第37話 北寮襲撃事件
事態が急転したのは明くる休日、夕刻のことであった。
北寮六階の外れにある一室、平素は近寄る者のないこの部屋の前に同寮ではてんで見ることのない顔ぶれが疎らに人垣を作っていた。
制服に施された一様の意匠から、この者たちがランクート公国の貴族であることが知れた。彼らの視線は部屋とは逆、つまり廊下に向けられているのだが、その心はことごとく部屋の内へと向いているようであった。
誰しもが口を噤み、硬質な気配を漂わせている。
緊迫。そう形容するのが相応しい。
位格持ちの在学騎士が紛れていることから、その警戒の強さが窺える。
彼ら彼女らはランクート公国の第二公女、シャルロットの取り巻きと、
宝珠の支給が刻々と迫るなか、シャルロットはとうとうクレアトゥールの部屋に乗り込むという暴挙に打って出たのである。
非常識と、そう万人が眉を顰めるであろう。
けれど生憎と他寮に立ち入ることを禁じる規則は、この
加えてこの度、シャルロットは部屋を訪ねる名目まで用意して動いている。
彼女は別にクレアトゥールに会いに来たわけではないのだ。目的はその同居人であり、シャルロットの同胞たるチャクとの対話――ということになっている。
チャクの直接の出身は王都の教会施設だが、その姓であるアペルタリは純血派の勢力圏にある同名の教会の所属であったことを示している。
けれどそれ以前の経歴は不鮮明だ。
だが可能性で事足りたのだ。
シャルロットが来訪の口実として利用するには、チャクは実に都合がよろしかった。
王都に移ってからもチャクにメルフォラーバ派との関りはない。
というのも、彼女には妖精族との混血である特徴が見られるのだ。
メルフォラーバ人らしく、けれどメルフォラーバ人にはあるまじき。ゆえになんの呵責を覚えることもなく、シャルロットは彼女を踏み台にすることができたのである。
規範が通用しない。白も黒も彼女の主観でたやすく移ろう。
それがシャルロット・ラル・ランクートだった。
傲慢な、その瞳が示す通りの灰色の少女。
だからそう。このクレアトゥールとの邂逅もまた、シャルロットにとってはあくまでも偶然の成り行きに過ぎないのだ。
「あんた、なにがしたいんだよ」
焼け切れた怒気が掠れた声となって言葉を刻んだ。
我が物顔で部屋へと踏み込み、求めもせぬ
「本当はチャクさんとお話をしに参ったのですが、ここで貴女とお会いしましたのもきっと
シャルロットは白々しい口上を皮切りに、片鱗を覗かせるクレアトゥールの才能を称賛し、ランクートがいかに素晴らしい国であるかを説く。理路整然と並べ立てられる美点は、それが用意してきたものであることを想像させた。
彼女なりにクレアトゥールを分析し組み上げた殺し文句だったのであろう。
だが彼女の考えは甘かった。
クレアトゥールの耳に彼女の言葉は届いていない。
口を挟まぬのはただただ心を殺し、機を窺っているというそれだけのこと。
組の者でも会話が成立するのがアズルトとキャスパーだけの相手と、まともに意思疎通が図れると考えたのがそもそもの誤りだ。
「私は貴女が優れた騎士になると確信しています。ですから私を貴女の後援にさせては下さいませんか」
シャルロットがやり切った顔で売り込みを終える。
自らに真正面から注がれる眼差し、黙然とした有様に彼女は手ごたえを感じていた。
しかし期待した言葉はなく、返ってきたのは。
「どうでもいい」
そんな無機的な一言のみ。
そうしてひと呼吸おいて重ねられた言葉が、シャルロットの偽善の仮面を打ち砕いた。
「用は済んだだろ、帰れよ」
「……
シャルロットの言葉は事実だが、偽りを含んでいる。もっとも――。
「関係ない」
クレアトゥールにとってはそれが事実であろうと些末な問題だ。
そう、目前で微笑むこの無遠慮な女に比べれば遥かに。
しかしクレアトゥールの内心など当の女であるシャルロットには読めようはずもない。クレアトゥールを見慣れた
であればこそ、シャルロットはもうひと押しと差し出した足で、虎の尾を踏み抜いた。
「当てはあるのですか? 本当は私もこの様な言葉は口にしたくはありませんでした。けれど貴女を思って言わせていただきます。私は貴女に救いの手を差し伸べているのです。組の誰からも疎まれている貴女に。だってあなたは魔傷を負っ――」
シャルロットが言い切るより早く、破砕音とともに木屑が爆ぜた。
クレアトゥールにとってシャルロットはいっさいの興味を抱かぬ相手であった。
さながら鬱陶しく飛び回る羽虫だ。
けれどそれは力で排することが叶わず、執拗に自身に付き纏ってくる。
言葉を使え、機を窺え。アズルトの教えは確かに彼女の行為として昇華された。だが事態を解決へと誘うには、少々荷が勝ちすぎていたようである。
そして先のひと言。
醜悪な己の本質。不躾に触れられた傷口から広がる不快感は、呆気なく彼女の感情の堰を穿つ。
堪忍袋の緒が切れた。
振り抜かれた脚は寝台を打ち据え、込められた魔力がそれを木端微塵に粉砕する。
壁面で跳ねた木片が、乾いた音を立てて床を転がった。
幸いにと言うべきか、木屑の嵐の只中に居たシャルロットには傷ひとつ見られない。
護衛の在学騎士が施した守護結界であろう。今もまだ彼女のまわりに渦巻く風が飛来する木片からその身を守ったのだ。
廊下に控えていた騎士がシャルロットに駆け寄り、庇うようにしてクレアトゥールとの間に立つ。右の手は剣の柄へと添えられていた。
騎士の瞳は複雑な怒りで彩られている。
だが怒りの大きさで言えばクレアトゥールとて劣ってはいないだろう。
そんな彼女がふと視線を動揺に泳がせた。
寸前にクレアトゥールがその瞳に映したのは、自身の暴走の余波で散乱した荷物に紛れた、装丁が乱れた一冊の本であった。
逃げるようにして逸らした先で飛び込んできたのは破れた借り物のノート。
「――ぁ」
吹き荒れていた魔力がぴたりと収まる。
激昂は未だ冷めやらぬ。ただ膨れ上がった別種の怒気との拮抗が、理性の差し込む余地を与えていた。
だがそれを隙と見る者もいる。
続いて入ってきた護衛の騎士が、クレアトゥールを拘束すべく手を伸ばしたのだ。もっとも、位格も持たぬ在学騎士の捻りもない
危なげなくかわし本とノートを掴んで窓に駆け寄ると、クレアトゥールは逡巡すら見せずそれをぶち破り闇に身を躍らせた。
寮室には吹き込む風の音だけが蠢く。
唖然と次の動きを忘却する騎士たちとは裏腹に、いち早く衝撃から立ち直ったシャルロットは窓際へと駆け寄る。
ここは地上六階。防衛拠点である学園の建物は、外壁に魔法的な作用を打ち消す術式が組み込まれている。
ただの人間が飛び降りればどうなるか。
外は春の嵐で荒れに荒れていた。
けれどシャルロットは雨に濡れるのも構わず、窓から身を乗り出すようにして下を見る。
こぼれたため息は落胆か安堵か。
すでにクレアトゥールの姿はどこを探しても見つからなかったのであった。
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