第21話 憎まれ役

 すべての検査が終わったのは、日没まであと一刻(約一時間半)に迫った、十一刻をまわろうかという頃合いだった。

 測定がここまで長引いたのは、意識のないクレアトゥールがアズルトらのものと異なる検査を必要としたというのもあるが、宝珠の支給前に行う検査をすべてまとめて片づけてしまったからというのが大きい。

 おかげで宝珠の審査に必要な測定は完了した。丸一日潰すことになったが、面倒を先払いしたと思えば安上がりにも感じる。


 服用した薬の持続時間は獣人だと八刻ほどで、まだ二刻ほどあったため薬効を中和する薬を飲ませてある。通常の睡眠と異なり、寝返りをうつような本来あるべき生理現象も阻害されるため、抜ける状態であるならしてしまった方がよかった。

 それ以上に、目覚めるタイミングを調節できるから、という部分が大きくもあったのだが。

 これまでの行動からわかるように、アズルトには薬の知識が与えられている。

 というのも普通の人間ではないアズルトに従来品が正常な効果を示すか不明であり、また術式で人間に擬態させているものの検査での異常値を避け辛い部分もあって、場合に応じて適当なものを自身で調合する必要があるからだ。


 最後に立ち寄った検査室に、今はアズルトとクレアトゥールの二人だけ。魔導器の魔力は落ちていて、灯光も半分ほどが消されていた。

 クレアトゥールを長椅子に寝かせたアズルトは、すぐにはその視界に入らない場所を選んで、壁に背を預け思考の整理を行っていた。

 実を言うと職員からは処置室の寝台を勧められていた。クレアトゥールのことを思えば確かにそちらの方がよいのだろう。けれどアズルトはこれから行うことを考え、本日はもう使う予定がないというこの場所を借りたのだ。

 最後までバッテシュメヘは顔を出さなかったが、根回しだけはどうやらしっかりとしてくれていたらしい。彼に付き合うのは大変だろうけど頑張れよと、覚えのある励まされ方をしながら使用の許可をもらった。当然、機材を壊すなと重ねて念押しをされたのではあるが。


 そうこうしていると、長椅子の上でクレアトゥールが身じろぎをした。

 意識を取り戻したのだろう。やがて少し頭を動かして部屋の様子を確認しはじめたのだが、間もなくぴたりとその動きが止まった。

 アズルトが気取られたかと自らの不明を疑うなか、クレアトゥールはやおら羽織らせていた制服を鼻元に引き寄せた。


 なるほどそうくるかとアズルトは妙な感心を覚える。

 目覚めてからのクレアトゥールの動きはシミュレートしていたのだが、嗅覚による反応を失念していた。いや、甘く見積もっていたのだろう。ここはニザではないという無意識の気の緩みが働いていたと推察される。

 そうして分析を進める間に、クレアトゥールは素早い身のこなしで飛び起きていた。気配を心持ち潜めていたアズルトから距離を取る形で。


 跳ねた勢いでずり落ちそうになった上着を慌てて掴み羽織りなおすと、胸元できつく合わせる。

 アズルトのものと気づいてなお、手放そうという考えには至らないらしい。

「目が覚めたみたいだな」

「――っ。見た、のか」

 低く掠れた声だった。無理やりに感情を押し殺したのだろう。それでも漏れ出した激情でかすかに震えていた。

 だがアズルトはそんなクレアトゥールの激昂を無視する。

 預けていた背を壁から離す。そして力を抜き、自然体でクレアトゥールに正対した。


「その分だと薬はきちんと抜けたみたいだな」

 視線を外し、足先までを不躾なほど露骨に往復しながら言った。

 尾の毛が逆立ち、ひゅうとクレアトゥールの喉が鳴る。激情でタガの外れかかった魔力が、羽織った上着の裾を大きくはためかせる。

 そして膨れ上がった魔力が刹那に収束し――。

「っくぁ」

 すとんとクレアトゥールの膝が落ちた。

 頽れたのではない。蹲るようにして小さく震えさせる肩に、そんな惰弱な胸懐は乗っていない。

 俯いていた顔がゆっくりと上げられる。

 アズルトを射抜く瞳に映るのは、憤怒と憎悪と砕き散らした殺意の欠片。

 クレアトゥールは荒れ狂う己の情動を、その際で辛うじて御することに成功したのである。


 心に素直になれば楽だろうに、馬鹿な奴だとアズルトは胸の内でため息を漏らす。だがそこに侮蔑の意思はない。あるのはいくらかの呆れと、それに勝る感嘆だ。

 想定には入れていたが、これまでの経緯を鑑みるに出来るとは考えていなかった。

 アズルトとしてはここで殴りかかってきてくれた方がなにかとやりやすい。

 けれどなったものはなっただ。クレアトゥールの奮闘には敬意を払おうと思いを新たにする。

 もっとも、やることに大差はないのだが。


「恨めしいか」

 固く握りしめられた上着から滴る紅の雫を視界の端に認めながらも、触れることなく淡々と言葉を放る。

「俺が付き添うことを伝えていたら、おまえは薬を使わなかっただろう。薬なしにどうする。己の心を偽って検査を受けるか。ここで蹲っているおまえにそれは無理だ。言ったはずだ。学園に留まることを望む限り、検査は幾度となくある。で、次はどうする」

「どうでもいい」

 ぽつりと怨嗟の声が落ちる。

「そんなの、どうでもいい。あたしはただ――」

「恨めばいい」

「ぇ」

 よほど意外だったのだろう。発していた怒気が大きく乱れた。

「その権利がおまえにはある。憤りがあるならぶつければいい。憎いならば晴らせばいい。これも言ったと思ったんだがな。逃げてなにが悪い」

「なんで、そこまでするんだよ」

「なぜ。この期に及んで気づいていないのか、それとも気づきたくないのか。まあいい。次もこの条件を呑むのなら、手を打つことは約束する」


 猜疑の混じった瞳が垂れかかった前髪に隠された。

 とすっと床を打ったのは、上着を握りしめていた両の手だ。必死になって隠していた傷痕が晒されてなおクレアトゥールに動きはない。

 いや、状態の変化うごきはあるか。身体の強張りが解け、荒かった呼気が浅く早いものへと変わっている。

 そしてそれが止まった次の瞬間。

 固いものの砕ける音が、果物を潰したような水気を帯びた音に混じった。


「……え、あ。うそ」

 アズルトの肋骨を砕き肺に穴を穿つ己の指先を見て、クレアトゥールが焦燥の声を漏らした。

 自分がなにをしているのか。いや、なにをしようとしたのかは理解しているらしい。

 直前に心臓から狙いを逸らしたのは、クレアトゥールにとって出来る精一杯の自制だったのだろう。

 定まらない視線を見るに相当慌てているようだが、指を引き抜いたりしない辺りは慣れている。


 右胸が訴える痛みを歯牙にもかけず、アズルトは淡々と思考を巡らせる。

 そもそも焦るようなことなどなにも起きてはいないのだ。ラケルで目覚めてからの一年、毎日のように繰り返してきたこと。つまり日常だ。

 それにこれは、ようやくにしてアズルトが待ち望んだものでもある。

 右肺はすでに魔力体側からの強制割込みで活動をほぼ止めている。大本から血流は絞っており、出血もそれなりで収まる。

 アズルトとして制限している肉体の状態の把握も兼ねているので痛みはそのままだが。


 ポケットからハンカチを出し、クレアトゥールの指を包むようにして傷口に押し当てる。間接的とはいえ触れたことでその体が強張るが、抵抗する素振りはない。

 羽織っていた上着が落ちて両腕の傷痕が顕わになっていることについても、今は考えが及んでいないのか、それとも驚愕と困惑のなかで希釈されているのか、身じろぎ一つしようとはしなかった。


「抜け。常備している魔法薬がある」

 すぐ近くでもの言いたげな黄金色の瞳が見上げている。

 けれど実際にはなにを言うでもなく、小さな頷きとともに承諾を示す。

「ん……」

 ずるりと指先が引き抜かれる。かすかな引っかかりは砕かれた肋骨だろう。欠片は、上手く戻らなければじきに排出されるので気にしなくてよい。


「人は呼ぶな」

 やや動きの鈍い右手で血に染まる布を押さえ、帯鞄ベルトポーチから取り出したのは特殊な丸薬だ。これ自体に特別な効用はない。他の者が服用しても毒にも薬にもならぬし、調べられたところでなにかがわかるわけでもない。だがアズルトにとっては意味がある薬。

 人間ならざるリドを人間たるアズルトに擬態させる幾多の制約、その一つを止めるための魔法薬だ。原理としては難しいものではなく、制約の術式に仕掛けられている個別の停止信号を目的のものに合わせ薬という形で取り込んでいるだけ。


 もっともこれは本来アズルトが意識を失っている時に用いる緊急の安全装置だ。制約の術式それ自体への干渉はアズルトが直に行うことが出来るため、薬なんて迂遠なやり方をせずとも直接魔力で状態を操作することができる。

 それをあえて薬で行うのは、ただの演出だ。

 実のところ外科的な止血すら不要なのだが、わざわざ普通でないことを明かす利もない。


 口に含み奥歯で噛み潰せば即座に効果は表れる。肉体が復元されるむず痒さは、痛みと違ってどうにも慣れない。

 やがて疼きが完全に消えたのを確認すると傷口を隠していた布を取り払う。上着にぽっかりと空いた穴から覗くのは、元通りの痕一つない素肌だ。

 肉体の治癒能力に関わる制約は二つあるが、有事の際にはやはり片方だけでも止めておくのが正解かもしれない。

 そう現在の脆弱な肉体を分析した。

 アズルトは過信できるほど、素の己というものを高く評価してはいないのだ。


「いくらか気は紛れたか」

 アズルトが治療を行う傍らで、二人分の血に濡れた手をクレアトゥールは黙然と見つめている。

「……おまえがわるい。ぜんぶ」

「そうだな」

 ぴくりと、俯いていた頭がわずかに戻る。

「だからおまえが気に病む必要なんてない」

 手元に落ちていた視線がゆっくりと上がる。恐々と。アズルトにはそれがどこか顔色をうかがうような動きに見えた。

「おまえは心の平穏を守るため、ただ敵を排除しようとしただけだ。だがこれでわかったはず。おまえには俺の提案を受け入れる外に道はない」


 アズルトにクレアトゥールの抱える懊悩をどうにかしようなどという考えは端からない。あるのはただそれをいかに効率的に利用するか。

 手放せぬ感情があるのならばそれを質にすればよい。策とはつまるところそれだ。

 この度の一件はアズルトがそうなるよう仕向けたものであるが、本質はそこではない。

 クレアトゥールは感情に抗えない。その事実をアズルトは己の最大の武器とした。


 追い打ちをかけるように、その胸元に抱かれていた右腕へと手を伸ばす。混迷の極みにあるクレアトゥールは、呆気ないほど容易にその手首を掴ませた。

 一瞬、振り解くような素振りを見せるが、そこで動きが止まってしまう。

 雑多な感情の奔流が、見上げるようにして睨むその金色を涙で滲ませた。

 アズルトはそれを見て取ると、ほどなくして絡めていた指を解いた。

 後ずさりしようとしたクレアトゥールが寸でのところで踏み止まる。だが口惜しさは隠しようもなく、雫となって頬を伝った。


「おまえの事情なんてどうでもいいが、自制し切れるものではないんだろう、それは。ならせめて、恨むのは俺だけにしておけ」

 組の奴らを殺されては俺が困るからな。伏せておいても構わぬであろう理由の一つだったが、直感と打算に促されるようにしてアズルトは付け加えた。

「どうか、してる」

「かもな」

 脇を通り抜け、落ちていた上着を拾うとそれを睨み続ける少女に放った。


「着替えてきたらどうだ。血は止まったんだろう」

「話、終わってないし」

「十二刻を過ぎたら識石は使えない。一晩、その格好で俺と過ごすか」

「っぁ、むり。そんなの……」

 光景を想像したのか頬をいっそう赤く染め、ふるりと全身を震わせる。羞恥ではなく憤怒に、だが。

 身を隠すものなどいくらでもあるというのに、妙なところで素直な娘である。

 そもそも、鍵が使えなければ外に出られないなどという話もない。職員に案内を頼めばよいだけの話だし、部屋の扉は識石などなくても開く。

 それをわざわざ解説してやる気も、アズルトには更々ないのであるが。

「なら行け。俺はここの始末をしておく」

「……ん」

 床を汚す血痕が最後の一押しとなったようだ。

 少しだけ申し訳なさを匂わせクレアトゥールは更衣室へと向かった。



 災難な日だったな、アズルトはふっと息を吐くと張りつめていた緊張の糸を解く。

 誰にとってのとは意外と難しい。強いて言うならはアズルトとクレアトゥール、お互いにとっての、だろうか。けれどきたるべき明日あすを、そしてその先を思うのであれば、今日という日は歓迎すべきものとなるのだろう。たとえそれが望まぬものであったとしても。

 しかしすべては答えが出てからだ。

 自らの撒いた種がどう芽吹くのか、確信と呼べるほどのものはアズルトにはない。断言できるのは、自らの行いがクレアトゥールの心に傷を増やしたという一点についてのみ。


 クレアトゥールの貫手ぬきてにはアズルトを死に至らしめんとする確かな意思が込められていた。

 正しく全身全霊。狙いこそ際になって外したが、込められていた魔力は散ることなくアズルトの胸を穿った。

 技とも言えぬ稚拙な魔力の放出だが、量だけで言えば黒騎士にも匹敵するそれは、青位止まりの騎士が受け止めきれるものではない。胸には背に至る大穴を開けられ、肺腑が爆ぜるばかりか心臓までもが潰されるだろう。


 自らの御しきれぬ衝動を、そしてその危うさを知った。

 あの傷だらけの少女は、いまアズルトが生きていることに安堵している。

 安堵、してしまった。

 おそらくは自覚もあるだろう。受け入れるのには幾ばくかの時を必要とするかもしれないが、事実から目を背けはするまい。退路はアズルトによって既に塞がれているし、そんなものなくとも彼女は自制することを知っている。


 言葉に仕込んだ毒が溶け出すのはそれからだ。

 万事上手く事が運べば、クレアトゥールはアズルトの良き協力者となることだろう。

 けれどアズルトはそこまでを望んではいない。

 アズルトの都合など無視して世の中は流れてゆくものだ。だからせめて、クレアトゥールが己の傍らを居場所と定めてくれればそれでよいとアズルトは考えている。


 与えられた答えに納得するというのはなかなかに難しいことだ。人は誰しも自らが得た答えを最良と思いたがる。

 世の中には言葉を額面通りにしか受け取れない者もいるが、クレアトゥールに限って言えばむしろ逆だ。彼女は他人を信用していない。

 出来るような境遇ではなかったのだろう。拾われてからのサスケントでの扱いは、獣を躾けるのに近かったようであるからして。


 クレアトゥールにとって信ずるに足るのは、ただ己の心のみ。

 だからと言うべきか。アズルトがたばかりを打ち明けたときに垣間見せた怒りには、少しでも言葉を聞き入れてしまったことへの悔恨も含まれていたように思える。


 今回、あえてアズルトは真意を伏せ、歪めて伝えた。

 答えはクレアトゥールが自ら導き出さねば意味がない。

 否、彼女が自ら導き出した答えであればこそ意味が生じる。

 好きなように捉えればよいと、アズルトはそう考えていた。

 すべてを思うように進められるほどアズルトは万能ではない。

 極論、結果さえ伴えばその中身などどうでもよいのだ。自らの傍らに在るのならば、万人が目を背けるような醜い理由であろうとアズルトは歓迎する。


 必要な手順は踏んだ。必要な言葉も伝えた。

 そして、答えを出すのは彼女自身だ。


 血痕の始末を終えたアズルトは検査室を出て待合所で待つことにした。

 いずれ出るであろう答えに、自らの講じるべき手を模索しながら。

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