第34話 神童の去った後で

「あのさ、メナでよかったのか」

 彼女の足音が上階に消えるのを待ち、寝台の上で膝と尻尾を抱えたクレアトゥールがおずおずといった様子で尋ねてきた。

 最後のひと幕でこの少女なりにアズルトとメナの関係を推し量ったのだろう。

 そして語られた言葉に含まれる以上の因縁を見た。それこそ、重ねて問いを投げかけるほどの。

 まさかそれが力を渇求する修羅たちの、自身を巡る欲に塗れた鍔迫り合いとまでは思い至るまいが。


「逆だからな。メナであればこそあの話ができた。あいつほど世界をよく見通せている者が果たしてムグラノに他にいるかどうか」

「大げさ」

 小馬鹿にするような物言いだが、否定というよりは半信半疑といった様相だ。

 彼女にとっては実感に乏しい類の話であるから、断言はしかねたのだろう。けれど事の大きさについてはしっかりと理解できている。


「ツィベニテアの神童。今でこそ騎士狂いの呼び名で知られているメナだが、二年ほど前まで社交界ではこの名があいつの代名詞だった」

 十五歳で卒業できれば天才と持て囃されるトロン王立貴族学校を弱冠十一歳で主席卒業した神の寵愛を受けし者ギフテッド

 宮廷貴族であるツィベニテア伯爵家の次代を担うことを期待されながら、バルデンリンド公に単身自らを売り込み、二年間遊学という名の武者修行と諜報活動に明け暮れていた、文字通りの怪物である。

 国外を渡航するために与えられた名ばかりの騎婦人の会の相談役という立場を、事実その通りのものとし、情報網を倍以上に拡大させた手腕と膨大な騎士の知識は、今日の彼女の騎士狂いの名の由来ともなっている。

 アズルトはそうしたメナの経歴をざっくりとクレアトゥールに語って聞かせた。


「すごそう、だな?」

「ああ、冗談かと疑いたくなるくらいにな。あいつはちょっと常軌を逸してる。凡人である俺たちには見えない世界が、あいつの眼には映っているんだと思うぞ」

 およそ万人の欲するところ全てを与えられたかのような少女が、ただひとつ天に望まれぬ騎士の道を求め、積み上げたあらゆるものを捨ててムグラノなんて辺境で候補生をしているのだ。まともであろうはずがない。

 今のメナは自らの為すべきことを、騎士として高きを目指す、それのみに絞って生きている。

 なにをもってすればその境地へと至れるのか。

 彼女がニザ東域守座に属する者であったならば、アズルトもここまで特別視してはいなかったろう。

 守座の保有する情報は、人類社会の管理を担う主教座の制約の外にある。外界で禁忌とされ厳重に秘匿されている類の知識が平然と飛び交う組織せかいだ。

 そしてそれは、教会が形作る偽られた社会せかいを浮き彫りにする。


 けれど彼女は違う。

 バルデンリンドに頼ることなしにその理解へと達した人間だ。

 騎士養成学校イファリスへの入学が決まってすぐ、彼女はバルデンリンドと最後の取引をしている。それは遊学で得たあらゆる情報を対価に、禁足領域として立ち入りが制限されているニザ瘴土帯への侵入許可を得るというもの。

 時期尚早と保留の判断を下されたようだが、ムグラノ地方とを隔てる結界――境地断崖からのニザ見学は行ったと資料には記されていた。

 本当に、見えている世界が違うのだろう。

 騎士オタなどとゲームではキャラ付けの一環として扱われていたが、騎士狂いの本質は冗談で語れるほど軽いものではない。

 正しく狂気だと、アズルトが戦慄すら覚えるほどのものだ。


「……ランクートの国王とかよりも?」

 講義を聞いた現状、ムグラノでもっとも厄介と思われる人物を引き合いに出してきた。

 狭い世界で完結しているこの少女は、より近い場所から詰めていくことで感覚の溝をなんとか埋めようと試みている。

「大公な。ランクートの為政者はムグラノの外も見えているというだけだ。頭には確かにこの大陸の地図が入っているだろうが、その視野の中心にはあくまでもムグラノがある。だけどあれにそういった縛りはない。大陸を空間的・時間的に俯瞰してムグラノの今を暴き出す。なにか手頃な例えは……」


 少し迷いながらも、百味箪笥から小さく折り畳まれた布を取り出す。

 卓上で広げると、描かれているのはベリトラーシュ大陸の――今はまだ――白地図だ。

 寄れと手で示すと、クレアトゥールが尻尾を引きずりながら寝台の縁までやってくる。精も魂も尽き果てたといった様子で、黄金色の瞳が難しいのは嫌だからなとしきりに訴えかけていた。

 アズルトとしてもその辺りは心得たもので、そのためだけに秘蔵の品まで引っ張り出してきたのだ。


 白地図のムグラノに当たる場所を針のように絞った魔力でなぞると、布地に国や都市の名が浮かび上がってくる。

 そうしてそれを指先で叩くようにして言った。

「あくまでも例えだが、ランクートの為政者にある世界の認識はこんな感じだ」

「これなんだ?」

「家宝」

「ふぅん、まあいいや」


 自覚に乏しいが、アズルトは日頃から割と適当なことを口走ることの多い人間だ。

 虚言癖とはいささか違う。

 嘘八百から形作られるアズルトにとって、常さえも装うべき虚像だ。虚言とはそんな己を維持するための技術であり、軽々に扱ってよい類のモノではない。

 嘘も真も扱うのに慎重を期さねばならないアズルトにとって、そのいずれにも属さぬこれは妄言と呼ぶべきものだ。余人には違いのわかりづらい冗談であり、都合の悪いときの誤魔化しでもあった。

 もっとも、目下その違いを判断させられているのは、この無愛想な狐の少女くらいなものであるのだが。


 普段通り妄言を口にし、そして普段通り流されたことを気に留めぬまま、アズルトは実演を進めてゆく。

「で、あいつの頭にある世界っていうのは」

 クレアトゥールの目線が地図上にあることを確認し、布に特定波長の魔力を流し込む。すると、空白だった余所の地方についてもムグラノと同様の変化が現れる。

「こんな感じだな」

 大陸の詳細が記された地図を卓上から摘まみあげる。


「どうやってるんだ」

「教えない。触ろうとするな」

 寝台から身を乗り出して奪おうとするのを寸でのところで回避する。

「ただの魔力反応じゃないんだろ、なんか複雑な術が見えたし」

「目がいいのは知ってたが今の励起反応を読むか、いやそうじゃない。俺の話は聞いてたのか?」

「ムグラノのついでなのと、ムグラノがついでなの」

 金の瞳がこれでいいかと尋ねてくる。

 今になって冴えわたる知性に、アズルトは正直複雑な気分だ。


 地図を仕舞うと尻尾が不満を訴えた。

「家宝はおいそれと見せびらかしていいモノじゃないわけ」

「おまえは酷いな。面白そうなの見せるだけ見せて取り上げるとか」

「説明の足しに使っただけだからな、事実を捻じ曲げるなよ?」

 地方間の交流が希薄なこの時代にあって、精確な世界地図は国宝にも等しい代物だ。主教座であれば近しい物を所蔵しているだろうが、よほど上位の者でなければ閲覧の許可は下るまい。

 アズルトが持たせられているのは、この学年にふた組ほど地方外から入学してきた者が混じっているからだ。

 彼らの動向を探るのは別の本土諸侯の役目だが、場合によっては子山羊の代理として、見込んだ諸侯と情報を共有して構わないとの指示を受けている。地図はその説明ための道具であると同時に、子山羊としての身分を示す証でもあった。

 あくまでも保険として、だが。

 貴族色を排するために送り込まれているアズルトが、貴族の真似事に傾倒していては本末転倒もいいところである。


「みんな死ねばいいのに」

 寝転がっていたクレアトゥールがぽつりと憎悪をこぼした。

 殺せば静かになると、金の双眸がその胸の内を雄弁に物語っている。遠回しにであれ、この少女が自らの殺戮の欲求を顕わにしたのはこれが初めてのことだ。

 アズルトに驚きはない。

 前進したなと、抱いたのは状況にまるでそぐわぬ安堵だけ。

 意識的にせよ無意識的にせよ、この少女の根幹を成しているのは破壊と紐づいた情動だ。倫理も道徳も彼女を縛る鎖としてはあまりに脆い。


 けれどそんなことは分かり切っていた。だからこそアズルトは己が身を捌け口として差し出し、彼女を自らの傍らに縛り付けているのだ。

 どれほど悍ましい欲望であろうと、表現する術を得たことをアズルトは快く思う。

 そして少しでもその心が安んじられるよう、改めて宣言した。

「させないけどな」

「ん、わかってる」

 心配するなとばかりに尻尾を大きく揺らす。

 厄介事はひっきりなしだ。それでも、本人が協力的であることだけはアズルトにとって救いであったと言えよう。


 ただそれはそれとして、である。

 アズルトは嫌々とクレアトゥールの背後へと視線を移した。

 後回しにしていたことを思い出したのだ。

「まったく違う話をしようと思うんだがいいか」

「んー?」

 気のない返事をするその後ろでは、今もぽすぽすと赤茶の豊かな尻尾がアズルトの布団を叩いている。その度に布地に見える赤の色が濃くなっていくように感じられるのは、すべてがすべて気のせいというわけでもあるまい。

 後始末をするのは誰なのか。それを考えるとアズルトはとても頭が痛い。


「さっきはメナの手前、黙っていた。けれどもう聞く者も居ないからはっきりと言わせてもらう」

 色々と普通とはかけ離れているが相手は仮にも年頃の女の子だ。

 万年ベッドが友達だった人間に、感情の機微など分かろうはずもない。差支えないと理性が訴えていても、ヒトの情念はそれだけで語り尽くせるものでもなかろう。

 つまるところアズルトがそれを言葉にするには途方もない覚悟が必要だったのである。

「……おまえね、その大層な尻尾の手入れくらいはしてくれ」

 だと言うのに。

「ん?」

 うつ伏せ気味に転がったクレアトゥールが、なに言ってるのかわかんないと、櫛を入れられていない赤毛を揺らす。

 それを見たアズルトにできたのは、愕然と天を仰ぐことくらいなものであった。

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