第17話 東域守座の赤騎士・後
逃走したクレアトゥールを誘い込んだ温室、その扉を目の前にして、バッテシュメヘ教官は呑気にも取り出した二本目の煙草に魔力を灯し始めた。
立ち上る慣れ親しんだ
「なぜ俺を巻き込んだ」
焦らすように用意されたこの時間がバッテシュメヘの誘いであることを理解しつつも、アズルトは言葉を崩し質した。
バッテシュメヘは豹変したアズルトの態度に眉一つ動かさず応じる。
「あれをどうにかできるのが他にいるか」
「俺ごときにどうにかできる相手じゃない」
「勝負の件」
壁に背を預け薄れた瘴気の煙を吐き出すと、アズルトを見もせず言葉を放る。
「これでなにかを聞き入れる気はないが、他でなら適用してやってもいい」
「決定権はあんたにあるんだろ。都合が悪ければどうせまた断る」
「やっぱガキだな。頷かねえなら頷かせるだけの材料を持ってくりゃいいだけのことだろ」
「それ、苦労するのは俺だろ。関係ないのに貧乏くじを引かされている気がするな」
「……バルデンリンドでおまえの派遣が決まったのは黒幽の二節に入ってからだろう」
脈絡のない話題の変化にアズルトは困惑よりも警戒を強める。
虚空に向けられたバッテシュメヘの瞳にアズルトは映っていない。呟きも問いというよりはどこか確認に近い響きだ。
バッテシュメヘが述べたことに特別おかしな点はない。至って普通のことだ。多くの新入生が同じころに合格決定通知を受け取り、入学に向けての最後の準備に取り掛かる。
「そうですね。それがどうかしたんですか」
「最初の通知が届いたのは」
「さあ。その辺りの手続きは公爵家がやってくれましたから」
想定された問いとそれに対する回答。ただ定められた役割に則り、その作られた過去を舌に乗せるだけ。
だがこの無意味な問答にアズルトは一つの確信を得ていた。
バッテシュメヘ教官はアズルト・ベイ・ウォルトランが《子山羊》であることを見抜いている。
《子山羊》とは学園で用いられているある種の隠語だ。領外の者は《バルデンリンドの子山羊》と、より明確な表現を使うことの方が多いだろうか。
事実を知らぬ殆どの者は、バルデンリンド家が後援となって入学させた下級貴族や平民を意味すると考えているようだが、それは意図的に作られた真実の上澄みだ。
正しく《バルデンリンドの子山羊》の語を用いた場合、それはバルデンリンド公が才を見出し忠誠を誓わせた下級貴族の子弟を指す。つまるところ彼らはバルデンリンド公爵の直属の臣下であり、その理念に従う者たちという意味になる――広義には。
狭義の《子山羊》はまた別の顔を持つ。
まず『臣下』の言葉の重みが違う。彼らの主君はニザ東域守座バルデンリンドの座主であり、アーベンス王国のバルデンリンド公爵ではないのだ。したがって役割も異なってくる。
広義の《子山羊》たちがバルデンリンド家の理念に従い騎士として高みを目指すのを役割とするならば、狭義の《子山羊》の役割は座上の目となり耳となりそして手となり足となることにある。彼らの身分に価値などなく、下級貴族として入学を果たしていたとしても、その大多数の名と籍は作られたものだ。すなわち、平民であるということ。
騎士としての才能は前提。その上で多方面に高い素養を求められる。自然と数には限りができ、運用にも入念な仕込みが求められる。
今年はアズルトを割り込ませたこともあって一人もいない。
そう、一人もいないのである。アズルトにとって《子山羊》の名は隠れ蓑。文字通りの
「このくらいで尻尾は出さないか」
「子山羊だとしてどうします」
ゆえにアズルトは確証を得ているらしきバッテシュメヘに迷いなくその札を切った。
初日の騒動を皮切りに、準備してきた守り札が恐ろしい勢いで減っているが、背に腹は代えられない。
だが、それは甘い考えだった。
バッテシュメヘもまた座上の直臣、そして紛うことなきニザ東域守座に属する騎士なのだ。
「おまえが子山羊だあ、笑わせんな。子山羊だって試験くらい受けさせる。結果を改竄すんのと事実そのものを捻じ曲げんのとどっちが安全かって話だ」
たかが子山羊一匹入れんのに旦那がンな危険な橋を渡るかよ。独り言のように呟きくつくつと笑う。
アズルトなど眼中にないといった様子で、たなびく瘴煙を眺めながら言葉を続ける。
「おれの転属が決まったのが黒幽の二節も末。なんの話も聞いちゃいないが、理由はおまえだろう。貧乏くじを引かされているって言ったか、そりゃどっちの話だ。こちとらもう六年も付き合わされてる。裏事情を知ってて誤魔化されるほど間抜けじゃねえんだよ」
「……要領を得ないな。なにが言いたいんだ」
完全にやり込められる形になってしまったアズルトだが、それでもここで言質を取られるような下手は打たない。
「ちっ、可愛げのねえガキだ。言ったろ、おれはなんの指示も受けていない。つまりおまえに便宜を図る義理もねえってわけだ」
「便宜どころか厄介ごとを押し付けられている気がするんだが」
「てめえから首突っ込んどいて言うセリフか。今回もそうだろ。関わらない選択肢はいくらでもあったはずだぜ」
気づいていたのかという驚きとともに、待合で見せた嫌そうな顔が思い出された。
「ずいぶんと高く見積もってくれているんだな。邪推と言ってもあんたは聞き入れはしないんだろ。それに、火に近づいている自覚くらいはあるからな」、
「自覚はあるだあ。てめえのはんな可愛げのあるもんじゃねえだろ」
バッテシュメヘの指先が動いた――そう認識した次の瞬間には、アズルトは胸倉を捕まれ廊下の壁に押し付けられていた。
昨日の訓練など比較にならない、加減抜きの騎士の瞬速。
唾を吐くように顔に瘴煙を浴びせられ、同時に体表をぴりっとした感覚が駆ける。
バッテシュメヘがアズルトの腰の脇を一瞥した。
「読んで動いてる奴の言うセリフじゃねえよなあ」
そしてあっさりと拘束を解く。
アズルトは己の未熟さに歯噛みする思いだった。制約が多いとは言え相手は未だ黒位にも届いていない。全力の不意打ちを見切れなかったこともそうだが、探知術式をまともに受けたというのが実にいただけない。
そもそも仮にも貴族を名乗っている相手に対し、前置きなしで魔術による身体検査を行うというのが暴挙の極みなのだが、その点についての不満もアズルトは早々に捨てた。
弱者の無様な言い訳にしか思えなかったからだ。
ただただ、強くならねばならないという想いだけがあった。それこそ、クレアトゥールを使い潰してでも。
乱れた襟元を正しながら、無駄と知りつつも最低限の抵抗だけはしておく。
「初日に散々な目にあったからな。なにか起きた時の保険くらい、いくつか用意しておく」
「……で?」
短くなった煙草から魔力を払い、鞄に戻したバッテシュメヘが結論など決まっているとばかりに先を求める。
アズルトもこの期に及んで白を切ることの不毛は理解していた。
少しばかりこの授業料は高くなりそうだと、そんなことを考えていただけだ。
「条件がある。あれの扱いについて口を挟まないこと。それから、あんたの名前を使わせてもらう」
「好きにやれ。死臭のするガキのお守りなんざ端から願い下げだ。名前については不利益になる使い方をしたら対価を払わせる」
「あとは、明日以降に個別で測定時間を用意してくれ」
「それだけか」
「ああ」
「ならこいつを渡しておく」
言って放られたのは細長い薄緑の板が二枚、
東域第八実験基地ユフタにはなかったが、アズルトも物としては知っている。
短期の魔力記憶媒体とでも言うべきか。術式を封入すれば魔導器の真似事までできたりと用途は広いのだが、黒板みたいなもので外部からの魔力干渉に著しく弱い。
長持ちしないのだ。そんな性質だから瘴気のある場所では使えない。
バッテシュメヘが持ち歩いているというのがアズルトには意外に感じられた。
「おれの名で代理権限を入れてある。使えるのは
「……了解しましたよ、教官殿」
意外であるのも当然だ。識石が二枚。それぞれが今日、アズルトとクレアトゥールに渡すべく用意されたものだったのだから。
足りないものが多い。アズルトは去り行くバッテシュメヘの背を見送りながら考える。
借り物の知識ではやはり限界がある。
戦いに明け暮れた二年。そうした技術については多少なりとも明るくなった。体を動かすことにも、魔力を操ることにも慣れた。
けれどまだなにもかもが足りていない。
ヒトであることをニザでは求められなかった。座上と対するときのため言葉だけは取り繕っていたが、それ以外はほぼこの二節で詰め込んだもの。
アズルトは《子山羊》を装っているが《子山羊》ではない。別のモノであるがゆえに《子山羊》ではないのであるが、同時に決して《子山羊》にはなれない。それだけの素養がアズルトには欠けている。ヒトとして有るべき振舞いが出来ない。
経験を積むべきだ。
経験値を稼ぐべきだ。
稼がねばならない。
ヒトとしての。
バッテシュメヘとの対話はアズルトにとって己の現状を確認するよい機会だった。《子山羊》でないことを知られたが、元から確信していたのだ、それを知れたことはむしろ収穫と言えるだろう。
厄介ごとを自ら抱え込むハメにはなったが、天位が使えればアズルトの試せることの幅も広がる。
禍を転じて福と為す。
そうだ、これはよい経験だったのだ。アズルトは思考をそう締めくくった。
そしてバッテシュメヘ消えた扉に背を向ける。
これからのため。これからの己のために、まずはあれを扱えるようにしよう。
気持ちを新たにしたアズルトは音もなく温室の扉へと歩み寄った。
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