第71話 MOON LIGHT SONATA(3)

(1)

 イェルドは目を覚ますなり、上体を起こす。

 直ぐ目の前に悪戯っぽい笑みを浮かべて自分の顔を覗き込む男と目が合った。「お、生きてたか」などと男は笑う。

「ええ、今、死ぬかと思って飛び起きたところです」

イェルドはその男に摘まれて赤くなった鼻を強く擦って、大きく溜息を吐いた。

「いや、眠ってくれるのは一向に構やしないが、半日以上同じ形で眠ってるもんだから、ちょっとした生存確認を……」

男は苦笑している。

「え? 半日以上?」

愕然としたまま辺りを見回してみると、森の真上は燈色が伸びた空――今ひとつ状況を呑み込むのに苦労はしたが、どうやら今見ているこの景色は夢ではなさそうだ。

「気分は?」

「……え?」

「キ・ブ・ン」

「ああ……」

自分と顔立ちの良く似た男が容態を問うている。イェルドはやっと現実の世界に立ち戻る事が出来た。

 一体どのくらい眠っていたのかはよく解らないが、世界は今、夜の入り口にさしかかろうとしているところだ。追っ手から込められた毒により、自分は暫く(少なくとも半日以上)昏睡状態にあったようだ。


 確か、半年くらい前にいたレッドキャッスルでも似たようなことがあって、やはりその時も彼に毒の治療をして貰ったことがある。その時と同じく、「毒の影響は無さそうだ」と伝えたところ、彼はやはりその時と同じように、安心したように数度頷いてくれた。

「何か白い服着た奴等がたくさん来てたケド、お帰りいただいて問題なかったか?」

彼の言うのは“シェラード「赤い月」戦線”の狙撃班達のことであるようだ。察するに、ペリシア帝国第三皇子の側近といえども、“伝説の盗賊”の塒には決して近付かないということなのだろう。

「本当に、貴方って人は……」

せめて彼に合わせて、イェルドは何とか立ち上がる。まだ少し身体に熱とだるさが残るが、動くのに支障は無さそうだった。痛みといえば、まだ肩口にある傷から来るもので、それは直ぐに回復呪文(ヒール)を唱えれば塞がる。その傷に手を当てたまま、もう一度今の言葉を繰り返し呟いたイェルドは、身体とは裏腹に麻痺したままのココロを持て余しては表情を歪めていた。

「何だよ?」

飄々と居待の月を見遣る彼は相も変わらず、耳ばかりは派手に8個のピアスで飾り立てているクセに、地味な色をしたバンダナを巻いていて、

「オレの治療じゃ不満か?」

などと言って、ニヤリと笑って見せるものだから、端正な顔を歪めてまで堰きとめていたイェルドの感情は瞼から溢れて零れた。

「不満はありませんが、不安なら……」

誤魔化しようも無いので笑ったところ、彼も合わせて笑ってくれた。彼を困惑させたことくらい、イェルドには分かる。

「大丈夫! オレだって今まで何とか生きてっから!」

苦し紛れに笑っていた彼が、もう一度月へと視線を投げた。円に近いが、今日からは欠けて行くしかない月である。

「(例えば……)」

イェルドは思う。

 例えば独り追い込まれて潰れそうになった時、例えば激情に呑まれ己を律することができず知らぬ間に窮地に立たされた時、凍馬はどういう訳だか自分の傍にいてくれて道を示してくれるのだ。丁度、夜闇を照らす月のように。

「兄さん、」

そう呼びかけて直ぐに凍馬から首を横に振られたが、構わずイェルドは続けた。

「……戻ってきてください」

刹那、凍馬の表情が強張ったのが分かった。しかしイェルドの方も、もう、言わずに後悔することだけはしたくなかったのだ。

「貴方は“凍馬”ではないのです。これ以上、罪を背負い、罪を重ねて生きる必要は無いでしょう?」

珍しく感情的な弟を目の当たりにして、強張っていた凍馬の表情は優しく緩みはしたが、俄かに陰が差した。その表情を察したイェルドは、やはり兄を救うことはできやしないのかと、またも自分と神を呪いそうになったが、もう一度首を振った。

 ペリシアや無国籍の地域に足を踏み入れたから、あらためてそう思えたのかもしれない。神が世界に愛想をつかしても、例えば福祉が及ばずに全く手を差し伸べられない民がいたとしても、仮にそれが為に罪を重ねなければ生きていくこともできない者がいたとしても、彼等は決して独りでは無い。勿論、“伝説の盗賊”などと畏怖されて生きていた彼も同じ……

「いっそ、貴方が何者でも構わないんです」

神学校を首席で卒業したイェルドであっても伝えたい言葉が上手く出てこないのは、多分まだよく意味を理解していない単語を使おうとしているからだろう。だが、一番しっくり来た言葉がこれだったのだから、仕方は無い。


「家族、だから」


瞼の奥に差し込んだ光は、轟音を発して流れ落ちる川に透ける陽光である――凍馬の脳裏から、一度も消えたことの無い、悲しい色をした光である。

“チビ……”

名も無いと信じていた自分を呼ぶ、掠れた弱弱しい養父の声を、凍馬は未だ忘れる事ができない。そして義父と慕った男は、臨終にとんでもない命題を突きつけてきた。

“お前は幸せになってくれよ、な”

 しかし、何とか出会えた実の両親は想像以上に臆病で、些事を気にしながらみすぼらしい日常を凌ぐ、残念なまでに繊細な者達だった。

“もしも、息子達が生きていたならば、私達を殺しにやって来るだろうか?”

神とやらに祈った甲斐があったのか、彼等は漸く罪から解放され、今は故郷の冷たく固い大地の下に眠る。


 南寄りの東の空に架かる居待月から、ふっと目線を下に降ろした凍馬は、崖下の向こうに立ち並ぶ屋根の無い家々を見渡した。

「カゾク……」

これ以上に無駄に切なくさせる単語を、そういえば、長らく凍馬は知らなかった。多分、イェルドもそうだろう。

“有り難く救われてろよ”

と、かの栗毛からもう一度言われたような気がした。


 一方、随分穏やかな単語をポツリと呟いたまま沈黙している兄を、イェルドは不安そうに見つめる。しかし、月に臨む兄は、自ら『凍馬』のメタファーである紺の色をしたバンダナに手をかけ、

「!」

――イェルドの目の前でそれを外して見せた。

「兄さん……」


それは紛れも無く、『ツェイユ』という青年から『凍馬』という仮面が外れた瞬間であったのだ。


 大儀そうにバンダナを外した凍馬は、少し悩んでそれをイェルドに手渡した。

「……オレには棄てられそうに無い。代わりに引導渡してくれないか?」

故郷・メダラルフォールから吹き込んできた風が丘を戦ぐ。昔々、この地で生まれた双子の兄弟は、それぞれ罪の意識を背負いながらこの地を離れ、誰に望まれたかはともかくも、今度は共に、また此処へ戻ってきたのである。

「承知しました」

イェルドは兄の人生の殆どを象徴するそのバンダナを、

「く……っ!」

引き裂いた。何度も、何度も。


 「アリガトウ」

月が果敢無げに笑う。

 拠り所を失い、刹那に傾く彼に、イェルドは一度肩を貸した。


(2)

 乱層雲が行過ぎる音だろうか、風が低く唸る音がしてきた。この国が冬の戸を敲く音である。

 ペリシア帝国国立医療センターから帝国軍元帥室に一本の知らせが入った。帝国軍元帥はその知らせを聞いて、一つ、溜息をついた。

「何をお悩みかしら?」

元帥副官・イオナがコーヒーを淹れている。開戦まで、4週間余りである。ペリシア帝国軍はいよいよ忙しくなってきた。

「(きっと、ヴェラッシェンドも今頃は……)」

滅入る気持ちを払拭するように、イオナはメーアマーミーにコーヒーを差し出した。

「……エリオの意識が回復したらしい」

メーアマーミーの言葉に思わず歓声を上げたイオナであったが、喜ばしい知らせではなかったようだ。メーアマーミーは次のように続けた。

「ただ、行方を眩ませたそうだ」

「何ですって?!」

一大事である。イオナは思わず声をあげた。しかし、それにしてはメーアマーミーがいやに冷静なのが気になるところではある。

「本当に、……意識が回復したのだろうか」

メーアマーミーが呟いたその疑問文が全てであった。

 例えば副脳の装着やその他懐柔手段を用いてエリオのキャパシティーを軍事利用することがあるとすれば、当然に帝国軍元帥であるメーアマーミーの指示があるだろうと思っていたイオナは、自分が思っているよりもペリシア帝国中枢が肥大化していることに衝撃を受けていた。

「エリオがそう簡単に死ぬとは思わないが……」

そう逆説で止めたきり、傍らの帝国軍元帥はセピア色をした窓の外を睨み付けている。

 帝国軍元帥室は首都・セディアラで一番高い場所にある。ペリシア帝国皇族が暮らす城(パレス)よりも高台にあるのだ。それはこの帝国が帝国軍に最大敬意を示していることを表象するものであった筈だ。

 イオナが祖国を離れていた歳月の中で、その思想はだいぶ廃れてしまったようだ。メーアマーミーが「変わった」のは、そこのところにも原因があるのだろう。

 「何を考えているのかしら?」

メーアマーミーの視線の先には帝国代表者会議場がある。最早、読心術マインドリーディングなど使うまでも無かった。

「……何を考えているんだろうな」

主語を失った彼の言葉だけが、いやに宙に浮いたままだった。

 セピア色に彩られた帝都の宵の表情は時間の経過とともにやがて陰影を増し、瞬く間に世界に蒼く影を落としていく。

「エリオが正気を取り戻したとして、」

傍らの元帥は、漸くコーヒーに口を付けた。

「何処へ行くか、心当たりはあるか?」

直ぐにネハネを思い浮かべたイオナが心当たりのある居場所を言い泥んだのを察してか、筆頭側近のシュナイダー翁が代わりに答えた。

「ヴェラッシェンド帝国に向かうかもしれません」

“報復のため”と念入りに結んだ老騎士は、表情一つ変えずに出入り口の守備配置に就いている。「成程」と相槌を打った元帥は、直ちにヴェラッシェンド方面の工作員に情報提供を求めるよう指示を出す。イオナは併せて、国立医療センター近辺の監視カメラの提出を求める旨情報処理班へ指示を出す。事実の把握なら、これで幾らかできるだろうか。

 「――甘いな」

ふと、メーアマーミーがイオナに声を掛けた。

「ヴェラッシェンドの姫の好みか?」

そういってコーヒーカップに視線を落とした彼を見て、イオナは漸く気付いた。

「ごめんなさい、貴方にシュガーは必要なかったわね」

ランに仕える時間が長かった為か、メーアマーミーのコーヒーにも、つい、イオナは砂糖を大量に入れてしまっていたのだ。

「構わんさ」

ヴェラッシェンドの皇室の味だそうだ、と面白そうにそれを飲む元婚約者・メーアマーミーは、やはり、どこか変わったような気がした。

“貴殿が帝国に戻ると聞き、あの方はまた一つ、変わられた”

いつかシュナイダーが口にした言葉を、イオナは胸の奥で暫く反芻していた。

(3)

 俄かに森が騒ぎ始めた。複数の足音が双子目掛けて向かってくる。

「この気配は……」

イェルドは戸惑う。双子達には馴染みの人物が複数名を伴って、こちらに向かってやって来たのだ。

 足音が近付くにつれ、どんどん確信は強まる。


 「大儀である、聖戦士長」

ややハスキーな女声が森に響き渡る。間も無く、亜麻色の長い髪を靡かせ、色白で小柄な女性が威勢良く現れた。

 急展開に過ぎる事態である。

 優秀と評されることの多いイェルドの頭脳でも上手く処理し切れなかったらしい。動揺のあまり、彼はつい、予てしていたように、“ランさん”などと主君の名を呼んでしまったが、この件は現場のどさくさに紛れてあっさり忘れてもらうことにし、形式的に主君の傍らに控えた。


 ランが伴った側近18名には、ロイヤルガードは勿論、更に法務省管轄の裁判所から嘱託で派遣された刑務局の官吏も含まれていた。

 ソドム公国とはいえ、無国籍地帯に接する超危険地域には違いないこの森で、彼等も聖戦士長との合流で安心したようだ。

 

 その彼等がどこまでこの悲運の双子の兄弟の経緯を知っているのかは不明だが、彼等はあえて主君と双子との会話に立ち入らぬよう、後退して控えた。それを待って、ランは凍馬に切り出した。

「随分遠くまで、逃げ回ってくれたじゃねえか。テメエ、解ってんだろうな?」

久しぶりに再会したランは、相変わらず随分なケンカ腰だったが、その方が凍馬としても有り難かった。

「随分遅くにお出ましじゃねえか。待ちくたびれたぞ」

相手は“伝説の盗賊”ということもあり、このような些細なやり取りにさえ慌てたランの側近が、堪らず前に出て警戒したのだが、「邪魔臭えよ」とランに一喝され、側近達は更に後退させられた。溜息一つで仕切り直したランは続ける。

「ヴェラッシェンド帝国刑事法罰条第130号“建造物侵入罪”容疑。それ以外にもテメエを裁く罰条なら腐るほどある。一個一個償う覚悟は出来てるんだろうな?」

陽が落ち、月にも群雲がかかり、森の照度が下がる。間も無く、気の利いた側近の一人がマジックランタンを召喚し、光魔法分子の淡い光がポツリポツリと森に灯った。

「勿論だ」

ランの言わんとしている事を理解した凍馬は、穏やかに口元を緩めた。「覚悟した」というよりは、「観念した」というくらいの力の抜け具合で微笑んだのだ。

 しかし、この件については何も知らされていなかったイェルドは一層動揺した。

 というのも、凍馬の逮捕命令の根拠となった罰条は“建造物侵入罪”のみであったと認識していたからだ。これだけなら彼の極刑は免れただろうが、凍馬がペリシアやソドムで生きる為に犯していた罪が問われることになれば、彼に課される刑罰は極刑に値するものばかりである。

「ちょっと待ってください! 建造物侵入罪以外の容疑ではヴェラッシェンドに裁判管轄はありませんよ?」

イェルドはこのように進言し、主君の意図を確認したかったのだが、主君は不敵に口角を上げただけである。

「面倒だろ? 纏めてやるよ」

ランは淡々と凍馬に極刑罰条を告げた。彼女は本気でヴェラッシェンド帝国で凍馬を極刑に処するつもりであるようだ。

「有罪に係る事実関係は“全て同意”で良いな?」

聊か乱暴だが、ランによる審理はさっさと終わろうとしている。それにしても、こういう時、つくづく「ツェイユ」という人物は必要以上に受身である。今回も彼はさながら受諾した。

 ランは以上を刑務局の官吏に簡易報告し、凍馬を逮捕した旨を自国へ連絡するよう促した。イェルドは気を揉みながらそのやり取りを見守る。

「(ムシが良いのは解っているけれど……)」

それでも、せめてひと時でも、兄は平穏に生きていくワケには行かないのだろうか――マジックランタンの優しい光がイェルドの頬の傍を照らす。少しだけ熱を放つその光が、冬口の風に晒された冷たい体にはほんのり温かく、まるで慰めてくれているようでもある。

 幾らかの覚悟を持って、イェルドは主君から言い渡された兄への極刑宣告を聞いていた。やりきれなさに耐え切れず、イェルドは顔を伏せる。やおら、「ゴメンな」と、穏やかな兄の声が聞こえてきた。

「ゴメンな。こんな思いさせて」

それでも、凍馬としては何の悔いも無かったのだ――この広い広い世界に、せめて帰る場所があった事を確認することが出来たから。


 その途中だが、ランが一層声を張り上げた。

「良いかトーマ、一度しか言わないぞ」

という前置きがあったので、何事かと思った凍馬は、怪訝な表情を彼女に向けてしまった。しかし、彼女は確かな救済の言葉を口にしたのだ。


「……同日、ラン・クオリス・ヴェラッシェンド魔王即位により、特赦!」


直ちに、凍馬に下された有罪の言い渡しが撤回された。ランはこれもさっさと側近に報告し、自国への連絡を促した。

「え……?!」

凍馬とイェルドは顔を見合わせた。“伝説の盗賊”・凍馬が無罪放免となった大事件が粛々と執り行われている事を見るにつけ、これはヴェラッシェンド本国で予め決定されていたことらしい。

「何だよ。もうちょっと祝福しやがれ」

ランはニンマリ笑って、称号・魔王(サタン)の印を刻印してある紙切れを、唖然としている双子達の目の前でヒラヒラさせてみた。


 ランがヴェラッシェンド帝国皇帝に正式に即位した。

 これは、単に一大国の皇位の変更に留まらず、闇の民の首長が魔王(サタン)の血統者に引き継がれた事も同時に意味していた。

 堪らず、凍馬が声をあげて笑う。

「お前が魔王だァ? 世の中酒浸しにする気か?」

まるで待ち構えていたかのように、ランは面白く無さそうにむくれて見せた。

「うるせえ。世襲制を舐めるなよ、コラ」

兄とランのふざけたやり取りがやたら懐かしく、イェルドは徐々に白熱する二人を制するのを、つい、忘れてしまいそうになる。

「あの、……」

と刑務局官吏が聖戦士長・イェルドにこっそり声をかけた。

「今、形式的な手続きをきちんと踏んでいるとは言い難い処理をなさっておられますので、後日にでも、不備の補完はお願いいたしますね?」

やっぱりそうか、と官吏に苦笑いを返しておいたイェルドは全てを察した。

多分、彼女は相当に戸惑いながら魔王(サタン)を受け容れた筈だ。彼女とは決して短くはない付き合いのイェルドには、よく分かるのだ。

「ありがとうございます。本当に……」

まるで時を惜しむかのように凍馬と口論しているランに水を差さぬよう、イェルドは頭を下げた。


 ――今、雲が晴れた。再び森を照らし始めた美しい月は、決して独りで光を放つことは出来ないという。

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