第7話 位格が示すもの

 学舎の地下部にある反省室はさしずめ牢獄である。

 自然石で組まれた独房は恣意的に住環境が落とされていて、肌寒さに過度な湿気が不快感を誘う。歪められた魔力場には精神を摩耗させる作用もあるはずだ。備え付けられた便器と扉の覗き窓との間に視界を隔てる物はなく、お貴族様にこの仕打ちが耐えられるか甚だ疑問が残る。


 光源に乏しい小さな部屋で、アズルトはただ黙然と座していた。

 そうしてどれくらいの刻が過ぎただろう。というのは、思いがけず早く動きがあったからだ。

 外部の音を封鎖していた遮音結界が解かれ、バッテシュメヘ教官の冷めた声が闇に響く。

「釈放だ」

 その声に引っ立てられるようにして、アズルトは忙しなく反省室なる牢獄を後にする。


 青白に点在する小ぶりな灯火を追って狭く長い螺旋階段を上ると、やがて地上の光が差し込んできた。娑婆の空気が、なんて言葉はせめて半日は閉じ込められてから使うべきか。

 バッテシュメヘ教官が壁面の一画に触れると、階段から魔力光がすっと消える。


 この時代――後レナルヱスタのラケルの技術水準は、地球で言うところの近世ほどはあるだろう。特定分野ではこちらの方が先を行っている。

 例えば魔術式農業。土地生産性は集約的農業を行う現代が裸足で逃げ出すレベルで、作物それ自体の品種改良もあるのだろうが、桁が違う。なお労働生産性については推して知るべしだ。


 もっともこれら魔導技術は広く社会に還元されているとは言い難い。

 これは文明の核となる理の違いによるところも大きい。魔術とは万人が等しく扱える技術ではないのだ。けれどそれがもっとも平らにヒトに恩恵を与えるものであるのもまた揺るがぬ事実。

 仮に地球の知識を用いてラケルに蒸気や電気に根差した技術を持ち込んだとして、その発展が頭打ちになることはアズルトにとって想像に容易かった。物理学も化学も生物学も、ここではすべて片手落ちの学問なのだ。世界を構成する要素である魔力が、ラケルではあまりにも多くを左右している。


 ただし、応用なら出来るとも考えている。

 価値観というか着眼点、つまりは発想の根底にあるものが違うというのは武器だ。同じ結論を導くために異なる過程が使える。それは魔術においても言えることで、いや魔術であればこそ利に働くはずだった。


「早すぎたかと思ったがぴんぴんしてやがる」

 陽光の元で振り返ったバッテシュメヘ教官の魔術が、アズルトの身体を舐めるようにして走った。不愉快な感覚だが、受けたアズルトではなく使った当人がえずく直前のような心底嫌そうな顔を見せたのでなにも言えない。

 視線も汚物を眼前に置かれたかのような、忌避感の籠ったものへと変わっている。到底、教え子に向けるものとは思えない。問題を起こす生徒として目を付けられた、というのとも異なる。漠然とした違和感。

 けれどそれが明らかにされることはなかった。


「先に戻ってろ。分かってるだろうがこれ以上の面倒は起こすなよ。おら行け」

 尻を蹴られる。魔力が乗っているのでとても痛い。

 学園という組織にあって生徒の暴力は厳罰を以て処されるが、教官の暴力は往々にして寛容の精神で無視される。

 というのは地球的な皮肉である。

 いたずらに暴力を振るう者はそもそも教官の資格を与えられない。教官を任じられるのは相応の実力を持った青位の騎士のみであり、その青位の位格を与えられるのも十分な分別と品位を有していると判断された場合のみである。

 ……と、これはこちらの世界なりの皮肉だ。



 良い機会なので騎士の位格について軽く触れておく。

 騎士には大別して二つの系統がある。軍人として民の羨望と敬意を集める竜位の系統と、兵器として畏怖と絶望を集める天位の系統だ。

 より掘り下げるなら、戦闘技能はもちろんのこと、その者の人格や教養も求められる『青位せいい』と『竜位りゅうい』。もっともらしい評価基準だが、つまるところ貴族的な視点を有しているかが重要となる。

 次いで、人としての倫理を度外視し、純粋な戦闘技能のみで測られる『赤位せきい』『黒位こくい』。そして名実ともにヒトを逸脱した化け物――『天位てんい』。

 この他に<教会>所属の上級騎士を示す『聖位せいい』、貴族が買える『銀位ぎんい』などあるがここでは詳細は省くとしよう。


 位格は条件を満たしていれば複数を有することができ、そのいずれを名乗るかは個人の自由となる。国の中央ほど『竜位』を尊ぶ傾向にあって、最前線たる辺境ほど『黒位』を尊ぶ傾向にある。

 安定期に入ったこの時代は『竜位』信奉に偏りが見られるようではあるが。

 『天位』は――物語られるもの、と言うべきか。


 その戦力を格付けするなら、順に『天位』『黒位』『竜位』『赤位』『青位』『無位』となる。『天位』を除く騎士は、多くが経験を重ね位格を得てゆく。

 イファリスで在学中に『赤位』より上の位格を与えられるのは稀で、大多数は『無位』のまま卒業してゆく。『黒位』『竜位』ともなると一人いれば上出来といった具合だ。

 物語の主役である主人公らにしても、本科一年で『赤位』相当、専用の宝珠を得て『竜位』に届くかどうかという程度だ。天才と謳われるだけあって、社交そっちのけで修練に打ち込めば物語終盤で『黒位』を得るだけの潜在能力はあると思われるが、それが仮定に過ぎぬからこそアズルトはここにいる。


 バッテシュメヘ教官は在学中に『赤位』と『青位』に叙せられた傑物だ。

 こんな粗野な言動で貴族的だの品位だの言われても首を傾げるばかりだろうが、分別という点では間違いがない。

 なにせ朝方の罰では魔術によって最大限の痛みを与えながらも、故障を招かぬようその狙いは実に配慮されたものであったのだから。

 おまけに性別に対しても分け隔てがなく、年齢や体格は考慮しても良いのではないかとアズルトが引くほどには、クレアトゥールも手酷くやられていた。口答えする度にアズルトが代わりに叩かれたのには納得がいかないが。

 それでも学内屈指の実力者であるのは間違いない。品位が怪しいせいで『竜位』の資格は得られていないが、その戦闘技能は『赤位』の中でも上位、遠からず『黒位』を得ると騎士界でひそかに噂されている人物なのだ。


 余談はこれくらいにしよう。

 陽の位置を見るに、まだ昼までは時間がある。最低でも半日を覚悟していたアズルトからしてみれば拍子抜けの感があるが、しかし別に初犯だから大目に見られたとかいうわけではないとアズルトは考えている。聞き知る人となりからして、単にこの後の諸注意をまとめて片づけたい教官の怠慢が理由だろう。


 痛む尻をさすりながら人気のない構内を歩く。

 授業中、加えて四組ルースの教室が僻地にあるのも理由だが、学園そのものが生徒数からすると無駄に広い。

 物事にはたいてい理由があるもので、学園のこの広さは異常とも言える防衛機構を備えていることにも結び付いている。

 世にある騎士養成学校は人類の最終防衛拠点のひとつとして設計されているのだ。

 ラケルの長い歴史の中で、人類は幾度となく滅亡の危機に瀕してきた。その教訓から、世界各地にこうした城塞が数多く築かれている。


 設定として知っていたことでも、直に肌で感じると歴史の重みが違う。城壁を前にした時もそうだった。夥しいヒトの怨嗟がこの世界を形作っている。


 教室へと帰り着くと、そこでは入学式を終えた候補生たちがお行儀よく椅子を温め、すぐ隣の、すなわち身分の近しい者との交流を図っていた。

 いた、すでに過去形となりつつある。アズルトが戻ったと知るや否や一人、また一人と口を閉ざし始めたからだ。注がれる視線は数多あれど、合って逸らさぬものは殆どない。

 やがて背を向けて語り続けていた最後の一人が、静まり返った教室を見渡しそして振り返り、憮然と目を見張る。


 アズルトはその一連の流れに妙な懐かしさを覚える。

 けれどそれは生前のすり切れた記憶の中、心を凍てつかせる類の記憶に他ならず、小心であることをアズルトは、己に課された役割に従い不愉快の只中に踏み込んだ。


 室内を改めて見渡す。

 破損した机は三台とも新しいものに取り換えられている。据え付けのものであることを思えば仕事が早い。新しいとは言ったが新品ではない。周りのものよりも古い、おそらくは壊されることを念頭に置いた……止めよう。

 アズルトは陰鬱に暮れる思考を投げ捨てた。あんな事が度々起こってはたまらない。


 それはそれとして、これで四組の候補生二十七名に対し用意されている席が三十組というわけだ。不足はない。ばかりか浮きまである。

 にもかかわらず、身分に即した一帯にアズルトの立ち入る余地はなかった。残された空白の並びが、衆人の疎意を如実に物語っている。ただそれは今、クレアトゥールに多くを振り向けられているように見えた。

 なにせ、残る四席は彼女を囲む形で広がっているのだ。

 先の騒動では彼女に同情的な空気すら流れた。それがこれというのは道理が合わない。ならばそこにはやはり理由があるのだろう。


 クレアトゥールが戻ってからアズルトが来るまでに、なにかひと悶着あったか。

 ひそかに魔力で感覚を強化すれば、室内に残るかすかな鉄錆の臭いを嗅覚が捉えた。朝のものではないだろう。打擲を受けた場所からはそういった痕跡は取り払われている。したがってその後に生じたもの。

 ひと悶着、あったようである。たいへん信じ難いことに。


 もっとも、それでアズルトに致命的な不都合が生じるわけではない。与り知らぬところで起きた事件だ。関与していないのだからそちらの噂で名が挙がることはない。ならばこの状況は利用すべき。

 アズルトは瞬時に打算を巡らせると、当初予定していた役に若干の修正を加え、取るべき行動を導き出す。


 迷う素振りも見せぬまま歩みを進めると、最上段を踏みしだき広がる空白の内のひとつに腰を据える。

 攻め過ぎではないか? 今更ながらアズルトの胸中で逡巡が鎌首をもたげた。

 覆水盆に返らず、であるのだが。

 ――なに、すでに生じてしまった不都合に比べればなんの。

 アズルトは早々に迷いを切って捨てる。ここまで来たのなら前に進むほか道はない。


 通路を挟んで左隣に座る獣人の少女は、今はもう頭上の耳を隠しておらず、アズルトが顔を向けても頬杖をついたまま横目で一度視線を合わせただけだった。

 先刻見せた激情を琥珀色の中に探すのは難しく、間もなくして視線が伏せられると、それっきりアズルトへ顔を向けることもなく、窓の外を眺める赤茶の頭を晒すばかりであった。


 教室から疎らに漏れ聞こえる安堵の吐息。

 仕組んでおいて現金なものだと呆れるアズルトであるが、当然それを面に出したりはしない。

 不在の間になにがあったのかは不明だ。けれどそれは劇物二人を近づける理由足り得るほどものだったのだろうか。

 それだけが少し気にかかった。

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