第90話 mi deh yha!
(1)
暖流の影響で一年中比較的温暖といえるヴェラッシェンドであっても、朝ともなると、寒さが一層厳しくなってきた。
此処へ来てどのくらい時を費やしたのか、いつの間にやら世界は冬である。祖国・ペリシアはそろそろ初雪の降る頃だろうか。ネハネは日の昇り始めた空を見上げた。
隠密部隊に配属された凍馬が、リトリアンナから
リトリアンナの街中という独特の立地がそうさせたのか、この教会はエントランスではなく中庭に聖水盤があり、ネハネはそこで朝一の水を汲む。このところ多忙を極めているアイリーンに申し訳がなく、自分の警備から外れてもらった矢先である。ネハネは警戒しながら中庭へ出た。
しんと冷たい風が体温を攫う。ペリシアでなくとも雪が降りそうだ。寒さに凍える手が水に触れると痛みさえ感じるものの、構わずネハネは黙して祈りを捧げた――せめて「彼」にだけは災いの無きように。
丁度、その時だった。
「!」
突然、闇魔法分子が空間を切り裂いてネハネの眼前に現れたのだ。
正とも負とも付かないチカラが空間を裂いて、歪みを生み出している。追っ手だろうか。
「くっ!」
あまりに唐突だったので、ネハネは咄嗟に身構えたものの、間合いを取ることが出来なかった。そう、彼女は接近戦となると、殆ど為す術を失うのだ。
「(マズイな……)」
手元に武器らしきものは何も無さそうである。ネハネは空間にできた歪みを注意深く観察し、取り得る防御方法を模索し続けていた。そうしている間にも、闇魔法分子が導いた者の体躯がどんどん顕になる。
現れたのは、男であるようだ。長身で、黒髪の――
「え……」
ネハネは息を呑んだが、無理も無い。その者の輪郭が確かなものになるにつれて、それは何者よりも愛おしい者の
「(夢だろうか)」
ネハネは首に架かる二つの赤い石を握り締めて、意思とは関係なく歪む顔を彼には見せぬよう、青く明け始めた空を仰いだ。どうしたって世界が滲む。
やがて、「彼」は声を発した。
「待ちくたびれたのでな、」
そんな前置きをわざわざ入れて、長めに伸びた前髪を掻き上げて見慣れたオールバックに整えた彼は、漸く、堀の深い下がりがちの目をこちらに向けた。
「――こちらから出向いてみたのだが」
何だお気に召さないか、などと悪戯っぽく口元を緩めた彼の仕草も微笑みも言い回しも、あまりにもネハネの知っている彼のままだった。
もう二度と、彼から何一つも失わせてしまいたくなくて、
「エリオ様!」
ネハネは彼を、その腕一杯に抱きしめた。
(2)
イオナが今居る此処は、旧帝都・セディアラにある倒産した工場の倉庫だった。
最早屋根も壁も崩れてしまい、今となっては巨大な瓦礫と化しているが、その原因となった張本人は、まるで何事も無かったようにピアスを揺らして、やたらと丁寧にイオナの枷を解いているところだ。
その甲斐も無く、彼女の白い肌にしっかりと赤黒く残ってしまった鬱血の痕が気になるのか、彼はイオナに先ずは治療を促した。
回復呪文(ヒール)もそこそこに、「相変わらずね」と呟いたイオナは、呆れたのか安心したのかはさておいて、溜息を吐く。
辺りから人の気配が消え失せて、一層冷え込みが増した。
崩れた天井なのか壁なのかが風に煽られ、大きな音を立てて剥がれ落ちたところである。
「ねえ、」
彼を引き留めたい思いと此処に長く留まっているわけにはいけないという葛藤が、イオナの中で渦を巻いていた。否、もう殆ど誤魔化し切れないほど、自分の想いははっきりしていたのだが……
「このまま、また消えるつもり?」
謝意よりも先に、イオナは「つれないのね」などと彼を詰ってみた。彼女は、彼が未だに持つ強い罪悪感に気付いていたからだ。自分はまだ、心の何処かで、別れの言葉さえくれなかった彼を責めているのだろうか――
「(浅ましいわね)」
とイオナは自嘲する。しかし、彼女の邪推以上に、思いの外、彼は素直で逞しかった。
「もう、消えたりしねえよ」
彼の穏やかな口調や声色、射るような金の眼の色を和らげる優しげな目元などは、イオナの知っている筈の彼とはほんの少しだけ違うような気がした。いや、彼女はもう次の瞬間には、彼は「別人」なのだと気が付いた。
「人生一からやり直すってのも出来過ぎた話だし、罪が消えたとも思ってねえケド、」
ふわり、と頬に雨が触れたと思って空を見上げたところ、暗澹たる空一面に粉雪が舞っていた。
「失くしたくないからって、大事なモンに背ェ向けて生きるのは、もう止めた」
そう言って口元を緩めた彼の名を呼ぼうとしたが、あまりに想いが強過ぎて、イオナの声が思わず詰まる。ふっと、凍馬が視線を落とした。
「……そう思ってる限り、どっからでも駆けつけるつもりだ」
凍馬は鞄を漁り、イオナに手を差し出した。彼の掌の上で、インディゴブルーの花が咲いている。
「ハナが落ちてた。お前のか?」
“ハナ”とは、インディゴブルーのコサージュである。
「それ……」
イオナは、凍馬が差し出したコサージュに手を伸ばした。
イオナがメーアマーミーの政略を利用して、闇の民の世界に戻った直後だっただろうか。凍馬の手の中のそのコサージュは、確かにイオナが“修羅の森”にそっと置いてきたものである。
――何時かはこうなる事を期待していたのだ。その時だって、それからだって、彼女は何度も祈りもしたし、願いもしていた――
「ええ、アタシのものだわ!」
イオナはそのコサージュを受け取ると、彼を抱き寄せ、“アリガトウ”と呟いた。
「何だよ?」
と不慣れに戸惑う彼に、自分がどれほど救われたかの一つも教えてやりたかったのだが、自分のこの気持ちの大きさに、イオナ自身もまた戸惑っていた。
粉雪の舞う空である。
それは夜の乏しい光さえ閉ざしてしまう雲が、最早、憂鬱を抱え切れずに地に落とした涙なのだろうか。ともかく、それでも確かにカタチを変えて美しく唇に触れた雪の欠片は、その温もりにカタチを留め置く事ができず、刹那に綻ぶ。
せめて愛というものが目に見えるものならば、そのあまりの儚さに、身を捩らずにすむものを。
(3)
律儀に煙草を買って戻ってきたメーアマーミーに、旧帝国軍本部のエントランスで帰りを待っていたシュナイダーが顛末を報告しにやってきた。
「イオナ殿は、先に元帥執務室に戻っております。お会いになりますか?」
シュナイダーの打診に、メーアマーミーは首を横に振った。
「この時間から仕事を増やされては敵わん。大人しく寝かせておけ」
面倒臭そうに溜息を吐いたメーアマーミーは、エントランスの横に便宜的に備え付けられた長腰掛に落ち着いた。
寒さは厳しいのだが、殆ど私室となっている元帥執務室にも戻る気になれないといったところだろう――構わず、シュナイダーは其処に控えた。
煙草を包む箱を開ける。
ただそれだけで甘い香りが辺りに漂う。
「……一体、何が良いのやら」
そんな事を言って、メーアマーミーは煙草を一本、手に取ったところである。
「火をお貸ししましょうか?」
恐らく煙草を嗜む趣味も無いだろう上官に、シュナイダーはそう打診してみた。
「いや、」
メーアマーミーは小さく笑った。刹那、煙草が音を立てて燃え始めた。
「お陰様で、不自由は無い」
メーアマーミーの呼び寄せた炎魔法分子は、煙草一本を焼き尽くして消えた。紫煙が辺りに立ちこめたが、直ぐに夜半の北風に撒かれてしまった。
「私はどうやら恵まれ過ぎているらしい」
上官はそんな事を言って粉雪の舞う空を見上げている。シュナイダーも同じように夜空を見上げた。老騎士・シュナイダーの経験則に基づいた統計上の数字なので真実かどうかは知ったことではないが、火遊びをする子は寂しがり屋の虚無主義者が多い。シュナイダーは、そういった子の扱いを良く心得ていた。
「恵まれ過ぎ、ですか……」
シュナイダーは、まだ虚空を舞う粉雪を見上げている上官の横顔を見て言ってみた。
「閣下をよくご存じ上げない方には、そう見えるのかもしれませんなァ」
この聡明な上官には物分りの良い老人など必要無いのかも知れない。ただ、世界が無理解に満ち溢れているワケでは無いことも、どうかこの上官には知っていて欲しかったのだ。
「何が好いんだろうな」
やおら椅子を立ち外套を翻したメーアマーミーより、煙草19本がシュナイダーに支給されたところである。シュナイダーは有難く頂戴することにした。
「此処は寒いな」
戻るとするか、と歩き始めた上官の後を老騎士がついて行く。
「それにしても、」
シュナイダーには気になることがあった。
「よく、シュリ様は取引に応じましたね?」
老騎士は知らなかったのだ。イオナと何とを取引したのかを。
「なァに、」
メーアマーミーは笑った。
「――安い買い物だったさ」
風が強くなってきたが、この雪は積もるかもしれない。明日の朝にはこの見慣れた町の景色も、少しだけ、表情を変えてくれるだろう。
(4)
ペリシア旧帝都・セディアラの東の郊外に、閑静な住宅街がある。
セディアラの治安があまり良くない為、其処には旧帝国の有力者や豪商の邸宅が点在しているという。一昔前までは、わざわざ其処を狙ってやってくる盗賊・凍馬の脅威に晒されていた場所なのだが、彼が逮捕されたことや、そもそもペリシア随一の治安の良さを誇っていた場所であったということもあり、高級住宅街としての地位を取り戻しつつある。
此処に最近越してきたとある老人は、寝つきの悪さに悩まされていた。勿論、この老人も不眠の原因は良く心得ており、努めて、その原因から離れた生活を心掛けていた。
「雪、か」
冷え込みが厳しいと思ったら、初雪が夜空を覆っていた。老人が少し前まで暮らしていたセディアラよりも高い位置にあるこの地方なら、明日にかけて、雪が積もるということもあるかもしれない。
「――此処は寒いでしょ?」
此処に独りで住む老人は、不意にかけられたこの声に驚くまま、腰が砕けたように座り込んでしまった。
「シュリか!?」
老人、もとい、ジェフ三世は声の方を振り返った。しかし、其処には誰の姿も無かった。
「(また空耳か……)」
ジェフ三世は大きく溜息をついた。
――何時からだろうか。血を分けた自分の息子さえも空恐ろしく、声を聞く度に怯えるようになってしまったのは……彼の脳裏には、まだペリシア
それにしても、とジェフ三世は思う。
“もっと早く殺っときゃ良かった”
完璧な親を自負できる程ではないが、父として、息子のこの言葉には考えさせられるものがあった。
「(シュリよ、)」
ジェフ三世は雪の舞う夜空を見上げた。
「お前は、何が望みだったのだ?」
雪に問うても応えは無い。当たり前である。
その“当たり前”に幾許かの虚しさと安心を手に入れた老人は、すっかり固まってしまった腰を上げんと膝を立てたところである。
「もう何も望みは無い」
例によって、また空耳が聞こえたものとジェフ三世は思った。しかし、彼が次に聞いたのは、床を踏みしめる軍靴の音である。
「……って思ってたけどさ、」
見れば、脱色した髪を振り乱し、炎のような赤い色をした剣を振り上げた三男・シュリの姿が確かにあったのだ!
「ぐあ……っ!」
剣の柄なのか拳なのか衝撃波なのかが腹のど真ん中に打ち込まれ、老いた骨が折れた音がしたのは解ったものの、それから先の出来事は、ジェフ三世はどうも覚束ないのである。
”ボクもちょっと欲が出てね”
息子から最後に聞こえてきたのはそんな言葉であったような気がするのだが。
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