第30話 ランクート公国の実像1
「ランクート公国について知りたい、ということでよろしいんですよね」
寝台の間に卓を置き、生徒と教師が向かい合う形で講義は始まった。
卓上にはアズルトが用意しておいたランクート関連の書物が三冊と、無地の
お茶の種類としては緑茶だ。アズルトは外では紅茶を選ぶようにしているため、クレアトゥールの好みに合わせてということになっている。
「ああ。
「私が声をかけられた理由がようやくわかりました。実態と言いますと、やや踏み込み過ぎと思うような辺りに落とす形ですか?」
「うっかり漏らしてもなんとか妄言ですむ範囲で頼む」
「また難しい注文をしますね」
アズルトがメナと教育方針についての取り決めをしていると、傍らから妙なものでも見たような視線が注がれ始めた。
「おまえ、もしかして俺が公国について無知だからメナを頼ったと思っていたのか」
「なんも言ってないから」
目線を卓上に移したクレアトゥールは、両手でマグを抱える。
「そういう顔してただろ」
目つきが険しくなったのは、お茶が苦かったからというわけではないだろう。
「ずるい。こういうのばっかいつも」
「甘やかすと際限なく怠けるからな」
「そんなこと、ないし」
決めつけるなとむっとした表情で睨みつけてくるものの、布団を叩く尻尾の先がどうにも信用ならない。
「……私はお邪魔ですか?」
卓の向かいで微笑むメナには、得も言われぬ恐ろしさがあった。
「いや、悪い、余計な口は挟まないから進めてくれ」
早口に謝罪したアズルトはまだ熱いマグを手に取ると、誤魔化すようにそれに口をつけた。
「まず基本的なところからおさらいをしましょうか」
メナは自身のマグを端に除け、紙と筆を手元に寄せる。
毛筆である。
都市部での駐留時間が長い内地の騎士ほど扱いやすい硬筆を好む傾向にあるが、野外での活動を主にする地方の騎士の多くは日常的に毛筆を扱う。
これは何にモノを記すかの違いと言えるだろう。
劣悪な環境での活動を余儀なくされる辺境の騎士は、基本的に紙を持ち歩かない。布に文を認めることはよくあるが、現地調達が専らだ。
余談だが、ニザほどの魔境ともなるとそもそも植物紙が
「ランクート公国はここアーベンス王国の南に位置する、ムグラノ地方第二の国家です。二百年ほど前まではアーベンスを構成する公爵領のひとつでしたが、それについては後程ということで、今は脇に置いておきます」
白紙に無駄のない筆運びで両国を描き出す。
「ランクートの西側に広がるアーベンス領はすべてバルデンリンド公爵の領有です。直に接している辺りは東バルデンリンドと呼ばれていて、厳密に言うと別物なんですけれど、それについては西
さらさらとハルアハが描き足される。
この辺りは問題ないかとメナが視線で尋ね、クレアトゥールの頷きが返る。
加えて、ランクートの南の空白部分を指さしながらひと言。
「ギテナの
自ら地理情報への理解を示す。
竜崖とは大山脈と意味を等しくする比喩的表現だ。
ラケル界の空は竜の領域である。
魔術――もっと広く取って魔法と言い換えてもよいが、この世界の魔の理にはいくつかの致命的な欠陥がある。
その最たるものが『空を飛べない』ことだろう。これに『魔力は長い距離を伝播しない』という欠点が組み合わさり、上空は人も魔も手を出すことのできない竜族の楽園と化している。
だが大空の支配者にも
そうして選ばれるのが自分たちの領域に接する高峰だ。
大規模な山脈は決まって竜の縄張りとなっている。
これらは例外なく教会が不可侵に定める地であり、概念的な断崖を形成している。
古語で言う竜約の断崖。それが今日では、竜崖として大山脈を形容する単語となっていた。
「両国の国土の比率は知っていますか?」
ギテナ竜崖を地図に加えながらメナが問いかけた。
「んと、ランクートはアーベンスの二割くらい」
「正解です。けれどこれを適正可住地面積で換算すると面白いことになるんですよ」
言って地図から離れたところに数字を書き出し始めた。
そしてそれらを指し示しながら。
「ランクートがまだアーベンスの一部であった頃の記録では、現在のアーベンス比で四倍ほどとなっています。抜け落ちていたり、調査で後から発見された土地があるのは確認が取れていますので、実際のところは六から七倍でしょうか。つまり適正可住地面積で比較するとランクートの方が二割以上大きいということになります」
「推定される人口……ああ、いや――」
「どうぞ」
面白い切り口だとアズルトは感心したが、クレアトゥールには少々実感の足りない例えだろうとも思った。
言葉が口をついて出たのは、日頃物事を学ばせている習慣のようなものだ。けれどメナに任せた手前、それは不躾というものだろう。だから取り下げようとしたのだが、どうにもメナはアズルトの語る言葉に興味があるらしい。
「……領民の数なんて正確なものは出回らないから、あくまでも推定値としての話にはなるが、ランクートの人口はアーベンスの八割にも及ぶと試算されている。人口と国力はわけて考える必要があるが、決して小さな国ではないというのはわかるな」
アズルトの補足にクレアトゥールはこくりと頷く。
「大きくもありませんけれど。ムグラノはニザ瘴土帯の影響を強く受けた酷く劣悪な土地です。豊かに思えるランクートでさえ、大陸全体を見れば標準の範囲に収まってしまいます。とは言え、です。ムグラノにおいてはアーベンスに肩を並べるほどの相手と意識しておかなければなりません」
ムグラノは例えるならばロシアである。
モスクワ以西の比較的人口が密集している地帯がランクート、東にウラル山脈までがアーベンスの内地と呼ばれる中央から南部にかけて。シベリアをバルデンリンドと東方諸侯で分け合えば丁度良い具合になるだろう。
「数字の話なのでもうひとつ併せてお話してしまいますが、ランクートには
「逆って流れなんだよな」
「はい。アーベンスとランクートでは国土の維持に必要な騎士の数に大きな開きがあります。ランクートは騎士を今の半数まで減らしても国家を維持できますが、同じ数をアーベンスが削ると、大規模な魔法災害が発生したときに動かせる騎士が不足して困った事になってしまいます。アメノ樹獄の説明は?」
不要とクレアトゥールが首を横に振る。
当然だ。このムグラノで騎士を志すのなら知っていて然るべき常識。
アメノ樹獄――
ニザ瘴土帯に類する学術的な呼称をアメノ大迷宮と言う。
化生とあだ名されるニザに対し、アメノは樹獄と形容され、ムグラノの民にはそちらの方が耳に馴染みがあるだろうか。他にも大森林といった呼び名が多く用いられるが、通常地形との差別化が難しいため、ムグラノ地方の内だけで通じる言葉だ。
アズルトにしてみれば魔の森とでも言い表すのがしっくりくる。
ゲーム的に分類するならばダンジョンだ。
この辺りはおいおいアメノ大迷宮の話をする際にでも詳しく話そう。いま語るべきはランクート公国についてであるからして、ここでは大迷宮は瘴土帯に次ぐ等級の魔種の生息域であるとだけ頭に入れておいてほしい。
「樹獄に接する帯域――アーベンス王国東方諸侯領やハルアハ王国は、アメノ大迷宮から流れてくる瘴気の影響で魔物がとても発生しやすい土地になっています。ランクートやアーベンスの内地では討伐された魔物は下級の個体に至るまで詳細な記録が残されるのに対して、東方諸侯領では中級以上の個体についてのみそうした記録を残します。それだけ発生規模が違うということですね」
なお食糧として、重量換算での記録は行われている。あるいは皮であるとか骨であるとか、素材に加工された後のものであれば、業者の記録から拾うこともできるだろう。
けれど廃棄される数も相当なものであるから、そうした労を経ても得られる情報の価値は低い。
それに内地で詳細な記録が取られるのは、騎士としての評価の機会に乏しいからというのが最大の理由であったりするものだから誇張表現も多く、詳細が正確とも限らないのだ。
「そのためこの帯域の諸領には、ランクート公国とは逆に最低限入学させなければならない人数が定められています」
名実ともに小国のハルアハが、
「数字からわかるランクート公国は、アーベンス王国に比肩するムグラノを構成する国家で、そしてとても余裕のある国だということです。騎士に余剰があれば、国土の維持に駆り出される魔道士の数が減ります。そうして浮いた分の魔道士は、生産や教育といった分野に回すことができますから」
だがそれだけで国家の力関係は語れない。技術力を決めるのは国家に割り当てられた教会が有する権限にどうしても依存することになるからだ。
魔導技術の管理者とはすなわち文明の管理者。国家の趨勢すらも彼らの手の内にあると、今はまだ多くの者がどこかで感じている。
「けれど正しくそうと認識している貴族は多くありません。私が示した数字は実態に近い値ですが、多くは非正規の手段によって得られたもので、公的な記録とはかなりの食い違いがあります」
「教会が調べてるのに?」
神威の代理執行機関である教会は、地上世界の管理のため各国のそうした情報を収集する権利と義務を教会法によって定められている。
「動かしているのは人ですから。万能とは程遠いですよ」
「わかるかも。くそみたいな奴らだからな」
「外ではこの手の話はやめような……」
現に四組のいくつかの講義も教会籍の教官の担当だ。どこに耳があるかわかったものではない。
ただでさえ学園側の心象が底を行っているクレアトゥールだ。当人の庇護者である教会組織への批判とかいう失点はアズルトとしては絶対に避けたいところであった。
「教えに否を唱えたことはありませんよ。私はただ、バルデンリンドの信奉者なだけです」
「なにそれ?」
「魔の討ち手、例えるなら騎士とそれを支える者たちだけがヒトで、他は家畜というバルデンリンド
解説を聞いたクレアトゥールはゆっくりと視線を落とした。
思想の過激さに引いたとかいう様子ではない。
尻尾を抱き寄せている辺り自身の問題だろう。そうして見てみればバツが悪いといった様子にも取れる。
流石のメナもそこまでは読み切れていないようで、かずかな苦みを含んだ笑みを覗かせていた。
そしてアズルトは応じるように肩を竦め、いつもの通り気づかぬ体でこの件を流したのである。
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