべきはやはり同じ王侯。
件の騒動でオルウェンキスが矢面に立ったのは、アズルトにとって今後の立ち回りを考える上で実に都合がよろしかった。ランクートの敵意を引き受けられる貴族は限られる。それこそバルデンリンドとソシアラくらいなもの。ゲッヴェでさえランクートの脅威としては物足りない。
問題があるとすればオルウェンキスのあの性格だ。これを手前の私的な闘争と線引くか、派閥組織を巻き込む抗争と認めるか。
アズルトの企みも畢竟それ次第というわけである。
運ゲーじみていてまこと憂鬱。せめて天秤を極限まで傾けたい思いに駆られるが、盤面に跡を残しては本末転倒というもの。
最後の決断は彼らの意思によってのみ為されることが望ましい。いっそう強い表現を選ぶならば前提条件だ。
彼らの不確かな心に委ねればこそ、アズルトの言葉は雑多な音に紛れ埋没することができる。
――止めだ。
アズルトは陰気な思考を振り払うべく、隣の寝台へと意識を移した。
そこには例のごとく書物を広げた
いつからだろうかと思い返すも答えが出ようはずもない。
自らの心労がことのほか重いらしいことを、アズルトは胸の内で歎息する。
そんなアズルトの意識の移ろいはクレアトゥールには筒抜けであったようだ。目線を手元の本から外すと、黄金色にアズルトを映す。
「疲れてる」
「野暮用を片づけてきた」
あえて言葉にするのは、大抵の物事を素知らぬ体で流すクレアトゥールにしては珍しい。それはアズルトにしても同じで、はぐらかさずに応えたのは、それゆえにと言えるだろう。
「ん、いまは止めたほうがいい?」
「急ぎか」
「たぶん、わりと?」
うつ伏せていた身を起こし座りなおす。
疑問形なのが甚だ不安を誘うが、アズルトは逡巡すら挟まず次の言葉を促した。
妙だとは思った。それはここまでの会話の流れについても言えることだ。だからこそ躊躇いも抱かなかった。
それこそ妙な、予感があったとでも言おうか。
「……あのさ。んと、怒るか?」
すうっと疲労感が霧消する。煮立っていた頭が瞬時に冷える。
それだけで言葉の先が己の
魔力体に繋がれた戒律が遠く、けれど喧しく警鐘を鳴らしている。
けれどアズルトはそれらすべてをまとめて足蹴にすると、努めて普段と変わらぬ調子で確認のための文言を口にした。
「いや、言葉が足りないにもほどがあるだろう。いくら俺でもそれで言いたいことすべてを察するのは無理があるぞ。俺の不興を買うに足る利がその問いにはあるんだな」
「おまえばかか、あるわけないだろ。頼るって言ったの聞いてなかったのか?」
大上段である。
不機嫌さすら滲ませる物言いにはさしものアズルトも唖然として言葉を失う。
「あたしにあれの相手とか無理だし、だから言う前に聞いてるんだぞ。放り出されたら、ちょっと困る」
伏せ気味になった両の耳が、言葉よりも如実にその不安を表している。
それを目に留め、アズルトは盛大にため息こぼした。クレアトゥールに向けたものではない。愚かしい、己の判断に向けてのものだ。
アズルトは腰の後ろに手を回し留め金を外すと、手にしたそれをクレアトゥールへと放る。
「預けておく」
「短剣……いいのか?」
どこかぼんやりとして見える表情はその意図を察したためだろう。
そういうところは本当に聡い娘なのだ。
「大目に見る。そいつはまあ保険だ」
本来ならば始末しなければならないような話が飛び出したとき、己を止めるための。
部屋で匿うことを決めた時点で、己の秘密すべてを隠匿するという考えは捨てていた。それほど鈍い相手ではない。触れるべきではないところも相応に弁えている。
不器用な確認もつまるところそれだ。、
「宝珠を得てお互いやりたいことが増えるだろ。俺もおまえには頼みたいことがあるからな」
貸しを作るような言い回しは、その方が気兼ねしないだろうとの思惑あってのもの。
もっとも、不機嫌に戻った表情と荒っぽい尻尾の動きを見るに、そんなアズルトのお節介は筒抜けであったようだが。
「なら、言う。あたし、力の殺し方を覚えたい」
アズルトはクレアトゥールの言葉の意味を慎重に読み解く。
まず隠匿している事実という前提がある。であれば手加減とは別、もちろん自制がどうという話とも違う。
その上で心当たりとなると、極めて厄介な結論へと行き着く。
アズルトにはその出自を
そうしたなかには当然、運動機能も含まれている。
しかしながらそれと断定するのは早計だ。仮にそうだとして露見までの過程は?
――違う、と。アズルトは進めた思考の足を止める。
どこかで似たような話をした、そんな既知感にも似た
「ぅ、怒ったか?」
「なるほどな。いつぞや学食でしていた話の絡みか」
「覚えてたんだ」
「考えておくと言われたからな、忘れるわけないだろ」
あれ以来、魔力の無断使用に繋がる迂闊な発言が絶えたことも含めて覚えている。
すぐに繋がらなかったのは、相も変わらず発言が突飛なせいだ。
それに、聡いことは知っていたがこうも容易く見抜かれるとは考えてもいなかった。
当初のアズルトの設定から制約をいくらか緩めてはいるが、そうと分かる形で外したことはない。つまり、掌握できていない失態がどこかにあるということだ。
アズルトは慎重に言葉を探す。
「覚えてどうする」
「使うんだろ?」
「役に立たないと証明されたのにか」
「そうなのか?」
「……おまえどうやって気づいた」
「あたし、持久力は自信あった」
脈絡なく聞こえる発言。アズルトとしてはなんのことやらだが、繋がりはあるのだろう。おそらく。
学食での会話を必死で思い返す。
あれはメナ水準の基礎鍛錬を強要されて疲弊していたときに交わされたものだった。『なぜ疲れるのか』と、そんな問いに始まっていたはずだ。素の身体能力の差を理由にして言及を逃れ、クレアトゥールの鍛錬に魔力を使って同行していることを指摘され――。
「えっと。サスケントでも勝てる奴、いなかったよ?」
沈黙しているとクレアトゥールが言葉を重ねた。そしてそれによって謎は氷解する。
口にしている持久力とはつまるところ魔力量のことだ。
干渉能、根源、神理――それの定義は未だアズルトには難しいが、世に言う魔力とは無尽蔵に湧き出でてくるものではない。数多あるゲームで魔法やそれに準ずる能力を行使するのにコストを消費するように、魔力とは用いれば失われるものである。
学術的に言えば消失とはまた別の現象になるのだろうが、今は脇に置いておこう。
騎士に限らず、定められた魔力をやりくりし戦う魔道士は総じて持久戦に難を抱えるものなのだ。技に練達し効率的な運用が可能となろうと、成長に伴い魔力量が増えようと、扱う魔術が高度なものとなるに従い要求される魔力も増大してゆく。
騎士号を得た時点における全力での戦闘可能時間が、その者の生涯におけるおおよその限界戦闘時間であるとの研究論文は、教会において高い評価を得ており、騎士運用の指標のひとつとして定められている。
黒位に匹敵する規格外の魔力量を誇るクレアトゥールを相手に、魔法的持久力で勝る騎士は限られる。負け無しと豪語するからには配分や、相手の力量を見抜く目にも優れているのだろう。
であればおそらくは――。
「朝の鍛錬、何度目かの時に無茶をしたな」
「諦めると思った」
あの頃、アズルトがクレアトゥールを推し量っていたように、クレアトゥールもまたアズルトを推し量っていたのだろう。そのなかでアズルトの魔力量の齟齬を見抜いた。気づけなかったのはおそらく、その基準がアズルトからすればあまりにも小ささなものであったからだ。
「それで」
「ん?」
「いまさらその馬鹿げた魔力を誤魔化そうなんて思っているわけじゃないんだろ。ここからどうして力を殺すって発想になる」
「言っていいのか?」
「目を瞑る」
「……余裕、あるから。手加減されてるって、全然そんなことないのに思う。でもそれはおかしくて。同じだって考えた」
途切れがちな言葉を繋ぎ、辛うじて形作られた理屈は、正しくは勘と呼ぶべき類のものだった。
それだけに、アズルトは苦々しさとともに舌を巻く。
非正規の騎士であることを悟られぬため、アズルト・ベイ・ウォルトランは紛うことなき候補生でなければならなかった。
バッテシュメヘ教官のような手練れの騎士や、メナのような観察眼に優れた候補生を出し抜くには、生半可な偽装ではまるで足りない。
制約が施されているのは手加減が介在する余地を奪うためだ。身の丈に合った全力。出し惜しみなし。掛け値なしの
入学初日の事故により、当初の計画からアズルトの能力を引き上げてはいるが、方針は維持している。
彼らと対するときは細心の注意でもって臨んできた。クレアトゥールとて同じだ。警戒すべき対象のひとりとして刃を交えている。
だが、アズルトは
クレアトゥールの言は核心を突いている。
アズルトは
アズルトの戦いはニザに根差したものだ。役に忠実たれとどれほど己を律しようと、付け焼刃の三文役者にその心根までは務まらない。アズルトがその気になるとは、すなわちリドとしての本性を晒すに足るということだ。死地ということだ。
そんなものを要する局面が果たして起こり得るのか。
応えは否だとアズルトは考えている。少なくとも、生徒や教官を相手取っている間は。
なぜそんなに疲れているのか――見抜かれていたのなら納得もゆく。
そして驚嘆すべきことに、クレアトゥールはそれを今日に至るまでいっさい気取らせることなく過ごしてきた。
腹芸ができるほど器用な娘ではない。
ここまでの会話でわかるように、線引きをし立ち入らぬことを己に課している。
そういう娘であることは承知していた。だからこそ
ただいま少し評価を改める必要があるとアズルトは考える。
目的遂行に必要な鍵、あるいは手札、駒。そうしたもので終わらせるにはいささか惜しいと思えた。共謀者として彼女ほど好条件の相手は他にはいるまい。
入れ込むのは好ましくない。手放すのを惜しんでは
矛盾だ。それが
「なんでそこで笑うんだよ」
どうやら顔に出ていたらしい。誤魔化すように指先で頬を撫でる。
アズルトにとっては笑えない話であるはずなのだから。
「理由。なぜ望む」
「邪魔だから。力を得るためにきた」
簡潔に、そして強い意志を感じさせる声で言う。
もっとも、続く言葉にそれは当て嵌まらない。
「誤魔化さないんだな」
「言っただろう、大目に見るって。それに、互いの利益はどうやら同じところにあるらしい」
尻尾が楽し気に揺れる。
アズルトの答えはもう決まったようなものだ。けれどそれを告げる前に、片づけておくべき疑問がいくつか残されている。
「ひとつ意見を聞きたい。メナは気づいていると思うか」
「だったら頼んでない」
思いもかけぬクレアトゥールの応えに寸時、アズルトは次の言葉を見失った。
なぜなら、彼女の言葉が意味するところはすなわち――。
「あいつを遠ざけたいのか、気に入っていただろ」
「自分がどんな奴か思い出したから。危ないなら近づけない方がいい。おまえもその方が楽だろ」
本来ならば歓迎すべき決断。しかしこのときアズルトの脳髄を満たしたのは否定的な思考ばかり。
危うさを覚えた。
心を削らせている。
それはやがて歪みへと繋がるだろう。
果てに待つのは暴発だ。暴力性の発露とはまた別の形の。
自由を与えることで精神負荷を最小限に抑えようとした。己が負担なのだから、他で縛りは設けるまいと。
だというのに、クレアトゥールは自らその退路を塞ごうとしている。
失敗したと思った。焦燥もあったのかもしれない。
「しばらく前から気になっていたことがある」
言葉が吐いて出た。
上手くいきすぎていたのだと、アズルトは自らの勘違いに気付く。そんなはずはなかったのだ。アズルトにできることなどたかが知れている。
他人の心などアズルトにはわからない。感情を追い立て論理で敷いた道へと誘い込み、己の求める結論へと導く。アズルトにできるのはそれがすべてだ。
匙加減を誤ったのだろう。だからクレアトゥールは逃げるべき道を見失った。
「おまえは四六時中俺といて息が詰まったりしないのか」
「なにが?」
小首まで傾げ、心底不思議そうに問い返された。
「……恨まれるくらいのことはしたはずなんだけどな」
不機嫌に見える黄金の双眸がじっとアズルトを映す。
その背後でぱたぱたと動く尻尾は如何な感情の表れか。そしてひときわ大きく尻尾が揺れると、ふっと気配が緩んだ。
「別に。おまえはものすごく酷い奴だけど憎らしいけど、一緒にいるのが嫌なわけじゃない。だからこれでいい」
笑われたのかもしれないと思い至ったのは、罵倒ともつかぬ宣言を聞き終え、機嫌が良さそうに緩く降られるその尻尾を目にしてのことだった。
失敗はしたのだろう。アズルトの立てた計画にはクレアトゥールとのこのような関係は含まれていない。
ここに至るまで、いったいいくつの過ちを積み重ねてきたのだろうか。
その答えすらもアズルトには遠く、己が身の不甲斐なさを痛感させられる。
「そうか。適性はあると思うが身につくかは知らないぞ」
「ん」
小さな頷きに、嬉し気なその
思うままに物事を進められると考えるのは傲慢だ。
矮小な個人に過ぎぬアズルトにできることなどたかが知れている。
ディスケンスらについても多くは望むまい。彼らには彼らの生き方がある。それをアズルトの言葉ひとつでどうかしようなど思い上がりも甚だしい。
なにかを変えようというのであれば、相応の代償と覚悟を持って臨まねばならない。
アズルトは
代案を詰めておくべきだろう。
オルウェンキスに挑む、その時のために。
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