第41話 ある候補生らの試練三日目1

『僕ら――新入生の待ち焦がれた宝珠との接続リンクは、その生涯において決して忘れることの叶わぬ、苦痛と絶望の時間として深く魂に刻み込まれた』

 震える筆先でそれだけを日記に書き留めたフェルトは、道具をサイドテーブルに放り捨て、寝台の上でそのまま仰向けに脱力する。


「こんな時にまでやることか?」

「こんな時だからするんだよ」

 隣の寝台から投げかけられるディスケンス――ディカの声に、フェルトはぼんやりと天井を見上げたまま応じた。

 顔をそちらへと向けることさえ、今は億劫であった。


「アホくさい。後ろばかり見てどうする」

 フェルトは曖昧に笑う。幾度となく繰り返した問答だ。

 いや、問答にすらなっていないのかもしれない。フェルトが本心を打ち明けたことなどこれまでに一度たりともないのだから。


 自分たちがいつ死ぬとも知れない身であることをフェルトはよく理解している。

 生まれ育った開拓村が魔禍に呑まれ、フェルトは両親と兄妹と、そして帰る場所さえも同時に失った。

 生き残りはその日たまたま村を抜け出していた悪童がわずかに二人だけ。他ならぬフェルトと、彼を連れ出した糞ガキ大将のディカだ。

 瘴気から逃れることを優先し、魔禍に沈む村を見捨てることを決めたディカの判断が二人の命を繋いだ。

 以来、村には戻っていない。当然、弔いも。


 哀しみはあったはずだけれど、その日その日を生き延びるのに必死で、気がつけばすっかり褪せてしまっていた。今はそれを寂しく思う。

 生きた記録を残しておきたいと考えるようになったのは、そうした後悔もあってのことだろう。

 それにフェルトは痛感していた。今日、自分たちがと学園生活を送っていられるのは、ただ運が良かったからに過ぎないのだということを。


 ディカに騎士を目指すことを打ち明けられたその翌日から、フェルトは日記をつけるようになった。

 いつか自分がいなくなったときに、その背を押すことができるようにと。

「誰かさんが前しか見ないからね。後ろに気を配る役回りも必要だと、背中を任されている僕としては考えるのだけど?」


 受け身で内にこもりがちだったフェルトにとって、自分を引っ張り出し、連れまわしてくれるディカは闇を照らす道標のような存在だった。

 歳は同じだけれど、ひとまわり大きなその背中を追いかける日々は満ち足りたものであった。悪童仲間はみな、ディカのすることに期待し、心躍らせていた。

 すべてひっくるめたそれは、安心感という表現が相応しいように思う。

 だからそれでいいと思っていた。それがいいと思っていた。


 貴族に見放され、街から街へとさまよい、ユリスと知り合って騎士として歩もうとする今でも、その思いは変わらない。

 成り行きで平民のまとめ役になってしまったけれど、本当は率先して動くなんて柄じゃない。

 その時々に出来ることをしていただけだった。


 学園での日々は聞きしに勝る、それは過酷を極めるものであった。

 初日、目の前で繰り広げられた本職の騎士を思わせる暴力の衝突は、級友らの浮ついた心に冷や水を浴びせかけた。

 皆、言い知れぬ不安を感じ始めていた。

 そしてそれは明くる日、担当教官の手によって現実のものとなる。

 騎士候補の言葉が持っていた輝きは泡沫に消え、失意に級友らが膝を屈する中、ディカだけは不敵に笑みを浮かべていた。

 フェルトにはわかる。二人にとってこの程度の逆境、ものの数ではなかったのだから。

 そうであればこそ、級友らに挑発的な言葉を投げかけるディカの姿には、見慣れた背中を思い起こさせる頼もしさを見ていた。


 けれど級友らの目に映るディカは、フェルトの目に映る姿とはだいぶ異なって見えていたようであった。

 昔のようにディカの背を追いかけて、けれど気がつけばその背は目の前にはなく、かつてはディカが立っていた場所にフェルトは呆然と佇んでいた。

 彼らにとって、それが必要な役割であることは聡いフェルトには理解できた。


 なによりも自身が辿った道だ。望まぬからと放り出すことはどうしても躊躇われた。

 ディカに任せようと考えたことは一度や二度ではない。

 言葉にし、殴り合いの喧嘩になりもした。

「そういうことにしといてやるよ」

「何度目だい、それ」

「んなもんイチイチ覚えてられるかっての」


 二人きりは気楽だ。

 組ではいつも他の誰かが側にいる。

 こんな自分を慕い、頼ってくれるのはそれはありがたいことだと思う。

 まだ一節ほどの付き合いでしかないが、フェルトも彼らには仲間と呼べるだけの親しみを抱いている。

 ともに困難を乗り越えていきたいという思いだってある。

 それでも自分の在るべき場所はここなのだと、気兼ねしなくてすむこの時間がフェルトにそのことを改めて強く感じさせていた。



 宝珠と繋いでから間もなく三日が過ぎようとしている。

 当初の気狂いしそうなほどの不快感はあらかた抜け落ちたものの、かわりにと言ってよいのか、身体を圧すような酷い倦怠感に苛まれている。

 それが自分のものではないのではないかと錯覚しそうなほど、重く、まるで思うように動かない。

 精神的な疲労が蓄積しているのが、否応もなくわかる。


 ほんの少しの時間で構わないから、接続を解いてゆっくりと眠りたい。

 それはとてもとても、抗いがたい誘惑であった。

 きっと新入生のほとんどが、そうして休息を挟みながら徐々に宝珠に心身を慣らしてゆくのだろう。

 それは学園の指示を否定するものではない。


 この宝珠の慣らしにおいて、学園から与えられた目標はひとつだけ。

 可能な限り宝珠との接続状態を維持すること。

 ただし、食事や睡眠、排泄など、日常生活に必要な範囲であれば自由に解除することが個人の裁量において認められている。

 本格的な教練が始まる前の準備段階――それがこの五日という猶予への、新入生が持ちあわせている認識の大半であるとフェルトは考えている。


 だからディカの考えは例外に属するのだろう。

 甘言はすべて罠で、自分たちはに試されているのだとディカは考えている。

 そして同時にこれは戦いなのだと、獰猛な笑みを浮かべていたのは記憶に新しい。

 自分自身との、なんてよく口にする台詞は飛び出してはこなくて。それは示しあわせるでもないただ一方的なオルウェンキスとの意地の張り合いなのだと、付き合いの長いフェルトは察するのだった。

 言ってしまえば自己満足。


 であればフェルトがそれに合わせる必要なんてどこにもありはしないのだが、それはそれである。

 意思を確かめられさえしなかったのは、すると信じて疑わないからだ。

 ならば、それに応えるのがフェルトの意地だ。

 だってそうだろう。

 自分と同じような状態にあるはずのディカは、向かいの寝台の上で壁に背を預ける形とはいえ起きだしている。

 昨日の時点ですでにそうだった。フェルトには無理せずに横になるようすすめるクセに、自分はそうしようとはしない。

 額に脂汗を滲ませながらも、こんなもの大したことはないと笑うのだ。


 意地っ張りで、格好つけたがり。

 昔から変わらない。

 ユリスには呆れられてばかりいるが、フェルトにとっては密かな自慢であった。

 だからそう、挫けるなんてダサい真似はできない。


 横目で見遣れば、今日は昨日よりもだいぶ顔色が良いように思える。

 無理をしているだけあって慣れも早いのだろうか、そんなことを考えていた時だ。

 不意に扉をノックする音が部屋に響いた。

 用件を伝える声はなく、間をおいて再びノック音が静寂を貫く。


 不審を面に浮かべたディカが、心当たりはと視線で問いかける。

 さりとてフェルトにも答えようがなかった。これまでの経験からして、寮会の関係者ならばその旨をまず伝えてくる。教官はそれよりいくらか強引だ。

 単純に考えればそれ以外の相手、ということになる。けれどフェルトには、こんな身動きすらまともに取れない状態で訪ねてくるような知り合いに心当たりはない。


 ディカが寝台をぎこちない動きで降りる。

「出るんだ?」

「無視して後から難癖付けられてもつまらねえだろ。外には寮会の騎士もいる。心配するこたなにもねえさ。それに、こんな時期にコソコソと訪ねてくる野郎のツラくらい拝んでやらにゃ損だろ」

 上着を羽織ったディカは髪をかき上げ、戦意を瞳に豪胆に言い放つ。

「おまえはそのまま寝とけ。つまらねえ話ならその場で叩き返してやるさ」

 確かな意気込みとともに扉へと向かったディカであったが、それもつかぬ間のこと。

 滅多なことでは聞かない狼狽を含んだ声が響いた。


「――な、んであんたが」

 言い切るより先に覚束ない足音が混ざり、それは直後に慌ただしく乱れる。

 ディカが転倒したのだと気づく。

 思いもかけぬ展開にフェルトは駆けだそうとした。けれど出来たのはわずかに上体を起こすことだけ。苛立ちに自ずと表情が歪む。


「邪魔するぞ」

 差し挟まれたのは、フェルトらの内心とは対極の冷ややかなまでに淡々とした声。

 フェルトは覚えのあるそれに一人の生徒の名を当てはめる。


 ――アズルト・ベイ・ウォルトラン。


 なぜか、酷く身体が強張っていた。

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