第1章:共謀者

第13話 魔力体と残されていた記憶

 深いまどろみの底、常世とこよの淵に沈んでいた意識に音が差し込んだ。

 やわらかな、音の連なり。

 それが女の声であることに彼が気づくのには、幾ばくかの時間を要した。


 いや、ちがう。

 声であって声ではない。これは、歌。


 混濁する世界、甘やかな浮揚感が思考をすぐに散り散りにしてしまう。

 歌声もまた、彼にはどこか眠りに誘っているように聞こえる。

 それでも細切れの意識を繋ぎ合わせ、なんとか今を理解しようと試みる。


 耳になじみのないことばで紡がれる、異国の歌。

 控えめな抑揚。小声で囁くようにして謡われるそれは、まるで赤子を寝かしつけてでもいるように聞こえる。

 染み入る心地よさがあった。

 死ぬためだけに歩み続けた道のなかで、いつになく健やかな時。

 身を委ねてしまいたい。彼の朧な意識をその思考が塗りつぶしてゆく。

 ゆえに、これは違うと感じた。彼の彼を足らしむるものが、彼の世界にそんな都合のよいものはないのだと断じた。

 それでも、抗ったのはたぶん偶然だ。


 身体の感覚はほとんどなかった。身体があることについて疑問を抱く余裕もなかった。ただただ重い瞼を押し上げることに意思を傾けた。

 そうして瞳に映ったのは薄桃色に満たされすべてが曖昧な世界。

 音律が途切れ、滲む視界のなかで銀光が揺れた。


 ――声の主が見ている。あたかも直に触れられているかのように、それがはっきりと感じられた。

 不快には思わなかった。

 見上げる眼差しは悪戯めいたものを潜ませていたが、触れるのを恐れるような、そんな臆病さが同時に垣間見えたからかもしれない。

 そっと胸をなでおろしたのは、果たして彼だったか、それとも薄桃の世界――人工子宮を満たす羊水の先にいる彼女だったか。


 ともすれば途切れそうになる意識が、彼女の呟きを拾う。

 やはり言葉はわからない。けれどそれは祝うように聞こえた。呪うように聞こえた。そして少しだけ困ったようでもあり、願うようにも聞こえた。


 瞼が落ちた。ゆっくりと、重く、重く。

 暗闇の向こう側で、彼女が小さく笑んだのがなんとなくわかる。そして再び歌を口ずさみ始めた。

 ゆったりとした調べが意識を再び水底へと引きずり込んでいく。

 今度は彼もそれに抗おうとはせず、そっと意識を手放した。



 ◇◇◇



「――っ!」

 愕然と、アズルトは辺りを見渡す。

 決して広いとは言えないが、狭いと言っては平民を敵に回すだろう室内には寝台が二つ。アズルトがいま自身で使っているものと、整えられたまま誰の使った形跡もないものとが置かれている。その傍ら、簡素な彫りが施された調度のなかで異彩を放つ二つの百味箪笥は、入学に際しアズルトが持ち込んだ私物で間違いはない。

 であればやはりここは騎士養成学校イファリスで四組ルースの生徒らが生活の基盤とする北寮、そこにあるアズルトの自室ということになるのだろう。


 いま自分はなにを見ていたのか。いや、なにをしていたのか。

 アズルトは混乱の極致にあった。

 肉体も魔力も、なにが起きようと即座に対応できる状態に移してある。ただ、状況だけがまるで把握できていない。


 今、アズルトは寝台の上で身を起こした体勢にある。

 備え付けの時計を見遣れば、まだ起床時間をわずかに過ぎたばかり。

 つまり今しがたの光景は夢で、自分は飛び起きただけであるということか。

 アズルトはすぐにその考えを否定する。それはない、なぜならアズルトは起床笛に数秒先んじる形で目を覚ましていたはずなのだから。


 まるで白昼夢のような――。

 そうしてはたと気づく。あれは間違いなく夢ではなかったのだと。おそらく、思い出したと表現するのが正しい。

 さながらフラッシュバックのように。


 忘れていた記憶。忘れさせられていた、と言うべきか。

 夢現での出来事なんて、普通は忘れていてもなんら不思議はないものだ。けれど違うのだとアズルトは確信している。

 先の光景はただ脳内に残されていた記憶情報ではないのだ。アズルトという個の魔力的側面、魂や霊とも形容される『魔力体』に大きな跡を残す記憶情報。脳が忘却しようとも、魂に刻まれた記憶まで消え去るわけではない。そして魔力体の影を映すように、記憶は再び思い返されるもの。

 本来であれば。


 魔術による記憶の封鎖。事象を分析すれば自ずとその答えに行き着く。

 精神干渉系の魔術に対して異常とも言える耐性を持つ《ヤークトーナ》にどうやって、などと疑問は尽きぬが、それよりも今は『解かれた』という事実こそがアズルトにとっての関心事だった。

 なぜ、どうして。その問いの前には、どのようになど些細な問題だ。


 アズルトが学園に入学して三日目。このタイミングで解かれたのにはきっとなにか訳があるはず。そうアズルトは考えたのだが……。

 昨日の出来事を思い返してみても、取っ掛かりになりそうなものがまるで見つからない。クレアトゥールとの関りについてはむしろ否定材料の方が多いくらいだ。

 見落としがあるのか。それともなにか思い違いをしているのか。いくら考えてみても判然としない。

 では見方を変えてみるのはどうか。学園との関係などなくて、バルデンリンド領から離れたことを理由とするならば。内容としてもバルデンリンドとの関わりが疑わしい。


 解かれたのはアズルトがリドとなる以前の出来事。この世界の言葉を得るよりもっと前。正真正銘、はじまりの記憶。

 ――そもそも、あれは誰だ。

 冷汗が背筋を伝い落ちるのをアズルトは感じた。

 アズルトが生まれたあの場所――開発停止凍結状態にあった玖号クーシラ封牢ふうろうに立ち入ることができたのはたったの三人。ニザ東域守座とういきしゅざ《バルデンリンド》の座主であり人造天使ヤークトーナの開発を直接手掛けるロドリック・オン・バルデンリンド、そしてその玖号クーシラの開発を担当したケイランジュと、その助手であるサンダモ。いずれもが男性であり、記憶の声とは合致しない。

 有事にはヤークトーナ班であれば立ち入りの権限が与えられるが、《リド》への偽装の経緯から見て他に接触した人間がいるとは考え難い。そもそも東域第八実験基地ユフタ付きのヤークトーナ班には、彼女に符合するような女性は存在しない。


 記憶が捏造されたものである可能性については排除した。

 魔術によって焼き付けられる記憶というのがどんなモノであるのかを、アズルトは熟知していた。忠誠心のような無形のモノも含めて、おおよそのモノは身をもって経験しているからだ。

 《ヤークトーナ》の性質の関係で、知識の転写を含め魔力体への接合は限定的なものとならざるを得ない。無意識下での拒絶反応でもあるのか、意識的に繋ぎ留めておかなければ乖離し霧消してしまうほど脆弱なものなのだ。アズルト側から積極的に同化を促すことで焼き付けること自体は可能ではあるのだが、自己との隔絶は意識下においてすら明確で異物感が残る。

 記憶の封鎖にも増して困難な偽造を、違和感もなく達成するなど荒唐無稽というほかない。


 極秘計画リザと関わりの深い《ヤークトーナ》は、バルデンリンドの研究のなかでも取り分け機密性が高い。教会組織を統括する《天盤》でさえその最奥に手が届くかは怪しい。

 余所であれば国家存亡の危機とされる王級魔族の襲来を有事と言い切れぬのが瘴土帯だ。天位だからと侵入を許していては到底立ち行かない。ましてや誰にも気づかれることなく、など。


 可能性として最も高いのは、実験動物に過ぎないアズルトに真実を与えていない、というもの。

 記録者、あるいは観察者とでも呼ぶべきか。アズルトに様々な環境値を与え、その反応を観測する役割だ。そういうモノが在ると仮定すれば、殆どの事象には説明がつく。

 《ヤークトーナ》の持つ性質についても、偽装ダミーの情報を与え、転写魔術の階梯レベルを落としてあえて不完全な形で体験させれば騙すことは容易だろう。

 なにせアズルトの物差しはすべて借り物の知識で出来ているのだから。


 次点では《天盤》の関係者、それも座上の上役である可能性か。

 そもそもの《天盤》という組織について、アズルトはなんの情報も与えられていない。名前すらも、である。つまりその関係者についての情報も必ず秘匿されるということだ。

 こちらでも半分くらいの疑問には解答を出せるだろう。


 あるいは……いや、止そう。それこそ荒唐無稽というものだ。

 結局のところ『誰』を仮想したところで、『今』について断言できるほどの答えは得られない。目下、アズルトの取るべき行動に影響を与えるのはそこだ。そしてその答えが手持ちの材料から辿り着けるものではない以上、アズルトに取れる選択などたった一つしかないということでもあった。

 すなわち、現状の継続だ。

 相手の意図がわからぬうちは、これに関して大きな動きは控えるべきである。当然のことながら座上への報告も今はまだ行わぬ方がよいだろう。

 アズルトはそう己の内に結論付ける。


 失われていた記憶をいつ思い出すかなんて、本来は運任せだ。今回の件にしても、魔力体に残されていた部分だから早々に気づけただけ。他に解かれた記憶があったとして、思い出すのにどれだけかかることか。それに思い出したとして、そうであると気づけるかも不明ときている。

 この一連の煩悶すら独り相撲かもしれない。そう思うと途端に気分が重くなった。


 朝から無駄に疲れたことにアズルトは歎息する。

 そしてせめて今日一日が平穏無事に過ぎるようにと祈りながら、時計の示す時刻に気づくと大急ぎで食堂へと向かう準備を始めるのであった。

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