第87話 別れの曲(1)

 (1)

 ある日突然「共和国」となってしまったペリシアは、まだ存分に帝政の面影を町に残しており、城務省庁舎なるものが相変わらずパレスの向かいにある。庁舎内は何処ぞの貴族が世襲の名の下幅を利かせていたが、今は息を潜めているのか、音一つしない静かな朝を迎えていた。


 “皇帝参謀室”と表札までついた扉を開けると、正面にデスクがある。デスク上は整頓されている試しが無く、未決裁の書類が文字通り山積みになっている。この部屋の主は、後天性の近眼なのに意地を張って眼鏡をかけたがらないらしく、デスクに山積みになった書類の一番上には常に眼鏡が乗っかっている。

「いない、な」

長身の男はそれを確認すると、ゆっくり一度、瞬きをした。初めて来たような、しかし、見慣れているような――そんなものが辺りにゴロゴロしていて、彼は落ち着かない。

 彼には記憶はある。が、自分のものでは無いような、不可思議な錯覚を起こしていた。詮方なく、彼は長身の身体をソファに落ち着けて天井を仰いだ。何かを待っている気がするが、此処に誰も居ないことは理解している。そして、一応この部屋が自分の居場所だということも解っている。彼は、しかし、この落ち着かない気持ちを持て余していた。

 コツリ、とわざわざ騒々しく靴音が響く。その音は段々とこの部屋に近付いて来た。

「貴様か」

と、長身の男が眉間に皺を寄せた。待っているのはこれではない、と確信が持てるほど、少しクリアになった脳味噌が苛立ちを伝達する。ノックの音が3つ、聞こえてきた。

「エリオ殿、居らっしゃるか?」

と、扉越しにわざわざ訊いてきた男声で来訪者の顔と名を直ぐに導いた長身の男、もとい、エリオは、副脳よりも大脳よりもむしろ反射的に、

「居りません」

などと応答した。

「ふざけるな」

と、入室を許可した訳でも無いのに扉を開けたのは、全身黒い衣服を纏う男だった。

「……お久しぶりです、元帥閣下」

そう、現れた黒服の男とは、ペリシア帝国軍元帥・メーアマーミー・D・フォンデュソン。いきなり入室された為、国家的来賓を座ったまま出迎える羽目になってしまったが、この際、エリオは詫びも反省もしないことにした。

「久しいな、エリオ殿」

淡々と挨拶を交わしたメーアマーミーの方も、この不躾な皇帝参謀室室長にあまり好かれていないことくらい、よく解っているのである。

「お元気そうで何よりだ」

「ええ、おかげさまで」

「どういたしまして」

気まずい空気だが、幸い、現在両者どちらの部下も不在である。そう、不在である。

「お一人ですか? 珍しいですね」

常に命を狙われているこのメーアマーミー元帥が単独行動をしているということは、何らの異常事態だという認識は、エリオも副脳も共通していた。エリオとしては、一応心配して見せたつもりだが、

「貴方が寂しいと仰るなら、直ぐに呼びつけますよ?」

などというメーアマーミーの肩透かしを食らってしまった。

「いえいえ、むさ苦しゅうございます、閣下」

……暫く、このような薄ら笑いと減らず口の応酬が無為に続いた。

「それで、今日のご用件は?」

目さえ合わせず、エリオは溜息交じりで問うた。が、メーアマーミーは声を上げて笑っただけであった。またか、と面倒そうな顔をこちらに向けたエリオに、「相申し訳ない」と前置きしたメーアマーミーは、

「用件は、」

と、切り出した。しかし、

「用件は、……特に無い」

このように、元帥から元も子もない発言が飛び出したので、エリオは仰け反る。

「か、え、れ、ば?」

苛立ちを隠しきれずに眉間に皺を寄せたエリオの引き攣った笑いを見て、案の定、目の前の元帥は面白そうに笑っている。

「徹夜明けにわざわざ来たんだ。まあ、聞けよ?」

「無駄、無意味です」

ぴりぴりと緊張した静寂が部屋を支配した。

「では、独り言でも呟いて帰ることとするか」

漸く、メーアマーミーは一つ溜息をついた。

「貴方がシュリ様と共謀し、今回のクーデターに加担した件について、」

しかし、席を立つついでにメーアマーミーが呟いた一言が、どうやら本日の切り札だったようだ。

「今日か明日辺り、逮捕状が出るかもしれないなあ、出たら困るかなあ、私の知ったことではないが」

凍りつくエリオの目を確認したメーアマーミーは満足そうに笑った。

「ヴェラッシェンドに亡命となると大変だろうなあ。ネハネ殿が多分潜伏しているらしいリトリアンナにはペリシアの隠密もヴェラッシェンドの隠密も沢山居るらしいから、飛空騎で秘密裏に進入するのは難しいだろうなあ」

一通り呟いて、扉に手をかけたメーアマーミーが、一度立ち止まる。

「――せめて次は、あっさり死んでくれ」

そんな減らず口を叩きながら、メーアマーミーはエリオに敬礼した。

「閣下の墓前に花でも供えた後に、そのように致します」

組んでいた腕を解き、エリオは敬礼を返した。

 扉が開く。すぐに軍靴の音が遠ざかっていった。エリオは元帥が座っていたソファに目を落とした。指輪が一つ、朝の陽の光を反射させている。それは、“テレポートリング”と呼ばれる、長距離移動呪文を発動する人工奇石である。

「チッ、大根役者め」

また一つ、彼の視界はクリアになってきたところである。

(2)

 丁度、ヴェラッシェンド帝国・城下町リトリアンナ郊外の小高い丘から、三基の飛空騎が飛び立ったところである。

 先頭・光明獣にはイェルドが、今回は外交特使の名目でペリシアに渡る。

 その後方には二基が控える格好となる。左翼・暗黒獣には凍馬が、右翼・炎鳥にはランが、それぞれ特使を守護する布陣である。

「いや、可笑しいだろ?」

すかさず、凍馬が異議を申し出た。

「今更何だってんだよ?」

それにランが反論するので、後方は何とも賑やかである。

「お前まで来るなっつってんだ! 目立ってしょうがねえ!」

「臣下のために一肌脱いでやるんだ! こんな慎ましい皇帝があるか!」

「“慎ましい”を辞書で引き直して臣民に謝れ!」

丘をやや下ったところ、手を振るネハネとアイリーンが見えた。3人はそれに応じると、高度を少し上げて加速した。

「言っとくぞ、オレは一切お前を守護しないからな?」

「何だ職務放棄かこの野郎?」

「お前はしっかり公務放棄じゃねえか!」

これから二大国、ひいては世界の趨勢を決する重要な任務をクリアしなければならないというのにも拘らず、後方は相変わらず賑やかである。ささやかだが、イェルドはこの幸福を拠り所にしていた。

「じゃあ良いな? 給料出さねえぞ?」

「それなら税金納めねえぞ?」

「テメエの給与差し押さえてやる」

後方では何やら話が物騒になってきているが、イェルドは思う。

「(進化の有無はさておき、この幸福が無価値である筈は無い)」

この幸福の為に、そもそも民は相克と宥和を繰り返してきたのだ。

「(例えば、これまでの『双子の勇者』がそうしてきたように、世界という概念そのものを刷新するような大改革を齎せるのだとしたら、私達には、どんなやり方が残されているんだろう)」

イェルドは思う。世界を統べる光と闇を海や空で分けて、今までは秩序を構築してきた。

「あ……」

イェルドが声を上げたので、ランと凍馬がイェルドに注目した。

「(光と闇を分けたことで『終幕』が齎されるなら、)」

イェルドは後方を振り返る。

「民も、光と闇で二別されているから、進化に“終り”が来るんでしょうか?」

当然ながら、後方の飛空騎の騎手二人はきょとんとしていたという。

「アタシさ、」

しかし、ランが声を上げてニッと笑って見せた。

「光と闇をくっつけて、運命を劇的に変えたって奴知ってるよ」


――“高貴なる双子ケツァルコアトル”である。


(3)

 ヴェラッシェンドより特使が派遣されることをイオナが知ったのは、朝一に現れたシュナイダーの報告によってであった。

「ヴェラッシェンドがこちらの信号に機敏に反応したのも、やはり、イオナ殿のお名前が効いているのでしょうな」

シュナイダーの分析は正しいようだ。特使には、ペリシア(というよりはイオナ)の希望通り、イェルド・アル・ヴェールが指名されているという。

「この間のクーデターで公会堂も城内の会議室も使えなくなったので、止む無くホテルを幾つか当たっているところだが、ご希望はおありか?」

本来この時期に敵国からの使者を招待することなど論外だと思っているシュナイダーは、睡眠不足も相まって、表情は険しい。

「盗聴器と監視カメラが無いところなら何処でもいいわよ」

シュナイダーの苛立ちなど見通しているイオナは、しかし、更にこの老騎士を挑発した。彼女としては、単なる率直な希望に過ぎないのだが、それが通らないことへの不満を表明したつもりである。

「この期に及んで隠す事など何もあるまい」

小さく笑ったシュナイダーはそう返事をしたが、正直彼は、この元帥副官がヴェラッシェンドの特使に何を期待しているのかを掴みかねていた。

「勿論、隠すことなど無いわよ」

イオナは口角を上げる。

「ただ、知る必要の無いことまで知ろうとすると、要らぬ衝撃を引き受けかねないこともあるんじゃないかしら?」

ねえ、とイオナは窓の外を見遣る。イオナの懸念を理解したのかどうかはともかく、シュナイダーは淡々と特使との会談予定時刻と段取りを説明した。

「会談は、貴殿と先方の特使とが一対一で行うものとする。我々と先方の警護兵が隣室で待機している。常時、我々が臨機応変に対応できる体勢は整えるつもりだ。一応申し上げておく」

どちらかといえば忠告に近いシュナイダーの説明を聞いたイオナは、「頼りにしているわよ」と口元を緩めた。

(4)

 旧ペリシア帝国の手先と思われる者を一通り炙り出したバーナードは、まだ少し重たい瞼をこじ開けて、御名御璽を賜った書類を確認した。イェルドの聖戦士長アークビショップの辞任届ばかり未処理扱いにされているが、ペリシア側から特使に「聖戦士長」が指名されていたので、美しさを感じるほど巧く、合法的に、かの4人は再び一つ処に集められることになった。

「これで良い」

バーナードは顔を上げた。昼下がりも過ぎた青空が、昨夜未明の動静などお構いなしに澄ましている。

 昨夜、というよりは今日の明け方、所謂「魔王と双子の勇者」は、世界に“明日”を齎したわけである。一体何が変わったのか、バーナードにはさっぱり分からない。

「(少しは、貴方の恩に報えたのだろうか?)」

これも、バーナードにはさっぱり分からない。しかし、

「これで良い、か」

もう一度、バーナードは呟いた。

 元帥執務室に、更に決済書類を持って元帥副官がやってきた。低い陽の光に照らされた元帥の、“寝不足”と何処かに書いてありそうなあからさまな顔を確認した副官は、「いい加減、お休みになって下さいね」と労って、すぐに引き返してくれた。部下には恵まれている、とバーナードは自負している。丁度、隠し部屋に控えていた第二部隊機動部隊隊長・アイリーンも時間を改めようと気配を消したところだった。

「アイリ、報告せよ」

休むならせめて彼女の報告まで耳に入れておこう、とバーナードは彼女を呼び止めた。

「改めますゥ」

と、間延びした可愛らしい声が壁の向こうから聞こえてきた。すぐに壁紙の一部が剥がれて大きな栗色の目の女性が首を出した。

「元帥閣下の眠りを妨げるほどの報告は何もありませんよォ」

バーナードにとってこのアイリーンは、帝国軍の非公式組織である隠密部隊では「右腕」というべき存在であるが、ヴェラッシェンド帝国軍内では大分立場が違う。アイリーンの他人行儀はその所為である。しかし、この日は少し彼女の様子が違うようだ。

「もっと頼りにして下さいよォ。これじゃアイリ達がでくの坊みたいじゃないですかァ」

どうも、バーナード元帥が目に見えて過労であることが、この生粋の暗殺者アサシンのプライドを逆撫でしているようだ。

「済まない。私があまりに心配性なだけだ」

バーナードはやむを得ず、ソファーに横になる。こうなるとこの腹心は、実際にこちらが眠りに就くまで部屋を離れないからだ。すかさず、壁の向こうの腹心からトドメが刺されたところだ。

「次倒れたりしたら、睡眠薬仕込みますからねー」

なかなか物騒な思いやりだが、彼女らしいのでバーナードは一切咎めない事にした。

「帝国軍会議が3時間後にある。会議の20分前に起こしてくれないか?」

横になると本格的に眠気が襲ってくるものだ。バーナードは腹心の返事を待たずに眠りに就いた。

「……御意」

最早彼の耳になど届かない承諾の意思表示を、アイリーンはあえて口にした。そういう事こそ元帥副官に任せれば良いのに、とこの生粋の暗殺者アサシンは思う。しかし、どうも今日は帝国中が混乱していることは彼女も理解している。どさくさに紛れて多忙な元帥・バーナードの命を狙ってやってくる者が全くいないとも限らないので、アイリーンは指定された時刻まで彼を守護することにした。何かと理由をつけなければ、この穏やかな時間を、「無為」と言って切り捨てきれない自分の気持ちの整理がつかないのである。

(5)

 メーアマーミーが新体制の政を総理する準備を開始している関係で、イオナには必然的に旧ペリシア帝国軍の専権事項の決裁が回ってくるようになった。故に、彼女が、会談の場として迎賓館が設定された旨知らせを受けたのは、若干の遅刻が決まった馬車の中であった。ただ、

「迎賓館ってことは……」

ヴェラッシェンドからやってきた警護兵の一人に、「高貴なる盟友」が紛れ込んでいることが解ったイオナは、逸る気持ちを押さえつけたまま御者に行き先の変更を告げた。

 車窓の景色が流れ始めた。外灯の赤紫の光がポツリポツリと点り始めた。そんな時刻である。見慣れた景色が行過ぎる。見慣れた景色が……

「(ひょっとして……)」

イオナは御者を呼んだ。が、返事は無い。ただ、見慣れた景色が行過ぎるばかりである。試しに魔法分子を召喚しようと試みたが、案の定、馬車の中で魔法など使わせないよう工夫がされている。

「くっ……!」

イオナは車の扉を開けた。幸い、車に細工はされていなかったようだ。開いた扉から流れる景色は思いの外速い。イオナは前方を確認した。鞍にべっとりと血がついている。狙撃されたのだろう。既に御者は居らず、走り続けている馬が、何らかの操作を受けているようだ。刹那、

「!」

殺気を感じたイオナは慌てて扉を閉めた。間一髪、閉めた扉の窓の向こうに剣の切っ先が見えた。しかし、それも時間にしてみれば一瞬であった。その剣の柄と見られる部分が、窓を叩き壊し始めた。読心呪文マインドリーディングで事の顛末を読めたとしても、どうしようも出来ないことがある。


 ――今、割れた馬車の窓の隙間から、催眠ガスが吹き込まれたところである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る