第38話 北寮の後始末・前
「――まあ、そうですね。教官からも言い含められていますから。あれのことはこちらでなんとかしますよ」
北寮の自室を前に、カンカ・ディアから事のあらましを聞いたアズルトは会話をそう締め括った。
柔和な笑みを浮かべたカンカ・ディアは、頼みますねと軽口のように告げて認識阻害の結界を緩く
真の子山羊である彼のことだ、部屋で騒ぎの元凶が息を潜めていることくらいお見通しだろう。けれどそれには終ぞ触れず。軽く聞こえた頼みますねの言葉がいやに重い。
アズルトに度々便宜を図ってくれているカンカ・ディアだが、その行いは厚意やまして善意などではありはしない。
彼がアズルトに手を貸す理由などただひとつ。
その派遣がバルデンリンドの意向によるものだからだ。
利益の担保。
借り物の価値に背を預け、果たすべき役割すら定かであらぬ今のアズルトは、手間ばかり増やす無駄飯ぐらい。
せめて歯車として、利用するに足る価値は示して見せろと。暗にカンカ・ディアは語っているのだ。
術の残滓が消え去る前に、アズルトは素早く自室へと身を滑り込ませた。
シャルロット襲来の報は今や北寮の隅々まで行き渡っている。そこには当然、クレアトゥールとの間にあった
話題の人物と関わりの深いアズルトが姿を見せようものなら、たちまちに人が集まってくる。
常であればただ無視するだけの些事であろうが、これからすべき用事を抱えるアズルトにとっては、少々煩わしく感じられた。
扉を潜って短い廊下を進めば、数歩とせず件の人物の姿が目に留まる。
寝台の上で頭から毛布を被り膝を抱えるようにして、クレアトゥールはアズルトが来客の対応で部屋を出た時と変わらぬ格好のままいじけていた。
勝手に、と前置詞を付けておくべきだろうか。
いくとこないと逃げてきたクレアトゥールを匿ったのは、事件発生からほどなくしてのことだ。
そしてぼろぼろになった本とノートを押し付けたっきり、だんまりである。
濡れた服のまま布団に潜り込もうとするので無理やり着替えさせたが、気が立っているのはそれが理由ではあるまい。
目元しかうかがえぬその姿は、入学した当初のクレアトゥールを思い起こさせた。
傍らで彼女を観察し続けたアズルトがそうと感じたのだ。であれば、なにが起きたかなど察するに余りあるというもの。
実のところ、事件があってからこちらアズルトは上階に赴いていない。
階段や周囲から漏れ聞こえる声にシャルロットの北寮への来訪を知り、即座に部屋へと引き返したからである。
アズルトには予感があったのだ。予想と言い換えてもよい。
シャルロットを相手に後手に回った以上、もはやすべては手遅れだ。
彼女は侮り難い人間である。その自己を絶対とする価値観はアズルトには到底理解の及ばぬ戯けた妄信だが、彼女の行動力、そしてもたらされる影響は驚嘆の言に尽きる。
それでも、漏れ聞こえる言葉を読むに最悪だけは回避できていた。
となれば
結果は案の定と言ったところか。
シャルロットの魔手を逃れたクレアトゥールは、アズルトを頼みに部屋を訪れた。
「なんて?」
視線が合ったかと思えば間髪を置かず問いが投げかけられた。
客がカンカ・ディアであったことはクレアトゥールも気づいていただろう。隠形の術式の完成度、そしてなによりもアズルトが対応に出向いたことが確信へと至らせている。
おそらくは訪れたその目的についても察しているはずだ。
余裕の見えぬその様に、アズルトはあえてとぼけた答えを返した。
「記録上は魔力の暴発事故として処理するそうだ。請求はいつも通り」
そうじゃないと尻尾が布団を叩き不満を訴える。
取り立てて引っ張る理由があるわけでもない。
クレアトゥールの気をいくらかでも紛らわせるために言った、些細な冗談。
幸いにしてそれは功を奏したらしい。
アズルトを睨むじっとりとした眼差しは、こんなときにばか言ってないで早くしろと、若干の呆れを含んでいる。
見つめる黄金色に軽く肩を竦め、向かいの寝台に腰を下ろす。
「他の寮室への無断立ち入りを理由とした厳重注意。北寮会はそれで困ったお姫様の動きを牽制する腹積もりだ。裏を返せば寮会の取れる対応はそれが限度ということになるな。寮への立ち入りを制限するのは難しいだろう」
部屋主不在時の許可なき侵入を禁じる規則がある。
プライバシー云々の観念はこの世界では希薄だが、貴族であれば秘密保護だとか、単純に盗難を防止する意味でも必要不可欠な制約だろう。
ただ、部屋主がいた今回の事例は厳密に言えば適用外だ。それを禁止事項として定めてしまうと、権力を笠に着た規則の濫用が起こり得るからである。
寮会としてはこの度の暴挙を看過するわけにはいかない。
本来の寮の役割を思えばそれは当然のことであろうし、なによりも組織としての沽券にかかわることだ。
しかし相手はランクート公国の公女。纏う身分の守りは固く、そして規則の穴を突いたやり口もまた、有効な手立てを講じる弊害となっているというのが実情だった。
そもそもこうした規則の穴は恣意的なところがあって、すべてを防ぐのは現実的とは言えない。それでも面子というものは如何ともし難く、四寮会での立場もあるものだから北寮として放置の選択はない。
まさしく苦肉の策。
本件ではクレアトゥールが無断で魔力を暴発させたことも問題だった。
過失かつ未遂だが、大公家の人間に危害が及び得る状況が生じたのは事実だ。クレアトゥールにとっても北寮会にとっても、それは不利な材料として働く。
無ければもうすこし有利に立ち回れたとはたらればだ。失敗をとやかく言うつもりはアズルトにはなかった。
穿った見方をするのであれば、誘われたと取ることもできる。
否定的ではあったが。
証拠を残していないというのがなんともお粗末だし、なによりもシャルロットは自信家である。
自分が正しいと信じて止まない彼女が、この世界を見下しているとすら言える暴君が、そんな交渉の失敗を前提とした搦め手を講じるとは考え辛い。
「それで、なにがあった」
べしべしと尻尾が不愉快のアピール。
いつもはそれで話題を変えるアズルトだが、この件ばかりは折れたところで状況は悪化するだけだ。
ゆえにアズルトはクレアトゥールが自らに言い訳できるよう、ちょっとした言葉を付け加えることにする。
「無理には聞かない。ただ、知らなければ相手のいいように事実を捻じ曲げられたとしても、俺は対処できないからな」
ぴくりと耳が動き、尻尾は布団の上に落ちる。
そうして呟かれた声は実に恨めし気なものであった。
「……ずるい」
「いや、親切極まりないだろ」
「卑劣」
「表現が悪化してるぞ」
クレアトゥールは「うー」と小さく唸った後、覚悟を決めたらしく大きなため息を吐いた。
「苛々すること言われた」
左腕を右腕で抱くようにしながら呟く。
それで『苛々すること』がなんであるのか、アズルトには察せられた。
シャルロットは愚かにもクレアトゥールの禁忌、魔傷について触れたのだ。
「役立たず。肝心なときにいない」
そんな自身の愚痴も憤懣の種のようだ。
口にしてクレアトゥールはより苛立ちを募らせる。
反論はできるが、アズルトにはその気がなかった。
シャルロットはクレアトゥールが単独行動を取るタイミングを虎視眈々と狙っていたに違いない。であれば隙を作ったのはアズルトの油断であり、責を問われるのもまた。
面倒事は引き受けると宣言したのだ。
それを呑み、クレアトゥールはアズルトの忠告に耳を傾けている。
ならば彼女にはアズルトを非難する権利くらいあって然るべきだろう。
せめて、と。
未だその激情を振るわず胸の内に留めているクレアトゥールを見て、アズルトは考えるのだ。
机に置かれた本はぼろぼろで、雨に打たれて悲惨なことになっている。
気にしているのだろう。この意外と律儀な少女は。
だから、断るだろうとどこか確信めいたものを抱きながらも、アズルトはひとつ提案を口にすることに決めた。
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