第18話 温室にて狐の少女と言葉を交わす
温室――というよりは薬草園なのだろう。
アズルトが借り物の知識を己の記憶で塗りつぶすように、お行儀よく配置された植物を紐づけしながら歩いていると、隅っこで膝と尻尾を抱え小さくなっているクレアトゥールを見つけた。心なしか耳もへたれて見える。
途方に暮れている、よりは不貞腐れているが近いだろうか。
アズルトが潜めていた気配を徐々に顕わにしていくと、クレアトゥールも気づいたらしく殺気が飛んできた。もっともそれも直にその姿を見つけてか、すぐに霧消する。
「行かない」
警戒心を煽らぬようゆっくりと近づいてゆくと、そんな駄々をこねる子供のような言葉が投げつけられた。
どうやらアズルトがここに来た理由は承知しているらしい。ここまでまるで逃げようという気配を見せぬところからして、誘い込まれたことも把握しているのだろう。あるいは、アズルトを見てすべてを理解したか。
「なにも言ってないぞ」
まずは一歩。声に立ち止まっていた足を静かに踏み出す。反応はわずかに顔を背けただけ。続く二歩目で声を拾う。
「なら、なにしに来たんだよ」
もうあと二歩も近づけば手が届きそうな距離まで進んで再び足を止めた。
顔は完全にそっぽを向いているが、耳がその心の在処を物語っている。
「さてな。俺は押し付けられただけだ」
「意味、わかんないし」
「隣、座るぞ」
「嫌だ」
そう口では否定しつつも、クレアトゥールは抱える尻尾の向きを入れ替えている。
矛盾する言動に迷いが過るも、突っ立っていても仕方がないと心持ち広めに距離を取って腰を下ろした。そしてクレアトゥールの所作や息遣いから拒絶の気配がないのを確認すると、ようやく壁に背を預け肩の力を抜く。
バッテシュメヘとの問答にさえ動揺を見せなかったアズルトだったが、クレアトゥールとのたった数往復のやり取りには大きく神経をすり減らしていた。
訓練場での会話とはまるで別物だ。あの時はただ言葉に言葉を返していただけ。
論理と合理で片付く話はさして苦ではない。そうしたやり取りは知識と知恵でおおよそ片が付くからだ。バッテシュメヘには敗北を喫することとなったが、それは会話の難易度とはまた別の話である。
今は警戒されている相手の心に潜り込まなければならない。
一つアズルトにとって救いだったのは、そのクレアトゥールの心が耳や尾の動きに顕著だと気づけたことだろう。だがそれはあくまでも指標であって、決め手とはならない。
出だしはまずまず。だがここからどう詰めるかが難しい。
バッテシュメヘが言うように、アズルトはこの事態を想定し幾つかの備えをしている。しかしそれらは結果的に、あるいは流れのなかで使うことを考慮したもので、今回のように真正面から持ち掛ける計画はアズルトの候補には入っていない。
アズルトの有する対人性能なんてクレアトゥールより多少マシといった程度。言葉だけで他人を動かす人心掌握の心得はおろか、距離の取り方すら手探りでやっている綱渡りに等しい状況だ。
ただクレアトゥールは抱えているものが大きいため、嫌がる行動もそれなりに知識から導くことができた。それに自らの立場に寄せて考えてみれば存外わかりやすい。己が身の秘密に踏み込ませるか否か。アズルトならば頑なに否を繰り返すだろうが、そこは立場の違いもある。
今はまだ様子を見るべきか。
理想はクレアトゥールから切り出してくれることだが、高すぎる望みに失笑すら浮かぶ。知り合ってまだ三日。衝突しかしていない相手との間にどんな会話がある。
だからこそ、か。
バッテシュメヘがアズルトを指名したのは、なにも思惑を持って行動していたからというのだけが理由ではない。
無理に衝突を避ける必要もない。ただ一人、ある意味で対等。
だがどう詰めるにせよ、対話の意思くらいは持ってもらわなければ始まらない。
それからしばらく、互いになにも言葉を発することなく時が流れた。
沈黙を破ったのはクレアトゥールだった。
「おまえのその傷……ぁ、違う。なんでもない、から」
ぽつりと、呟いてから自らの行いに気づいたのだろう。目を見張ったかと思えば、あたふたと視線を彷徨わせる。
必死になって誤魔化そうとしているようだ。聞いたことをなかったことにしたい。そんな思いが見て取れた。
それはそのまま、クレアトゥールという人間を表しているようにアズルトには思えた。
今にも泣き出しそうな瞳が、アズルトを映しては逃げるということを繰り返している。だが期せずして転がり込んできたこの好機を、糸口を探していたアズルトが見過ごすはずもない。
「気づくのか。目がいいな」
見ていたであろう二の腕の辺りを軽くさする。クレアトゥールが身を強張らせるのを視界の端で捉えるが無視した。
そこには腕を半周する形で薄っすらと傷痕が残っている。なんの変哲もないような、騎士を志す者であれば誰もが持っている、訓練傷を思わせる薄い筋。
だがそれは同時に、アズルトにとっては有り得てはいけないものだ。
ただの病人に過ぎなかったアズルトが、ラケルでの地獄の二年を生き延びられた最大の理由でもあった。
だが現に傷痕はアズルトの体の至る所に残されている。
「魔力体を損傷した状態で無理に肉体を修復すると、こうなる」
腕を掲げ、クレアトゥールの前へと痕を晒す。
少しの間だけアズルトと視線を絡ませたクレアトゥールだったが、おずおずといった様子で視線を下げた。
「通常、治療術式は魔力体の情報を参照し肉体を回復させる。魔力体に損傷がある場合は、そちらの治療を並行するか優先させるのが常道だ。先に傷が塞がっていると魔力体の正常な治癒を妨げる場合があるからな。こいつはその実例。魔力体による干渉で創られた傷だ」
クレアトゥールの視線が一瞬だが、検査衣の裾から覗くアズルトの足に注がれた。そこにも腕と同様の傷痕が一や二では済まぬ数、刻まれている。
しかしクレアトゥールはそれに言及することもなく、再びぎゅっと膝を抱えるようにするとその上に顎を乗せた。
「ほとんどのヒトにはただの傷と見分けがつかない。傷を負った当人でさえな。だからまあ、面倒を避けたいならほかで見ても黙っておけ」
「……ん」
不満と聞こえなくもないが、おそらくこれがこの少女なりの肯定なのだろう。
言葉足らずな彼女らしい、そうアズルトは思った。
再び沈黙が両者の間を埋めるが、先のものとは少し空気が違うように感じる。尻尾のせいだろうか。抱えられていた腕から抜け落ちて、今は体の脇で小さく地面を叩いている。
切り出すならこのタイミングを置いてないだろう。
アズルトは決断する。
「これからどうするつもりだ」
尻尾が地面を打ったまま動かなくなる。顔もまた少し背けられた。けれど耳だけは、アズルトの言葉を一言一句逃すまいと傾けられている。
話はしたくないが、聞く意思だけはあるということだろうか。
少しだけ、クレアトゥールとの付き合い方がわかってきたように思うアズルトだ。そしておそらく、取るべき距離というものも。
「あんたの事情なんて俺には心底どうでもいい」
できるだけぶっきらぼうに、吐き捨てるように言う。
「学園では候補生の生体情報を定期的に調べる。宝珠を得たことによる変化を観察するためだ。今回の検査は、大方それを与えるための最終確認だろう。今のままならあんたは節末の審査で弾かれ、宝珠を与えられない。つまり候補資格喪失で退学だ」
まずは論理で外堀を埋める。
クレアトゥールに常識的な判断は望むべくもないが、どうにも頭の出来に問題があるわけではないらしい。いや、大ありか。
頭の回転は悪くない、こちらの方が適切だ。
完全に独自のルールで動いているが、状況を分析するだけの論理性は持ち合わせているようだし、対応さえ誤らなければこうして会話も成立する。
「言ったように、宝珠を得てからも必要な過程だ。これから何度もある」
騎士を目指す上で避けて通ることはできないのだと、重ねて刷り込む。
嫌だと感じているのは、膝を抱える腕に込められる力が増していることからも瞭然だ。
だが理解はしている。アズルトの語る言葉がただの事実の確認であることを。正論を振りかざしているわけでもない。ゆえに反論の余地すらそこにはない。わかっていると叫ぶことさえ出来ない。それは答えが一つしかないと認めること。どれだけ嫌なことでも、避けられないと認めること。
そう、それで良い。アズルトは垂らした糸に得物の手ごたえを感じた。勝手に答えを出してくれれば手間は減るだろうが、得るものも乏しくなる。足掻いてくれる方がアズルトにとっては都合がよかったのだ。
「嫌なことから逃げるのは悪いことなのか」
「悪いって、言わせたいんだろ」
クレアトゥールはまだ、有りもしない逃げ道を探している。
ならばアズルトはそれを与えてやればいい。
「なぜだ。別に逃げたっていいだろう」
言ってみて気づく。自身が以前は生きることから逃げ続けていたこと。そして今は死から逃げ続けていること。
思えば老師の試練を生き延びたことといい
なぜか、白昼夢のような今朝の出来事が脳裏をよぎった。
今、考えるべきことではない。
アズルトは眼前のクレアトゥールに意識を集中する。
どこかぼんやりとした表情で小首を傾げているのは、可愛げがあって大変よろしいと思うが、しっかりとついてきてもらわねば困る。
「逃げることそれ自体に良いも悪いもない。結果を求めるから、良いだの悪いだの言われることになる」
手を出せ、そう言いながら検査衣の内側、腰に括った紐を外し取り出す。
困惑を隠しもせず、それでも恐々と差し出された手の平の上に、紐の先端に吊るしていた卵にも実にもあるいは小さな虫にも見えるソレを落とした。
「中に薬が三粒入っている。魔力体を覚醒状態のまま意識だけ落とす。一度につき一粒、噛んで服用する。四半刻(三十分弱)もせず効果が出るから、検査の準備ができた状態で飲め。目が覚める頃にはすべて終わっている」
戸惑いが徐々に理解へと変わっていく。
あまり嬉しくなさそうに見えるのは、手口がサスケントと同じだからだろう。
違いがあるとすれば、それを自らの意思に委ねるか否か。
「結果が同じなら逃げてなにが悪い。嫌な思いをするだけ損だ」
なんの解決にもならない単なる欺瞞。アズルトが与えたのは救いでもなんでもない、ただの逃避だ。
だが、紛うことなきアズルトの本心でもあった。
「なんでおまえは……」
口にしかけてクレアトゥールは言葉を濁す。そして「目的はなんだ」と改めてそう問い質した。
「検査にいい思い出はない」
「……どうでもいい」
視線が外され、煩わし気に吐き捨てられた。
アズルトがその事情を足蹴にしたときを彷彿とさせる物言いだが、直前の間が意図してそう振舞ったことを匂わせていた。
「答えになってない」
「打算くらいあるだろ、善意なんて期待するな。俺も自分が生きるので精一杯のちっぽけな人間の一人なんだよ。貸しを作って安心したい。そうすれば困ったときに遠慮せず頼れるからな」
「よく、わからない」
それだけ言って膝を抱き寄せると、そこに顔を埋めてしまう。
妥当な感情だとアズルトは思った。
アズルトにとってもそう感じる部分は多かったからだ。それは決してクレアトゥールの感じた困惑と同種のものではなかったが。
自身でもアズルトという人間を理解しきれていない。アズルトであればおそらくこんなことは口にしていない。リドとしての言葉が混じっている。そして死者の言葉も。
クレアトゥールは本来のアズルトが相手をするには荷が重いのだ。
だからこそアズルトという人間が定まるまでは、必要以上の接触を避けようと考えていた。たった三日で当初の予定からずいぶんと修正を入れている。今回にしても、準備はしてきたが教官を間に挟む形で補佐するのが理想だった。それもすでに承諾した手前、言っても詮無いことか。
少しするとクレアトゥールは自らの心の内に折り合いをつけたのだろう、思いがけぬ丁寧さで渡した薬を
それを確かめたアズルトは静かに腰を上げる。
「受ける気があるなら明日、予備の時間があるからそっちに出るといい。それからこいつも渡しておく」
言ってバッテシュメヘから預かった
見上げる視線がなにかを訴えかけているように思う。しかしそれがなんであるのかアズルトには判別がつかない。
やがて諦めたように俯くと、ゆらりと立ち上がった。
そして今度は険のある瞳にアズルトを映す。
「道、わかんない」
「……ああ、なるほど」
得心に呟いた直後、クレアトゥールの踵がアズルトの足元を踏み抜くが、それはわずかに爪先をずらして避けた。
相も変わらず不機嫌そうな顔に、アズルトはどこか恥じらいと悔しさらしきものを垣間見た気がした。
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