第86話 ペリシア共和国へ

(1)

 イオナは慌てて飛び起きた。カーテンの締め切られた窓を見遣ると、薄紫色をしたセディアラの町が朝を待っているところであった。

「(まさか、この夢を見るなんて……)」

冷え込みが厳しくなってきた最近の朝には似つかわしくない額の汗を右手の甲で拭って、彼女は苦笑した。

 まだ西の空に白く残る月が、澄ました顔をして往き過ぎる。あと何度、こういう朝を迎えることができるだろう――そう思った瞬間、イオナの長い睫毛が下を向いた。

「(やっぱり、こんな時だからこういう夢なのかしら)」


月が落ちる夢を見た。


「(でも……)」

イオナは一度、瞼を閉じた――何とかまだ夢の余韻があるだろうか。月が落ちる間、傍らに寄り添ってくれていたのは、最愛の存在ひとだった。

「(悪夢とはちょっと違うかしらね)」

イオナは窓の向こうから室内へと視線を移した。相変わらず、隣のベッドは空っぽである。

「……どちらにも戻れないのよね」

時計が逆に進みでもしない限りは。

「でも、だからこそ止まれないのよね」

戦友に出した救助要請は、信用しうる情報として宣戦撤回を敵国へ知らせてくれるだろう。

「(着弾が避けられないのなら、せめて……)」

イオナは白い月に祈る。

「(貴方に、一目会いたい!)」

(2)

 つくづく、どうかしたものかと凍馬は思う。何時だったか、月の落ちる夢を見た所為で月が怖くなったというランの話を聞いたことがあったが、今の今まで、凍馬は自分も月が落ちてくる夢を見ていたのだ。真っ赤な顔した満面の月が、ゆっくりと地表目掛けて近付いてきたのだ。

 しかし。

「……え?」

つくづく、どうしたものかと凍馬は思う。今頭上にあるのは真っ赤な月ではなく、グロスたっぷりの艶やかなローズピンクの唇である。ほんのり上気した色にも似せたチークを施した美女の唇が、ゆっくりと近付いて来る。例によって、凍馬はこの状況を据え膳に置き換え、

「(喰うか、喰わぬか……)」

という二択に迫られていた。否、事実上、迫られていた。

「グロスの色変えたのか、姉さん?」

そんなに近付け無くてもよく見えている旨、凍馬は伝えようとしたが、どうも無為に終わりそうな距離である。いよいよ「その時」が来たのか、と一通り覚悟を決めた凍馬の耳に、これもお馴染みの怒号が聞こえてきた。

「ええい! 悪霊退散! 悪霊退散!!」

何時になく非常に荒い口調だが、これは自分の双子の弟の声である。凍馬は、一旦状況を整理し、確認した――見慣れたブロンドの美女が頭を抱えて蹲っている先には、投げつけられたとみられるやたらと分厚い本が数冊、無造作に打ち棄てられていた。

「段々攻撃がえげつなくなってるで?」

小さく唸ったアマンダが目を潤ませてイェルドを睨む。これはこれで色気があるのだが、このややこしい上司の正体を知るイェルドにとっては、鳥肌モノでしかない。

「こちらも辛いんですお察し下さい」

穏やかながら不気味に怒気を孕んだイェルドの声が呆れていた。

「兄さんも、もっと選んでも良いと思うんですよ。来る者拒まずじゃなくて」

「いや、何だこの茶番?」

弟に何かあらぬ誤解をされているような気がした凍馬は、大きく溜息をついたイェルドに弁解すべきかどうか暫く悩んでいたという。

 どうやら此処は先程までいた会議室ではなく、ヴェラッシェンド城にある医務室であるようだ。見るもの全てが何処か青白い部屋である。イェルドも寝起きのようで、今は腕を摩って俄かに浮かび上がった鳥肌を誤魔化しているところだ。

「ちょっと、ペリシアに不穏な動きがあるようやで」

早速本題に入ったアマンダが、深刻な情報を伝えてきた。

(3)

 世界屈指の大国・ヴェラッシェンド帝国のパレスで最も格式高いフロアは、何と言ってもロイヤルルームである。調度品には一々滑らかな金と螺鈿の細工がされており、床や壁も落ち着いた乳白色の希少な魔法鉱石で統一されており、目に映るもの全てが一々美術品としての価値も確かなものばかりである。金の細工と共に天窓を彩る色硝子も魔法分子間力の強い結界で保護されており、建築技術としても一級品であるばかりか、その魔法分子結晶の明滅さえも宝石のように煌びやかで神秘的である。

 勿論、この格調高いヴェラッシェンドパレス・ロイヤルルームの住人は、世界中のセレブリティーの頂点に君臨する、高貴なる人物達である。

「ぶっ殺すぞクソエロ親父!」

――大体この威勢の良い怒鳴り声で、彼等の気高き朝は始まる。

「おはよう、マイエンジェルスウィート・ランちゃん。ハハハ、今日はご機嫌だね」

上皇・デュトゥールが爽やかに愛娘に微笑みかけるが、その脳天からは血液が滴り落ちており、不気味に見えることこの上ない。

「起こしに来るなら普通に起こせ! 一々触るな! 必要以上に近付くな! 良いか? 次は本っ当に叩っ切るぞ?」

ヴェラッシェンド帝国皇帝・ランは、本日も壮健である。昨夜から今朝にかけては、彼女も久しぶりに戦った為、腕には多少張りがあるが、驚くほど健全に朝を迎えられた。ランは素直に神に感謝した。

「私はお前の無事が嬉しかったのだよ、ラン」

父上皇は更にハグを求めてきた。

「……チっ」

ランは小さく舌打ちする。昨晩の一連の事件は、この父をまた悩ませてしまったのだろう。今日ばかりは大人しくハグに応じようと思いもしたランだったが、今、父からやおら鼻血が噴出した。

「寄るなこのド変態!」

故にランは素直に謝罪する機会を逸し、代わりに罵声と右ストレートが出てしまう。

 世界は終わりつつあるというのに、穏やかに日常ばかりが行き過ぎていく。今などは、鳥のさえずりまで聞こえてくるのだから、堪らなくなる――イェルドがずっと独りで抱えていたものの重みが、やっとランにも解るようになったところだ。

「起き抜けに仕事のお話をしても良いかい、ハニー?」

例によって鼻にコットンを詰めながら、父上皇は切り出した。起き抜けと言っても正午前である。どさくさに紛れそうになっていた罪悪感を思い出したランは、とりあえず今日のところは公務をこなすと心に決めた。

「ランちゃんがこの一年足らずで沢山お友達を作ったようにね、」

相変わらず鼻につく前置きをされたランは眉を顰める一方だが、父上皇は構わず続ける。

「このヴェラッシェンド帝国も沢山お友達がいた方が良いじゃないか、と思うだろう?」

外交か、と意外に思ったランは眉を上げた。

「つい最近、世界に新しい仲間が加わったんだよ。そこで、ヴェラッシェンド帝国としても、是非、彼ともお友達になりたいと思うだろう?」

ドクン、と胸の奥から全身に向けて熱い血液が駆け巡ったような錯覚があって、どうにも説明の付かない逸る気持ちに駆られたランは、父・デュトゥールの穏やかな口元から出てくる単語を丁寧に拾う。

「彼は今、どうにも困っているようなんだよ。そこで、ヴェラッシェンド帝国が助けの手を差し伸べることが出来れば、きっと彼とお友達になれると思うんだ」

回りくどい父上皇の説明は全く気に食わないが、ランは娘の義務として、一応乗ってやることにした。

「その“お友達”の名前を教えてくれよ?」

――訊くまでもないだろう、と互いに思っている父と娘が、互いに小さく笑ったところである。


「ペリシア“共和国”」


(4)

 会議室で眠っていた筈のイェルド達は、ダイダロスの件の収拾に当たっていた隠密班に然るべく処理されたということのようだ。彼等の慣れた手筈で、ランは私室へ、イェルドと凍馬はヴェラッシェンドパレス附属の医務室へ、ダイダロスの手下は歴史の闇へと運び込まれたらしい。

「ペリシアの不穏な動きとは、昨夜下さった信号のメモの件でしょうか?」

イェルドは、うっかり上官に投げつけてしまった分厚い本二冊を片付けながら問うた。

「ホンマにようできた子や」

アマンダはにっこり微笑んで肯定すると、どさくさに紛れて凍馬の頭を撫で付けた。例によって兄が受忍する羽目に陥っていたので、すかさずイェルドが割って入る。

「今日の明け方の集会で、ペリシアで革命が起こったようだということでしたが?」

ああ、と不服そうに凍馬から離れたアマンダは、一旦、近辺の隠密の有無を確認し、

「間違いないらしいで」

と肯定した。「シェラード“赤い月”戦線」というテロ組織により、ペリシアパレスが陥落し、皇帝・ジェフ三世は、騒動を事実上鎮圧したペリシア旧帝国軍に身柄を確保されているという。

「まあ、ペリシアの実権が旧体制保守派に現存する以上、実質的に旧体制と何が違うんや、っちゅう話もあるにはある」

ただそれにしても、直ぐにペリシアがジェフ三世を擁立して帝政を謳わないという、異例の措置の意義を汲んで、既に父上皇などはペリシア“共和国”などと呼んでいるようだ。

「この現状での、イオナ元帥副官からの非公式な救助要請や。国が国だけに、まだこちらも警戒は怠るつもりは無いけれども、ペリシアのこれまでの舵取りとは明らかに様子が違っていることは認めざるを得ない」

――そこで、とアマンダはイェルドと凍馬を見てニンマリと微笑んだ。

「件の信号を遣したイオナ元帥副官とコンタクトを取って、ペリシアが何を考えているのか、探ってきて欲しい」

不意に出た“イオナ”の名に、小さく凍馬が声を上げたので、イェルドとアマンダは殆ど条件反射で凍馬の挙動に注目した。


「会えるモンなんだな」


この凍馬の呟きには色々な言葉が省略されていたが、それを汲んだのかどうかはともかく、

「セッティング大変やったわ。ちゃーんと成功させてや?」

などと言って笑い声を上げたアマンダの表情は、あまり面白そうではなかった。

「すぐに赴いた方が良いんですね?」

“善は急げ”を信条としている訳ではないが、イェルドは気が逸る。『終幕』に近付くことや世界が抱える患いの解決に向けコマを進めることより何より……

「(どうか、気付いてくださいよ?)」

イェルドは兄を見た。何処か遠くに投げられた凍馬の視線は、決して寝起きで頭が冴えない為のそれではなく、解らないものから距離を置こうとしている時に見せる、何処か投げやりな眼差しである。

 イェルドはアマンダと目が合った。

「可及的速やかに、ペリシアに赴いてくれ」

世界が終わるなら、せめてその前に――アマンダはニッと笑って見せた。どちらかというとその笑みはバーナード元帥に近い笑い方だったような気がしたイェルドは、踵を返した上官の後姿を暫く見送っていた。

「忙しいなァ、給与所得者サラリーマンは」

当の凍馬は、穏やかな窓の外を眺めては長閑にそんなことをぼやいている。

(5)

 実は、この日のヴェラッシェンド帝国は未曾有の混乱に陥っていた。

 城務大臣・ダイダロスの“失踪”と、ダイダロスに加担していたと見られる国土防衛省や帝国軍事局の重役の失脚、それに伴う人事異動と体制の引き締め、加えて、対ペリシア戦略の見直しを余儀なくされていた。数十に上る人事異動申請書の山の中から、見慣れた名を見つけたランは、サインの手を止めた。

「イェルド……」

そういえば、まだランの追憶の中の彼は長い髪のままである。

「そっか。……ちゃんと辞めたんだな」

聖戦士長アークビショップとして彼を任命した時、ランは罪悪感すら覚えたが、いざ辞める今となっては何となく寂しい気もした。まあ、神など信じていない彼にしてみれば会心なのかもしれないが。


 “ペリシアから、非公式に救援要請が届いた”

父上皇が珍しく率直に切り出したのは、懐かしい名前だった。

“イオナ女史からだ”

父が言う救援要請とは、イェルドが手にしていた信号解読文のことだと分かった時から、ランの中ではある程度、「決意」は固まっていた。それを知ってか、父からは早速釘を刺された。

“今回ばかりは、『双子の勇者』に礼を言わねばなるまいが、”

丁度、大聖堂の鐘が正午を告げた頃だった。

“舌の根も乾かぬうちに約束を破られたのでは困る”

約束とは、即ち、二度と『双子の勇者』と会わないことである。

“分かりました、”

一度、言葉を止めたランは父の潰れた右目を見据えた。

“――とでも言うと思うか?”

この義眼こそが父の見せる表情の中で最も正直な色をしている事を、ランはつい最近知ったばかりだ。大聖堂の正午の刻の鐘が鳴り響く間じゅうずっと、ランは父の義眼を見つめていた。一見不敵・不遜なランの態度だが、ランの予想通り、父上皇は声を殺して笑っていた。

“やはり、お前は私の娘だな”

信じているぞ、と父皇帝は部屋を後にしていった。

 

 「分かりました、」

ランは、手にした聖戦士長の人事異動申請書をデスクに置いて、ニッと笑った。

「――って、ワケにはいかねえんだよ!」


 その日、ヴェラッシェンド帝国はただでさえ未曾有の混乱に陥っていた。

 ランのいる皇帝執務室から、突如ガラスの割れる大きな音が聞こえ、慌てて部屋に飛び込んだロイヤルガードは、最早、満面の冬の空を遮ることが出来なくなった窓から吹き込んできた風を全身に受けて佇む羽目に陥った。

「皇帝陛下! 陛下は何処へ!?」

「皇帝が脱走なさったぞ!」

「オイオイまたかよ……」

「探せ! 探さぬか!」

やっといつもの仕事が舞い込んだぞ、とロイヤルガード達が色めき立った。

 その喧騒の背中越しの上空である。皇帝執務室の粉々に砕け散ったガラス窓の下、丁度真下の階にある部屋の窓のひさしに身を潜め、長く伸びた銀髪を涼しく風になびかせていた上皇が、城下町・リトリアンナ目指して飛び立った炎鳥(フレアフェニックス)に手を振っているところだった。

「行ってらっしゃい、マイハニーエンジェル」

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