第5話 出会い
「ソシアラ侯爵家のオルウェンキス様と、ルクロフーブ伯爵家のダニール様とお見受けします」
「ほう。おれの名は当然としてダニール、こいつはおまえの名も知っているようだぞ。それで?」
「同じ
「許す。名は」
被せるようにして、ついと小さく顎を持ち上げたオルウェンキスが問うた。慣れた所作がなんとも小憎らしい。金髪碧眼の端正な顔立ちもまた嫌味に思える。十四歳とアズルトより二つ年下であるため小柄に見えるが、線の細さは感じられない。そのせいか豪奢な制服にも着られていないというのがまた……。
王族顔負けの尊大なお子様。それが直に言葉を交わしたアズルトの率直な印象だった。ソシアラ侯爵家の家格を思えばこれでも差し支えは無いのかもしれない。似非貴族のアズルトには判断の難しいところだ。知識だけは詰め込まれているが、経験を伴わぬそれは羅列された文字に等しい。せめて手本のひとつかふたつ、などと思うものの、敵地の把握を優先させてその機会を逃したのは他ならぬアズルト自身であった。
ソシアラ侯爵家はアーベンス王国東部に領地を持つ諸侯のひとつだ。
ラケル世界における政体は論じるのに困難を伴う。信仰の域を超え管理者を標榜する<教会>、厳しい環境によって限られた可住領域、人類種の生存圏を脅かす驚異の数々。例えば同じ封建制を取っても、アーベンスと隣国ランクートでは大分趣を異にしている。
アーベンスの諸侯とは、言ってしまえば彼らが治める
王家に並ぶ大貴族、それがソシアラ侯爵家なのだ。
オルウェンキスの祖父ソシアラ侯爵は騎士貴族血統至上主義である純血派の重鎮であるとともに、その血統と思想に恥じぬ高位の騎士だ。老年の域に達してなお最前線で剣を振るう
一年の半分ほどを、アーベンス王国東側に広がるアメノ
そう、騎士なのである。貴族である以前に。
「アズルト・ベイ・ウォルトランと申します」
「ウォルトラン? 聞かんな。ダニール」
「……お役に立てず申し訳ありません。覚えのない名です」
さもありなん。アズルトとて知られているとは端から思っていなかった。
繰り返しになるが、ウォルトラン男爵家は社交界など縁のない辺境の貧乏貴族だ。それも公爵家から領地の管理を任される麾下貴族のそのまた臣下という、貴族の中では底辺の位置づけ。仮に書面にウォルトランの名が記されていたとしても、記憶に留められるのは主家であるカルルーク伯爵家であってウォルトラン男爵家ではないのである。
「どこの臣だ」
「カルルーク伯爵の」
瞬きでもすれば見逃していただろうほんの寸時、オルウェンキスの眦に険しさが宿った。
「ふん、バルデンリンドの――」
よりによって本土の人間か。独白にも似たかすれ声をアズルトはあえて聞き流した。
オルウェンキスが手を払う仕草をする。もう話すことはないから下がれといったところだろう。斯く在れかしというほどにお貴族様である。静観を決め込んでおられるマダルハンゼ伯爵閣下が、いま少し言葉の通じる人物であることを祈らずにはいられない。
異を挟むほど愚かでもないので、頭を下げそそくさと退散する。逃げたところで向かうのは目と鼻の先、彼らから距離を取れるわけでもないのではあるが。
面倒なイベントを片付けるついでに、あわよくば揉め事を有耶無耶にできれば。そうでなくともフード娘が面倒を避ける方法に気づくきっかけになれば。そんな思惑あっての行動だった。
まあ、思いつきの行動なんて往々にして大した結果を生みはしない。
アズルトの淡い期待は無情にも目前で踏み躙られることになる。だんまりを続ける少女に痺れを切らしたオルウェンキスが、素早くそのフードに手を伸ばしたのだ。
侯爵家の御曹司というだけあってオルウェンキスはよく仕込まれている。その動きは鋭く、誰もが少女のフードが払われる様を幻視したに違いない。
けれど、そうはならなかった。
少女がほんの少しだけ上体を反らしたことで、オルウェンキスの指先は空を切る。彼の眼が驚愕と恥辱に見開かれるが、気づいたのはアズルトを含めいかばかりか。
しかし結果を見れば、彼の思惑は果たされたと言ってよい。
少女が頭を戻す動作でフードがずれ、ぴくりと動いた獣を思わせる三角の耳がフードの縁からこぼれ出たのだ。
教室に音の空隙が訪れた。
それは彼女が獣人であるがために生じた静寂ではない。
そもラケルにおいて獣人が種として奴隷に落とされるような歴史はなく、また取り立てて地位が低いなどということもないのだ。静寂の原因は少女の露わになった獣の耳のその片方が、半ばから先を欠落させていたことにある。
観衆の反応は大別すれば、眼を逸らす者と眉を顰める者、といった具合か。
ゲームだとダメージを受けたところで魔法やアイテムで治ってしまうから気に留めることもないだろうが、傷を負えば跡が残る。当然のことなのだ。ゲームの世界なんて往々にして闘争が常態化した修羅の世界。かたわも珍しいものではない。ただ、それが成人したかどうかという年頃の娘で、ここが騎士養成学校となると、色々と考えさせられるものもあるのだろう。
想像、いや憶測だが。
育った環境がまるで違う彼らの心情をアズルトに察しろというのは土台無理がある。
獣人の少女がそっとフードを戻そうとする。アズルトの位置からは、左手の薬指と小指もまた失われているのが見て取れた。
触れずにおくのが上策だ。多くの者が胸の内でそう結論付けたに違いない。だが、そこに待ったをかける阿呆が現れた。
他でもないオルウェンキスだ。
度し難いことに口の端が嗜虐的に歪んでいる。先ほどの意趣返しのつもりなのかもしれないが、とても音に聞くソシアラ侯の孫とは思えない振舞いだ。
少女――クレアトゥールは、そんな高慢なオルウェンキスの言動を意に介する風もなく、しっかりとフードを被りなおす。
この瞬間、人付き合いの乏しいアズルトでさえ、クレアトゥールのこの空気を読まない態度が騒ぎの本当の理由であると知れた。虚栄心の強いオルウェンキスにその対応は悪手だ。どう考えても火に油を注ぐ結果にしかならない。
怒声が鼓膜を振るわせる。
「待てと言っているのだッ」
堪忍袋の緒が切れた。まさに今のオルウェンキスを表すのはこの一言に尽きる。
諸侯と平民、そこには明確な区別がある。否、なければならない。犠牲の上にしかヒトの世の成り立たぬこのラケルで平等など虚ろな妄想。確かにオルウェンキスは鼻持ちならない少年であるが、クレアトゥールはそれが他愛なく感じるほどに常識を欠いている。
それだけに、危ういと感じた。
オルウェンキスが再びフードを引っぺがそうと無遠慮にクレアトゥールへと迫り――アズルトは気づけば彼女の腕を掴み、強引に引き寄せていた。
本当に咄嗟の、そして間一髪の反応だった――が、瞬時に失敗も悟らされた。
浅慮を嘆く暇もなくアズルトは上体を反らす。直後、頭のあった場所をクレアトゥールの放った後ろ回し蹴りが通り過ぎ、逃げ遅れた前髪が千々に散らされた。
読みよりもずっと間近に伸びた爪先にアズルトの肝が冷える。
机に手をついたクレアトゥールが体を捻り、即座に振り下ろされる踵。アズルトの避けた跡で椅子が微塵に砕け散る。
尋常の技ではない。明らかに闘気――術式化されぬ無形の魔力――を放っている。
「離せ」
低く暗い声とともに襲い来る膝を躱し、肘を逸らす。容赦もへったくれもない攻撃だった。直撃は避けたはずなのに、腕は痺れるような痛みを訴えている。
当たり所が悪ければ死ぬだろう。まともに受けるのは止めておこうとアズルトはひとり冷たく頷く。そしてそれにしても、と内心で唸る。
どう収拾をつけたらよいのか見当もつかなかったのだ。
ちょっと攻撃を妨げたくらいでこうも敵意を向けられることになるなど、どうして想像ができよう。なんとか落ち着かせるべく語りかけてもみるが、困ったことに離せくらいしか言葉を返さない。ならば離すから大人しくするよう取引を持ち掛けてみれば、隙を見つけた獣のように加減の無い拳が飛んでくる。
机がまたひとつ木屑に変わったのを見たアズルトは、このままでは埒が明かないと対話をひとまず棚上げにした。
そうして守勢から一転。間隙を突いて当て身を食らわせると、体勢を崩したクレアトゥールをそのまま床に組み伏せた。
「くそっ離せ、離せよ。っく、なんで。離せって、言ってんだろ」
身軽さでは及ばなくとも単純な力比べであれば分があるとの推測は、どうやら間違いではなかったらしい。候補生の域を外れた魔力を振るうクレアトゥールであるが、アズルトとて人並みならぬ修練を積んできているのだ。
さて、誰か助け舟を出してはくれないものか。そう辺りを窺えば、注がれる視線が心なしか痛い。約一名、拳を握り健闘を称えるような仕草をしている者もいるが。
触れたらいけない奴ら、目を合わせないほうがいい、やり過ぎだろう、胸糞悪い、泣いてないか、誰か止めろよ、巻き込まれるのは御免――そんな囁きが耳に届く。
彼らの言うことはもっともだ。唐突に破壊活動に勤しむような人間がいたら、アズルトだって距離を取ろうとするだろう。決してお近づきになろうなどとは思わない。
だがそれよりも、いくつか看過すべからざる発言があったような……。
視線を落とせば、腕の下でもがくクレアトゥールのアズルトを睨む瞳とぶつかる。そこにはありありと浮かぶ敵意に加え、確かな涙が湛えられていた。それも、今にもこぼれ落ちそうなほどの。
なるほど、と。アズルトは周囲が見せる棘に得心を覚える。
だが、それはあまりにも理不尽というものだろう。確かに今この瞬間だけを切り取れば、アズルトがクレアトゥールに非道を働いているように見えるかもしれない。
しかし、しかしである。
『おまえら、成り行きを見ていてその反応はないだろ。散々痛めつけられていたのは俺の方で、今も打撲で全身が痛むんだ。論理的に考えて泣くべきは俺だと思う』
そう、声を大にして主張したかった。
けれどアズルトはそれをしない。できないとも言う。
アズルトは自らの信念に従うことに迷わぬ性質の人間である。そのためには手段を選ばぬこともあるだろう。しかし同時に生来の小心者でもあった。他人と見解で殴り合うなど、顔を持たぬネットの上でしか経験したことがない。
だからこの時も、すでに当初の目的を果たしたアズルトが消極的に敗北を認める道を選ぶのは、当然といえば当然の流れであったのであろう。
改めて群衆の位置を確かめた後、離すから暴れるなと重ねて言い含め、少女を解放し距離を取る。
両の腕を開き掌を晒し、害意がないことを主張するのにも余念はない。
「その、なんだ。互いの不理解が招いた不幸な事件だったということで、腹を割って話し合うのもいいんじゃないか?」
下手くそな、それでもアズルトなりに精一杯の謝罪だった。
肩で息をするクレアトゥールが袖で目元を拭い、それからアズルトに正対する形でゆらりと立ち上がる。
とても、お話を望んでいるようには見えなかった。
そしてひと言。
「殺す」
まっこと簡潔な決意表明である。すがすがしいまでの交渉決裂であった。
ふりだしに戻ったことを嘆く余裕は、やはりアズルトには与えられないようだ。それほどまでに、自由を取り戻したクレアトゥールの攻撃は苛烈を極めた。
肉弾戦には自信があったアズルトだが、それでも衝撃を相殺し切れず身体が泳ぐ。
そして九手で蹴り飛ばされ、教室の戸口から廊下まで転がり出た。
素早く上体を起こしたところに突き刺さるクレアトゥールの追撃。闘気を込めた腕で後ろ蹴りを辛うじて受け止め――。
「よう、なに遊んでやがんだクソ餓鬼」
近くから振ってきた男の不機嫌そのものの声に、予科一年生の記念すべき第一回の騒動は幕を下ろすこととなったのである。
この後、アズルトは男――
――なんだこの仕打ち。泣いていいかな。
閉じられた鉄扉だけがアズルトの声なき慟哭を聞いていた。
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