第42話 ある候補生らの試練三日目2
アズルト・ベイ・ウォルトラン。
入学初日からの度重なる反省室送り、日々悪評を深める学園きっての問題児クレアトゥールの相方として、彼はあまりにも有名だった。
初日の私闘の印象が強い級友らからは、そのクレアトゥールと並び恐れられる存在だ。
もっとも、立場もあって言葉を交わす機会の多いフェルトには彼が、皆が恐れるほどの危険人物とは思えずにいる。受け答えは理性的で、あの私闘こそなにかの間違いであったのではと、疑念さえ抱かせるほど。
不穏な噂は確かに耳にする。
学食でランクートの公女殿下とやり合ったなどという話はその最たるものだ。
常軌を逸していると、第三者の立場に立ってみればそう評価せざるを得ない、あまりにも愚かしい行為。
けれど、その動機を頭ごなしに否定することはフェルトにはできそうになかった。
ここしばらく四組で引き起こされた騒ぎの大半には公国の貴族が絡んでいる。直接的な害を被っていないフェルトでさえ、彼らの横暴な態度には辟易していた。まして当事者ともなれば、その鬱憤はいかほどのものか。
それでも、勝るのは有り得ないという強い否定の感情だけ。
フェルトのような平民に許されているのは、黙って耐え忍び嵐が去るのを待つ、ただそれだけなのだ。反論はおろか言葉を発することさえ、相手の意向に従う必要がある。
そのためフェルトは貴族だからと、アズルトの行動に理由を付けていた。バルデンリンド公爵家という、コルレラータ子爵家とは比較にもならないほどの大貴族の後ろ盾までもっている。
立場が違うから、その行いも違ってきて、理解できぬのはそれで当然なのだと。
幸運にしてフェルトはその理屈を補強する材料も得ていた。
アズルトと同じくバルデンリンド領の貴族であるグリフとはしばしば食事を共にする間柄で、その件について意見を聞く機会があったのだ。
彼曰く、高位貴族に刃向かう行為は正気を疑うが、その場で述べられた諸々は
浮かない表情が気にかかりはしたものの、これによってフェルトは件の噂をアズルトなりに貴族としての筋を通した結果なのだと解釈するに至った。だからアズルトはどちらかと言えば巻き込まれた側であると、この時までフェルトは認識していたのである。
そしてそれゆえに、この来訪は不可解さを伴った。
脳裏を過るのは、いつぞや教室で行われたアズルトとメナとの
あれは後にメナが自ら貴族絡みの話であることを仄めかし、周囲の騒ぎにひとまずの決着をつけたものの、疑惑は残されていた。それもほどなくして起きた北寮会を巻き込む大事件によって、有耶無耶のまま流れてしまっていたのだが、ここにきて思い出されたことにはどうしても必然めいたものを感じてしまう。
いや、必然なのだと思い直す。
まず見ることのないアズルトの能動的な行動だ。それならば、と。
フェルトはこの来訪がそれ
「立てるか」
「いらねえよ……ッ、余計な」
「見栄を張るのはいい。ただ、俺はその価値のある相手か」
「気に入らねえ」
扉口から聞こえる険悪なやり取りにフェルトは寝台から抜け出そうと、己を叱咤し重い身体を持ち上げる。
しかし――。
「無理して起きることはない。すぐそっちに行く」
死角となっていて見えないはずが、そんな言葉を投げかけられ意図せず動きが止まる。
「ということでいいか?」
「勝手にしろ。平民の俺に拒否権があんのかよ」
ディカの悪態を背中で聞き流すように、アズルトはふらりと気安さすら漂わせフェルトの前へと姿を現した。
疲労の片鱗さえ掴めぬその動きを目にし、フェルトは彼が
「具合はどうだ」
つまらなさそうに――それが彼の常ではあるのだが――かけられた言葉の真意をフェルトは測りかねた。
社交辞令の単語が浮かぶも、どうにも据わりの悪さが拭えない。
アズルトという貴族にはあまりにも似つかわしくない行いだと感じられたのだ。
「御覧の通りの有様です。未だ満足に身動きも取れず、情けない姿でお目を汚しています」
「卑下するようなことか」
そこでアズルトはなぜかディカを一瞥した。
「見たところ接続は保っているんだろう」
再び見下ろすその錆色の瞳は、相も変わらずなにを考えているのかが読めない。
「あんた、なにしに来たんだよ」
寝台の縁に音を立てて腰かけたディカが、鋭い眼差しとともに咬みつく。
ディカの態度にアズルトは気分を害さないかと、フェルトはすこしだけ冷や冷やする。
それが要らぬ心配であろうことは、クレアトゥールへのアズルトの応対を見るに明らかであるし、公言もしているのだが。
事実、フェルトは初めて言葉を交わした折に当人から敬意も敬語も不要と断りを入れられた。
未だ改められずにいるのは、ひとえに負い目があるからだ。
「見舞い以外のなんに見える」
「おいおいおい、冗談きついぜ」
なに寝ぼけたこと言ってやがんだこいつはとばかりに、ディカは頭を抱える素振りを見せた。そうして下から睨めつけるようにして、平民が貴族に向けるものとしてはあまりに非礼にすぎる言葉を吐きかける。
「てめえそんな殊勝な人間じゃねえだろ」
「酷い言われようだな」
こぼれたため息とは裏腹に、その表情はどこ吹く風。
「これでも半分はそのつもりでいたんだよ。まあ、どちらでもいいか……。あんたらなら、俺とも遠慮なく話ができるだろう」
「……アズルト・ベイは貴族ですよ」
「そんなものは時と場合によるだろう。ついでに言わせてもらうとそいつはある意味で正しく、けれど実態としては誤りだ。うちは主家から辺境の領地の管理を任せられているだけの零細貴族。あんたらの主であるコルレラータ家と同じ括りで見られては困るし、都市を預かるクレファムダ家とも家格は同じでも役割がまるで違う。それに……ウォルトラン家は後継ぎにだけは恵まれているんだよ。四男である俺の居場所なんてあの家にはないのさ」
騎士になれなければ平民だ、敬語なんて使うだけ馬鹿をみる。
平然と、まるで
フェルトにはそれがランクートの公女殿下を相手取り、貴族としての在り方を問い質した噂の人物とはどこか噛み合わないような印象を受けた。
それでも、ここでの提案には素直に従っておくべきと、直感の囁きには同意を示す。
「クレアトゥールが部屋にいるのは知っているだろ」
「……耳には入ってくるよ」
フェルトは曖昧に濁した。
見て見ぬふりをする――それが北寮の決定だったからだ。
事件の翌朝、北寮の予科生の部屋にはある通知が届けられた。
読むと消える魔法文で記されたそれは、件の問題児の北寮における扱いを示すものだ。その中には、クレアトゥールがアズルトの監視下で生活することを容認する一文が含まれていた。
公的な措置ではないのだろう。通知の形態がその事実を物語っていた。
つまるところ北寮会は、アズルトらの件について黙認することを内々に周知徹底させたのである。
こうした寮会の対応はとても珍しいものだとココトが教えてくれた。
他寮の生徒が集団で押しかけ秩序を乱すという規則の際を突く行為がそもそも類を見ないものであるようだから、既存の手段では阻止が難しかったということなのだろう。
「俺もとうとう当事者の仲間入りというわけだ」
彼はなにを言っているのだろうかと、そのあまりにも今さらな発言にフェルトはたまらずディカと顔を見合わせる。若干その頬が引きつって見えるのは、アズルトがこれを冗談の類で口にしたとは到底思えなかったからだろう。フェルトとてその心中は穏やかとは言い難い。
フェルトにとって、いや四組の大部分の生徒にとってアズルトは、クレアトゥールが公国貴族に絡まれたその時から、今に至る一連の騒動の当事者に他ならなかった。
学園生活のその始まりの日。フェルトら四組の面々はクレアトゥールとの対話を放棄した。
試みそのものは行われた。けれど彼女にはそれに応える意思はなく、明確な拒絶だけが突き付けられた。
無軌道な暴力の扱いに窮した四組は結論を急ぎ過ぎたのだと思う。
そうして採択されたのは、同等の暴力をもって抑え込むという身も蓋もない方策だった。アズルトに彼女を押し付けた負い目を、四組の皆はひそかに抱えている。
彼らのアズルトを恐れる心には、不満の矛先が向けられるのではないかという不安が根を張っているのだ。
フェルトにしても、それを完全に否定するのは難しい。
自らがその提案を口にしたのではないのだとしても、無言のうちに賛意を示したのは紛れもない事実なのだから。
率先してアズルトとの仲介役を買って出るのも、その後ろめたい心を少しでも紛らわせたいがためなのだと、今ならば気づくことができた。
「先日の騒動――」
なにを指しているのかは明言されずともわかる。
シャルロット公女殿下が配下の公国貴族を引き連れ北寮に押しかけてきた事件のことだ。
「折悪く部屋に籠っていたんで詳しくは知らないんだ。
警戒していただけに、そのアズルトの
それくらいならと口を開きかけるも、遮る形でディカが言葉を放つ。
「なんでメナ・ベイに聞かない」
ある意味で当然の疑問。
このように普段交流のない級友の部屋へ唐突に押しかけ尋ねるよりも、元から親交のある人物に話を聞くのが遥かに自然な成り行きというものだろう。
それくらいはフェルトだって考えた。
けれど彼がメナに進んで話しかけたのはあの一度きり。ならばこれもまた同じなのではないかと、先例と結び付けて仮定したのである。
「学外のことならそうするさ。だが学内、それも組のこととなれば適任は別にいる」
アズルトの返答はそれを裏付けるかのようなものであった。
けれどディカはその言葉を別の形で受け取ったようである。
「はッ。御託を並べて、結局は貴族の身分を盾に要求を押し付けてるだけじゃねえか。適任? それこそ別にいるだろうがよ」
「嫌われたもんだ」
「別にあんたを嫌っちゃいねえよ。そのとぼけた態度が気に入らないだけだ」
据わった目でアズルトを睨みつけるディカからは、オルウェンキスと対峙したときとは対照的な静かな怒気が伝わってくる。
「言っておくが、俺が相談を持ちかける相手として、あんたら以上の適役はいないぞ。それこそただの脅しだろう。これでも気を使っているんだ」
「俺ら相手ならそうはならないって? 臭ぇんだよ、他の奴らが動けない隙を見計らって押しかけておいて。いったいなにを企んでやがる」
「良い話と悪い話がある」
アズルトはディカの威圧にも平然と、しかし当惑するほど脈絡のない言葉を返す。
「あ゛?」
「どちらも、あんたらにとっては早いうちに耳に入れておいた方がためになるであろう話だ」
ディカの苛立ちが、フェルトには手に取るようにわかった。
けれどそれがアズルトへとぶつけられることは寸前で防がれる。
「持って回ったような――」
「まともに話ができるようになったのはいつからだ」
塗り潰すように重ねられた台詞には自戒を促す響きがあった。
安易に一蹴するべきではない。してはならない。
フェルトの直感は、ディカにも共通するものだったらしい。黙り込み、推し量るようにアズルトを睨んでいる。
「言っただろ、これでも気を使っているんだ」
「取引がしたいってか」
「それこそ押しつけがましいだろう。礼という形でならあんたらも受け取りやすいと思ったんだが」
ワザとらしく漏れたため息が、ディカになけなしの火を着けた。
「はぁッ? この期に及んでキレイゴト並べ立ててんじゃねえよ、反吐が出る。そいつは皮肉で言ってるのか、それとも当てつけか」
半ば虚勢だ。
直感に過ぎないが、フェルトは確信していた。
負い目があるのはディカも同じである。だからこそ見えぬアズルトの腹の内を危ぶみ、見せつけるようにして牙を剥いているのだろう。
オルウェンキスを相手にしているときとは似ているようでまるで違う。
戦況はフェルトらにとって圧倒的なまでに不利と言わざるを得なかった。
「ディカ……」
加勢をと思い声をかけるも、おまえは黙っていろと視線で釘を刺される。
半ば虚勢。それは裏を返せば未だ戦意を失ってはいないということでもあった。
「話すのは構わねえよ。だがな――」
どこまでも挑戦的に。
「それよりも先に、ケリくらいつけておかなきゃならねえよな」
意地を張り通すのがディカなのだから。
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