第32話 ランクート公国の実像3
「ランクート公国は現在、アーベンス宮廷とは比較的良好な関係を築いています」
クレアトゥールが小さく首を傾げる。
想像していた話の流れと違っていたからだろう。
けれど口を挟まず大人しく耳を傾けているのは、物事には表と裏があるのだということに気づき始めたからなのかもしれない。
「国政を牛耳る二公派の片翼であるブリセザンク幻鷹公爵は、かつての宮廷闘争で政治の実権を握るために国内のメルフォラーバ派貴族を使いました。以来両者は共生とでも呼ぶべき関係にあります。対するトロゴイ六葉鷹公爵はこれに否定的な姿勢を見せてはいますが、中央から純血派を締め出すため事実上の容認。より噛み砕いた表現をしますと、アーベンスの中央から南部にかけての貴族たちは、東部のソシアラや北部のゲッヴェに対抗するためにメルフォラーバ人の力を借りている、だからランクートとも仲良くしている、といった感じになりますね」
地図で示しながら、メナが懇切丁寧に説明した。
客観的な事実の確認に解説まで付いてしまっては、もはやアズルトに出番はない。
「諸侯――領主貴族単位で見るとそれなりに険悪です。ランクート家は元々は南を担う方位守家として王国を支える立場にありました。それがアメノ大迷宮の活性化に乗じる形でメルフォラーバ諸侯を率いて独立したという経緯がありますから、純血派は今なお彼らを恥知らずな盗人として蔑んでいます。ランクート側としても、悲願を成就させる上で純血派は除く必要のある仇敵です。そしてメルファラ同盟を押し付けたバルデンリンドもそれは同じ」
ムグラノの水紋の出来事だけを参考として見れば、蹂躙されるバルデンリンドを打倒すべき最初の目標として定めていることが窺える。
メルフォラーバ人の歴史的敗北はいずれもバルデンリンドが絡んでいるからだ。
「そして葉公もまた幻公とは宮廷内で主導権を争う立場にありますから、メルフォラーバ人が力をつけるのは好ましく思っていません。同じ敵を相手にしているため表向きは仲良く振舞っているけれど、本当は大嫌いな相手とそのお仲間なので、本音としては目の届くところに居てほしくはないわけですね」
揶揄されているのではないか。アズルトがそんな疑念を抱くのも無理からぬ、他人事とも思えぬ嫌な例えであった。
邪推だろう。
アズルトが断定できぬのは、彼女が役者として二枚も三枚も上手だからだ。
観察力には自信のあるアズルトだったが、如何せん場数が違う。情報を読み取れるだけでは不足なのだ。
ただ、クレアトゥールの様子には疑問が残った。
アズルトは自身がそうと考えたように、クレアトゥールもまた自分たちの関係性との類似になんらかの反応を示すと思っていた。
けれど、クレアトゥールはこれといった動きを見せなかった。
アズルトにはそれが引っかかる。
「実は仲が悪い?」
アーベンスとランクートは、ということだ。
「上に立つ人が懇意にしているから良い関係を築けているように見えていますけど、実際にはというお話ですね。ですがランクートも強かなもの、それでお終いとはなりません。仲良く装っている間に、アーベンス諸侯は手を切れなくなってしまったんです」
「嫌っていても?」
「はい、嫌っていてもです。先に述べた通りランクートは余力のある国です。それでいて人口も多いため、必然的に多くの魔道士を擁することになります。ランクートはその潤沢な労働力を用いて、アーベンスでは貴重な嗜好品を生産しているんです。今や内地貴族の生活にはランクートからの輸入品が欠くことのできないものとなっています。そして純血派にも隠れ愛好者が多くいたりするんですよ。唾棄すべき宮廷貴族主義、でも彼らは至福の味を知ってしまいました。困った愛好者さんたちはソシアラやゲッヴェの目を盗むように、ひっそりとメルフォラーバ人と取引をしています」
「嗜好品?」
「身近なのは食べ物ですね。珍しい食材、新しい調理法。それはおいしい料理であったり、お菓子であったり。お茶やお酒などもそうです。必須ではないけれど、あると充足感を得られるもの」
クレアトゥールが手元のマグに視線を落とす。
中身はもうほとんど残っていない。
「ここの食事はどうですか?」
「んー、すごい? サスケントも食べ物だけはよかったけど、ここはもっと」
ずいぶんな持ち上げようだが、学食で提供しているのは地球的な感覚で言えばごく普通の――量だけはあるが――軽食だ。大食堂で全学年揃ってとる晩餐も少々値の張る大衆料理といった具合で、王侯貴族の食事風景としては質素に過ぎるようにも思われる。しかしそれこそがムグラノの厳しい食糧事情というわけだ。
「けれどそれらは人にとって無くても支障のないものです。予科性には毎週携行食で過ごす日がありますが、燃費の悪い魔道士でさえあれで事足りてしまう。上層民の食事はそれそのものが
携行食は庶民が普段口にしている栄養食の類似品だ。
長方形の板状のモノが三枚。並べると板チョコほどのサイズだろうか。独特の噛み応えがあって段ボールでも齧っている気になる。それに塩味の飴玉が一個。これで一食分。
非常にコンパクトでかつ軽く、十年単位で日持ちする。そしてなぜか腹も膨れる。
上層民の
ヒトの燃料としては優秀なのだ。
逼迫した食糧事情は格差を浮き彫りにする。
無駄が出ないと言ってもそれは物質的な面の話であり、生産に要するコストの差は如何ともし難い。
アズルトはクレアトゥールの横顔にあるかないかの陰りを見る。
大方、携行食の話題……というよりは栄養食だろうが、そこから嫌な記憶でも呼び起されたのだろう。
もちろんアズルトは気づいたところでどうこうしようなどという考えは抱かない。
アズルトに取り重要なのは主命と己の成長だけで、後のいっさいはそれらとの相対関係によってのみ優先づけされるものなのだ。
気づいているのか定かではないが、メナにも踏み込む素振りは見られない。
例え気づいていようと彼女もまた流すだろうとアズルトは考えている。
クレアトゥールの過去は、バルデンリンドの情報収集能力をもってしても
ニザ東域守座たるバルデンリンドを知るメナである、教会組織として大きな権力を有するサスケントの領分には滅多なことでは踏み込むまい。
「アーベンスの食文化は騎士料理に根差しています。壁外での活動の機会が多い騎士は、現地で食材を確保し食事を豊かにしているんです。携行食では身体は満たされても心は潤いませんからね。騎士の多くは美食家なんです」
騎士の必修科目のひとつに炊事がある。
糧食の節約の観点を否定するものではないが、メナが述べたように、騎士の精神を健全な状態に保つ技術としての側面こそ主たる目的であると推察される。
「けれど昨今は事情が変わってきています。宮廷料理で持て囃されるのはランクート由来のものがほとんどです」
「でも無くても支障のないもの、なんだろ?」
「我々は欲深いイキモノですから」
「楽を知ると戻れなくなる。身に覚えがあるんじゃないか」
怪訝そうに狐娘が首を傾げる。
なぜそこで『おまえはなにを言ってるんだ』という顔をするのか。アズルトには解せなかった。
「貴族の多くが今の生活を手放したくないと考えています。現在の情勢でランクートと距離を取ろうとすれば彼らは敵に回るでしょう。そういった意味で心情的に切るのが難しいのは確かです。けれどアーベンス諸都市はより実質的な問題を抱え込まされています。嗜好品の輸出、技術の貸与。ランクート公国は様々な手段を用いてメルフォラーバ人の集団をアーベンス諸都市に浸透させています。ランクートで学んだアーベンス国籍のメルフォラーバ人というのが曲者でしたね。幻公の施策も相まってこの二百年でずいぶんと深くまで潜り込んでいるようです」
「貴族は馬鹿なのか?」
「気づいてもいないのではないでしょうか」
出番だぞと黄金色がアズルトを映す。
「民族性の違いだろうな。ムグラノは犠牲なしにヒトの生きられない土地だ。自然とその役を担う者たちに権力が集中していった。守ってやるから言うことを聞けと、そういうことだ。わかるか?」
首肯が返る。
「これが純血派の言うところの騎士貴族というやつだ。メルバ・イドラ人は貴族と平民をはっきりと分けて考える傾向にある。オルウェンキスがいい例なんだが、あいつの使う物差しは貴族と平民でだいぶ違う。平民には甘いだろ」
「こきおろしてばっかだぞ?」
「言い方が悪かった。最も厳しく接しているのは
「アーベンスは建国当初からメルフォラーバ人に対して融和策を敷いています。これもまたメルバ・イドラという民族の持つ習性ですね。ムグラノで生き残るための術だった、とでも言っておきましょうか。ひとつのパンをわけあって、貧しいながらも肩を寄せ合い生きてきた人々なんです。けれどメルフォラーバ人は……」
どうするかわかりますかと、ここまでの理解を確かめるかのように続きをクレアトゥールに求めた。
「パンを奪おうとする?」
「残念ながら外れです。パンの原料を作っている土地を奪いにくるが正解でした」
「今のはずるくないか……ん、そういうこと?」
当然のようにアズルトへ答え合わせを求めてくる。
「だいぶ慣れてきたみたいだな。その通りだ。勝手に相手のルールを決めてるから気づけない」
常識を決めてかかると不意の襲撃を食らう。
アズルトもつい昨日に身をもって学んだことである。
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