第72話 魔王の懐旧、終幕への足音
(1)
丁度落ちる日の光の余韻の残る、宵口の空の下である。
ペリシア帝国帝都・セディアラのスラムにある小さな遊技場は、往来から漂う甘い香りに寄せられて人通りは多い。
薄い壁にもたれかかって、煙管にロータスの樹皮を詰めていると、遊技場から漏れてくるダンスホールミュージックの重い低音のベース音に内臓の壁を殴りつけられているような錯覚に陥る。麻薬でラリるなら、独りよりも大勢でいる方がだいぶ心地が良いので、シュリは暫くそうしていた。
「火をお貸ししましょうか?」
不意に、そう声をかけられたシュリは顔を上げた。
「止めてくれた方が、忠臣なんじゃない? こういう時ってさ」
シュリは渋々ロータスの樹皮を棄てた。ふんわり漂ってきた甘い香りに、今は多少辟易している。
「で、帝国軍の特殊工作員サンお揃いで、何か用?」
つくづく、何が身を助けるか分かったものではない――シュリは自分を取り囲む5、6人の工作員を睨み付けた。丁度、遊技場から奇声が聞こえてきた。月の夜だからだろうか、人の心は惑うようである。
強い風が吹きつけて、甘ったるい香りが宵闇に散る。
「御免!」
壁を背にしたシュリに向け、全方向から強化魔法球(ブラスト)が一斉に飛んできた。
『結界呪文(バリア)!』
自立した社会活動家として、“シェラード「赤い月」戦線”総帥として、志を全うする為に皇子の肩書きなどとうに棄てていたシュリは、それ相応しい戦闘能力も備えていた。
「大逆罪の現行犯で逮捕といきたいところだけど、」
シュリはニヤリと笑って見せた。即席の結界呪文を構成する魔法分子結晶が5人分の強化魔法球(ブラスト)の負荷に耐え切れず亀裂を生じている。一見不利な状況だが、シュリが笑っていられるのには根拠がある。
「……面倒だから、今死んでよね」
月の夜は人の行き来の多いセディアラのスラムにある、とある遊技場にて。
甘い香りに誘われて、人の心はうわの空。浮かれて服を脱いだ女に浮かれた男が滑り込む。愛も無いのに幸せいっぱい――それもひとつの平和のカタチなのかもしれない。
冬の入り口から芳香を乗せた風が満月に逆巻く。皮膚が痺れる程の冷たい颯はしかし、戦士たちに剥く牙であったようだ。
『聖伝書第103節【史上最大の停止】(ユニバーサルグレイサー)!』
シュリでも工作員でも無い男声の詠唱一つで、そこらじゅうの水魔法分子が負のチカラを帯びて硬度を増しながら幾つも結晶化し、まるで矢のように工作員達に打ち付ける。
無数の“魔法分子の弾丸”に射抜かれた工作員達の断末魔がスラムに轟くが、やおら開いた扉から漏れ出でた大音量のバックグラウンドミュージックの方が、よっぽど狂気に満ちていた。
「新入りサンは、よく働くねえ」
シュリは遊技場2階のバルコニーを見上げた。今日の月と同じように青白い顔をして澄ましている黒髪の男と目が合う。
断末魔が止んだ。
丁度、曲も入れ替わるのか、音楽も止んだ。ぞっとするほど冷たい風が吹き付けてきて、やっと、シュリは気が付いた。
「……兄上が危ない!」
(2)
ヴェラッシェンド帝国の現在時刻は丑三つ時だが、城(パレス)の洗濯広場は、美しい月の架かる本日も例外なく、極めて政治的に利用されていた。
「意外だな」
つい先日まで“父皇帝”などと呼ばれていた男にそう声をかけた帝国軍元帥は、西に傾き始めた月を見遣る。
「まあ、いずれ譲らねばなるまいと思っていた。良いきっかけだ」
身を切るような冷たい風が吹き込んできた。デュトゥールは羽織っていた黒のショールの端をやや強めに握り締めた。丁度、そんな時に、
「そのことじゃない」
と、元上司であるバーナード元帥がせっかちに切り出すものだから、思わずデュトゥールは背筋を伸ばしてしまった。「条件反射か」などと互いに一笑した後だが、本題には戻った。
「お前が一番懸念していたじゃないか。姫様と聖戦士長を引き合わせることを」
元帥が疑問を切り出して間も無く、元皇帝からは大きな嘆息が聞こえてきた。
「そりゃあ、オレだってあんな何処の馬の骨とも判らん頭でっかちのひょっ子如きがマイプリティーエンジェル・ランちゃんと近付くのは著しく不快だ」
痛々しいフレーズを惜しげもなく使用している件はさておき、やはりデュトゥールは懸念を留保したままではあるようだ。バーナードは苦笑交じりで相槌を返しておいた。やがて、逆接から釈明が続く。
「凍馬クンのキャパシティーがヴェラッシェンド側の戦力になるメリットは大きい。逆に敵に回せばこれ以上の障害は無い。今回は、オレとランの利害が一致し、すべきことし、然るべき状態になった。現場に聖戦士長が居合わせたというのは偶々ついでのおまけだったというだけのことだ」
そう、偶々居合わせた聖戦士長と“伝説の盗賊”が生き別れの兄弟であり、偶々彼等が魔王と敵対する“
刹那、
「胡散臭い言い回しは止せ」
と、元上司・バーナードからまたもお叱りの言葉を食らってしまったデュトゥールは、もう一度背筋を伸ばす。とはいえ彼とて、好きでふざけているわけではない。
少し風が出てきた。風通しの良い場所にいるのでそれはそうなのだが、逐一唸ってしまうほど風が冷たくなってきた。
「お前のことだ。何だかんだ言って、お前ばかりは一つコマを進めているんだろう?」
バーナードは核心をついてみた。案の定、デュトゥールの表情が曇る。
高貴なる身分である者は、あらゆるものに気を配らなければならない宿命にある。丁度彼は、その責務を果たしてきたところだった。
「“魔王”と“勇者”は相対するものだ。まして、あの子は……」
デュトゥールは両掌で顔面を覆い、不意に表れた眉間の皺を隠した。彼の瞑る瞼に映ったのは見慣れた大聖堂である――ほの暗い神託台の上に佇む、当時の聖戦士長・アルが沢山の人間に取り囲まれていた。しかし、アル師は生まれて間もない愛娘に、申し訳なさそうにこう告げたのだ。
“汝の世に為す意味は即ち、破滅である”
と。
「まだ昔の神託が気になるか?」
バーナードは、この世界的な軟派男が常に何に苛まれているのかをよく知っていた。
「あの子の父としては、一切気にしないつもりではいた。しかし、一国の為政者としては気にせずにはいられなかった」
愛娘・ランについては、(もう少し可憐でたおやかには振舞えないものかと思うことも無くは無いが、)その内心に邪悪なものは一切無く、むしろ正義と思いやりに溢れ、とても自ら進んで破滅を欲するようには思えないのである。
しかしそれは、我が子を愛する親としての穿った見方に過ぎないのだろうか――そう悩み始めると、もうキリが無いのだ。
「一為政者として、
――たった今、北方大陸に極秘裏に派遣されていた隠密部隊員から、ランによって凍馬逮捕・極刑言渡し・特赦処分が完了したとの報せが舞い込んできたところである。
「……それも親心という奴か。因果なもんだ」
親にはなった試しの無いバーナードには、彼に同情できても同調することは難しい。月明かりに、この言葉だけが何とも浮いていた。
(4)
火を囲んで座るのは半年ぶりくらいだろうか。そういえば、アリスによって異世界へ移送された日も満月の夜だった。とはいえ今夜は、レッドキャッスルの海岸ではなく、凍馬が塒としていたメダラルフォールの丘地であるが。
ランが取り急ぎ連れて来た側近達は、それぞれランの扱いには慣れているのか、遠巻きに魔王を守護する他はなるべく多く立ち入らないよう努めてくれている。また、此処で負傷者の治療をすることも想定されていたのか、簡易テントが持ち込まれていた。失血していた上に解毒の治療により熱発していたイェルドが、今そこで治療を受けている。
「呑めないのが残念だ」
いきなり随分な感想だが、いかにもランらしかったので凍馬は失笑するに留めておいた。
「宴にしては、人が足りてねえだろ」
またも上手く空気を呼んだ凍馬はそう切り返し、弟がいるテントを見遣る。丁度、ランが眠気覚ましに背筋を伸ばしたところである。厳しい冬の訪れを告げる、北国の肌を刺すような冷たい風は、魔王となったばかりの少女を暗喩するかのように凛と澄ましている。
少し強い風が吹いて、薪の炎に合わせて二人の影が揺れた。
「……世話かけたな」
ぽつりと、凍馬はそんな事を呟いた。物分りの良い彼は、勿論知っていたのだ。わざわざランが『魔王』を引き受け、こんなところまでやって来た理由を。
「人の出世話を湿っぽくするんじゃねえよ」
ランは焚火の灰をかき混ぜてやった。陽炎に乗って凍馬に火の粉が降りかかる。
「熱ィって! テメエふざけんな!」
「うるせえ、火傷でくたばるタマじゃねえだろ!」
突然聞こえてきた主君と元重罪人の喧騒に、ランの側近達も逐一介入しなくなった。こうやって、色んな変化に慣れていけば良い。罪が消えた元罪人も、これからその元罪人と共に生きていく聖人も、魔王と呼ばれるようになり戦友とはもう会うことはできなくなる一国の女皇も――
そういえば、などとありふれた話の切り出され方をしたランは、顔を上げた。
「回復呪文(ヒール)使えるんなら、お前もイェルドの傷を塞いできてくれないか? アイツ、この辺りの質の悪い連中に因縁付けられてたから、回復しきれてないと思う」
それにしても、何とも不意の成り行きである。首を傾げたランをよそに、凍馬はやおら焚火の前で横になった。
「オレはオレで、昨日から珍客の相手ばっかで殆ど眠れてねえんだわ」
などとぼやいて。
「……ったく。いつか身体壊すぞ、お前等双子は」
溜息一つ、ランはテントへ向かった。早くイェルドの傷を治してやらなければ、と慌てていた彼女は、凍馬の小さく鼻を鳴らした笑い声には気が付けなかったのだが。
(5)
マジックカンテラの淡い光で、テントの中は闇とは言わぬまでも、青白い影を落としていた。
イェルドの解毒は済んでおり、回復の心得のある術者もテントから出ていたようだ。凍馬同様ろくに眠れていなかったのか、ランの気配に気付きもせず、イェルドは眠りこけていた。
イェルドを起こさぬよう、なるべく音を立てぬよう、ランは慎重に彼の顔を覗き込む――兄・凍馬への罪悪感から漸く解放された彼は、今、少しは安らかに眠れているのだろうか。
丁度、こんな青白い月明かりの夜のことである。
母を失った直後に父に縁談が相次いだこともあり、精神的に未熟な頃のランは、城(パレス)を無断で抜け出しては、父皇帝や城務省の大臣や職員たちを困らせていた。
城下町リトリアンナの歓楽街を少し外れた名もなき街路に、しんと冷え込む夜の風を抱えこむように座り込んだランは、帰るに帰れず、しかし行く宛てもなく、途方に暮れていたことがある。所謂、世間というものにまだ疎かった彼女は、自分がせめて拠り所にしていたありふれたスラムの壁にさえ、歴(れっき)とした所有者があることなど、知る由もなかった。
“御用の方ですか?”
リトリアンナの教会に拠点を移していたイェルドとランは、そんな時に出会った。
”用があるっていうか、今夜だけでも泊まれる場所があったら嬉しいなと思って”
”成程”
その時、「業務のうちですから」と、何も訊かずに温かい食事と居場所を分けてくれたのがイェルド・アル・ヴェールという若い神父だった。
当時から彼は、聖人などという高尚な者達よりもずっと静謐な雰囲気を醸し出していた。城内では散々“お転婆”などと囁かれていたランが、たかだか一臣民に過ぎない彼に、初めは口を利くのも躊躇われたのは、家出をしている後ろめたさがあったからということだけではなかった。
「(そうだ、あの時も……)」
ランは、イェルドの左肩にある傷口に添えかけていた手を、ふっと離した。
“アンタ、怪我してるよ?”
家出少女を保護したスラムの若き聖職者が、まさかバウンティハンターをしていたことなど、当時のランは全く知る由もなかったのだが、偶々イェルドが左腕の付け根を損傷していることに気付いた彼女は、せめて宿代にと回復呪文(ヒール)を唱えようとしたのだ。
ランの詠唱に呼び寄せられた正のチカラを帯びた魔法分子は、辺りに淡い光を振りまきながら現れた。しかし、まだその呪文は覚えたてだった為か、ランが何とか召喚した魔法分子は結晶化せず、回復のチカラを発動しなかった――呪文は失敗に終わったのだった。
“ゴメン、アタシ回復呪文って苦手で……”
それは、他人を救うためには賢くならなければならないということを、ランが身をもって経験した瞬間だった――流石に申し訳なく、うつむいた彼女に、
“怪我を治してあげたい、と強く思えるような大切な人を心の中で思い浮かべれば、この呪文の成功率は上がるようですよ”
それとなく、家に帰ってはどうかと促したイェルドは、「もののたとえ話ですが」と優しく笑ってくれたのだった。
彼とそんな他愛もない会話をしたことが、つい最近のことのように思い起こされる――ランは軽く瞳を閉じた。
回復呪文(ヒール)の詠唱を唱えて右手を翳すと、瑕疵ある部位で違和が残る。
「(傷の位置は、左肩と背中か)」
だからイェルドは左半身を上にして横向きに眠っているのだろう。
「(つくづく、自分の傷には無頓着なんだよなコイツ)」
ランは溜息をついた――熱はもう下がったのだろうか。解熱の為に必要な水分の補給はきちんとできたのだろうか。治療に堪えうる体力をつけるための栄養は補給できたのだろうか。しかしこの森の冷え込みでは、下手に汗をかけば風邪をひくこともあろう。ああ、案の定、夜の冷たい空気に暫く晒されていた彼の体は、びっくりするくらいに冷たくなっていた。
「(魔王になっても、今まで通り、会えたりするのかな……)」
これからのことは、余りにも分からない。
『我が祈りに応えよ』
詠唱の声が震えたのは、ひと時ひと時に気持ちを集中させているからであり、
『……回復呪文(ヒール)』
祈りに集中しているからである。
イェルドと出会ってからどのくらい経つのか、ランもまともに計算したことはないが、重ねた時を数えたところで、二人の為に資するものは何もない。ただ、最早、失敗のしようもない程、ランの回復呪文は完成されていた。
「私は、変わらない」
彼女の声が届いたのか、やおら、イェルドが瞼を開けた。この数日、彼にとっても壮絶だったのだろう、先日大聖堂で会った時よりも、だいぶやつれて見えた。
起こしてしまった詫びを入れ、せめて仮眠をとれとランは言ったが、イェルドは固辞して起き上がった。曰く。
「……有り難うございます」
回復呪文へのお礼なのか、凍馬への特赦のお礼なのか、ランがぽつりと吐き出した決意へのお礼なのかは分からない。
顔を上げて微笑んだ勇者は、魔王の手を取り、その甲に口付けた。
(6)
張り詰めた冷たい風を切り、咳き込むように駆け込む革靴の音が廊下に響く。
ペリシア城(パレス)にひっそりと息を潜める“開かずの間”の前、念入りに刺客がいないかどうか確認して、シュリは第二皇子に声をかけた。
「兄上、シュリです! 此処を開けてください!」
しかし、いつもに増して、第二皇子の反応は鈍い。シュリは何とか聞き耳をたてて部屋の様子を窺うも、やはり、此処からではよく解らない。
「兄上! 此処を開けて下さい!」
それでもノックはしない約束である。根気強く、シュリは待っていた。
カタリ、と部屋から物音はした。
「(そうだ。落ち着こう)」
こうして何度か声を張り上げていれば、やがて衣擦れの音と共に鍵の開く音が聞こえてくるのだ――此処まではまだ日常である。
「(落ち着こう……)」
シュリは自らにそう言い聞かせる。
「(扉さえ開けば!)」
そろそろ此処へやってくるだろう刺客から脆弱な兄を、ありとあらゆる危険から守ることができるのだ。彼もそれだけの力は蓄えてきたし、それが出来なければ、彼が父皇帝に背いてまでこれまで戦ってきた意味の殆どが失われるのだ!
「兄上……」
衣擦れの音が近付く。鍵が開いても、まだ慌ててノブに手をかけてはならない。扉が少し開くのを待って、シュリは部屋を覗き込み、部屋の主に声をかけた。
「具合はどう? 兄上」
開いた扉の向こうには、兄・第二皇子の長い銀髪が揺れ、優しく口元と目じりが緩む――そうある事を信じていた。
「兄上?」
しかし、扉が開いた、まさにその瞬間である。
雷鳴のような音が開かずの間に響き渡ったのだ。
丁度、シュリの目の前で、兄の優しい顔も美しい銀色の髪も、赤黒く塗り潰した音である。
「皇帝の御意思である」
そんな声が聞こえて、殆ど無意識に振り返ったシュリの眼前に、正に今、唸り声をあげた巨大なボウガンを構えるメーアマーミー帝国軍元帥が控えていた。
――10本の矢が同時に放たれ、その内6本の矢がシュリの胸部と腹部を貫き、3本の矢がキリエの頭部と胸部を貫いていたという。
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