第20話 少女と魔傷

 さてどうしたものかと、残されたアズルトは長椅子の傍らに膝を着く。

 険のある表情を素顔にしているようなクレアトゥールだが、さすがに意識を手放せば剥がれ落ちるものらしい。

 見目は悪くないだけに、普段の印象も相まってあどけないという表現がよく似合う。


 自身はその場に居合わせないものと思っていたからこそ、アズルトは迷うこともなく薬を渡したのだが、こうして盗み見る形になってみると罪悪感めいたものを覚える。

 寝顔を、ではない。

 顕わになったその喉元、そして腕や脚、そこに残されたいくつもの傷痕を見てしまったことを、だ。


 クレアトゥールが測定から逃げ出した理由なんて初めから知っていた。

 この半袖で、裾も膝の少し下ほどしかない検査衣を着ることを拒んだのだ。


 騎士候補生に怪我は付き物である。傷跡があるのはなんら珍しいものではない。それこそ貴族の令嬢でさえ入学時点で怪我の痕を持つ者が多い。これは多く戒めの意味を持ち残しているものだが、十分な治療環境にない平民はなおのことで、それこそあちらこちらに小さな痕がある。

 ただ、これは別だ。傷の程度だけではなく。


 火傷跡のようになった擦り傷。塞がることを拒むような創傷。

 傷を長時間にわたり濃密な瘴気で焼かれ続けると、その影響が魔力体にまで及ぶことがある。小さな傷であれば魔力体に働く復元作用でただの傷と同様の回復が見込めるが、大きなものとなるとそうそう上手くはいかない。

 魔力体に痕を残す癒え切ることのない傷。これらは魔傷ましょうと呼ばれ忌み嫌われている。


 魔傷は非常に珍しい後遺症だ。前提として不可欠な高濃度の瘴気が通常環境に存在しないからである。

 ムグラノ近傍で魔傷を残すほどの瘴気が常時ある場所となるとニザ瘴土帯か、アメノ樹獄の中層以上だろう。まして瘴気への高い耐性を有する獣人にこれだけの痕跡を残すには、ニザはともかくアメノでは深部に潜るしかない。

 そしてそうした場所に赴くのは騎士と相場が決まっている。

 けれど、騎士に魔傷はほとんど見られない。宝珠よって獣人を遥かに凌ぐ瘴気耐性を与えられているからだ。

 ゆえに魔傷を持つ者はただ一つの例外、魔禍まか――魔種が引き起こす厄災――の被災者であるという図式が立つ。


 魔禍において、重度の魔傷を負った生還者はよい顔をされない。

 魔種が人間を食らうことは広く知られていることだが、同時に半魔の苗床にする習性があることもまた多くの人間が知っている。こと瘴気への耐性の強い個体は優れた半魔を生みやすく、好んで苗床に用いられる傾向にあった。

 ひと口に苗床と言っても、それを作る魔種によってその性質は様々だ。

 成り代わるモノ、寄生するモノ、子を孕ませるモノ。性質が悪い――多くは魔族だが――モノになると、人間同士の子を半魔に変質させるよう母体を作り変えたりもする。

 いずれも人間社会に浸透し、内側から破壊しようとする点で共通している。

 魔種とはまさしく人類種の大敵と称されるに足る、悪夢のような存在なのだ。


 半魔は魔種として目覚めるまで、人と区別がつかないことが多い。そして目覚めると食人衝動を生じ、育った半魔はその多くが苗床を作るようになる。

 ゆえに苗床は発見され次第処分される。これは絶対であり、そこに地位も身分も関係はない。


 クレアトゥールは魔禍の被災者だ。そしてその身の魔傷は紛れもなく重度のもの。

 教会組織であるサスケント寺院が噛んでいる以上、苗床の可能性は排してよい。だが、周囲がどういう感情を抱くかというのはまた別の問題だ。

 感情は論理で説明しきれるものではない。

 そしてそれは、傷を負った当人にも当て嵌まる。

 理屈ではないのだろう。悪しきものという答えが彼らにとっては最上の価値であり、過程など些末な問題なのだ。論ずる余地があるとするならば、それは彼らにとって最上たる所以である。

 そう、アズルトは理解していた。


 けれど同時に疑問も生じる。

 アズルトにはクレアトゥールが余人の悪意を気にかけるというのがどうにもしっくりこない。座りが悪いというか、噛み合わせが悪いというか。

 初日の騒動の発端にしてもそうだ。

 フードが外れその耳が顕わになった時にも、クレアトゥールに辺りを窺うような怯えの気配はなかった。あったのは顕わにさせられたことへの至極直接的な激情。

 クレアトゥールが傷を見られることを――そしておそらくは触れられることも――極端に嫌っていることはこれまでの様子から明らかだ。けれどそれは外からもたらされるものではなく、内から湧き出てくるものであるように思える。

 己のなかにある価値が悪しきものと断じているから、他者に見られることを拒む。


 思っていた以上にクレアトゥールの状態は深刻であるらしい。

 根は同じでも両者の本質はまるで違う。症状に対処すればよいのか、根本的な治療を必要とするのか。前者であればアズルトは己が周囲と異なることを証明できれば懐に潜り込むことも出来ただろう。けれど後者はそうもいかない。

 気づけたところでなにか講じる手立てが見つかるものではないのだ。

 クレアトゥールがサスケントに拾われた経緯もバルデンリンドは掴んでいる。だが魔禍の内でなにが起きていたのかまでは拾えていない。

 理屈でしか動けぬアズルトには、したがってこの辺りが限界だった。


 準備は出来ているから決心がついたら連れてきてくれと、バッテシュメヘからなにやら吹き込まれたらしい職員が、遠くから控えめに声をかけてきた。

 承知した旨を伝え、クレアトゥールを抱き上げようと腕を差し入れたアズルトは、その左腕から伝わる感覚に思わず動きを止める。

 そっと手を引き抜き、上着を脱ぐと長椅子の端に放った。それから一度上体を抱き起し、放った上着をその小さな肩に羽織らせてから、改めてしっかりと抱える。

 額に見えた小さな傷痕を、乱れていた髪を整えるついでに隠した。


「憎まれ役、ね」

 矛盾だ。

 取り込むため近づいておきながら、拒絶されて然るべき行いに手を貸している。

 目的を思えば本末転倒。余人が聞けば間抜けと笑うだろう。

 だが、これはクレアトゥールの生命線。原作との岐路であろうことをアズルトは確信している。対応を誤れば運命は正史へと収斂しゅうれんするだろう。それでは危険を冒してまで手を出す甲斐がない。


 騎士養成学校の環境はクレアトゥールにとってあまりにも過酷だ。集団生活の強要によって生じるストレスを、この不器用な少女は必ずや持て余す。

 たとえアズルトが抑え役に専念したとしても、四六時中ついているわけにはいかない。アズルトにはやるべきことがあり、クレアトゥールはあくまでもそのための手段の一つ。手段のために目的を疎かにしてはそれこそ本末転倒である。

 捌け口を用意し、定期的に発散させて暴発を回避するのが上策。


 それに、直接的な接触がもたらす反応は未知数だ。

 必要に迫られたとき、引き受ける人間が要る。制約をいくつか外さねばならないが、アズルトであればクレアトゥールの全力をその身で受けても一命だけは取り留める。

 憎まれ役は要る。いくら考えてもその答えに帰着する。

 けれどそれだけでは足りない。バッテシュメヘは希釈することを考えていたようだが、アズルトはそんな不安定なものに労力を割くのは馬鹿らしいと考える人間だ。


 やるからには不確定性は極力排除しなければならない。

 より確実に、他者を目に映さないほど強固に縛り付けなければならない。


 アズルトは静かに立ち上がる。

 そうして担当職員の元へと向かうと、後は淡々と与えられた役割をこなした。

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