第25話 第一次臨戦アラカルト
(1)
「いよいよ、ね」などと呟いて、ハルナはビルフォードの傍らに控えた。
子供達の声も無く、ガランとした殺風景なリビングルームには明かりも灯されていない。明後日にも逮捕されるという自分の夫が、有事に備えた膨大な事務処理もそこそこに姿を暗ましているのだから、当然と言えば当然だ。ハルナも人目を避けるように、今、屋敷に戻ったところだった。
「戻ってきて早々に悪いが、お前には特命がある」
ビルフォードは制服の上着から、一通の書簡をハルナに手渡した。
「国際連合安全保障代表会議宛て?」
「ああ」
ビルフォードは内容を詳らかに言う事はしなかったが、大体の内容はハルナにも分かる。
一つは、レッドキャッスル帝国は皇帝や議会の権力を大きく超えた何者かが実質的に支配しているので、近日中に行われるであろう宣戦布告については、その成立過程に重大な瑕疵(かし)があるものであり、無効であるということ。
そして、(これは最も重要な旨だが)この問題は国際紛争で解決すべきものではなく、国内での自己解決を待って欲しいという旨。
後はこれからの指針について2,3触れてあるというところだろう。
勿論、この手の事が書いてありそうな書簡は、有事体制という名の下、全て検閲に掛かってしまう。従って、
「一刻も早くこの国から脱出し、この手紙を投函して欲しい」
エリオとの戦いの如何はともかくとも、せめて、世界大戦という結末だけは避けたい意図があるのだとハルナにも解かる。ただ、夫と共にエリオという得体の知れない強大な敵に立ち向かいたかった彼女にしてみれば、複雑な特命である。
それを知ってか、ビルフォードは話を続けた。
「できれば、“灯台組”の連中も一緒に、海外に亡命させてやってくれ」
“灯台組”とは、ビルフォード元帥と共にこの帝国の行く末を案じ、秘密裏に灯台に結集していた非合法組織の事である。
「サンタバーレに行けばアリエス王子が良くしてくれるだろう。あの人数でサルラ山脈を超えるのは難しいだろうが、南方の連合国シャーレンやトゥザナバーレを経由すれば上手くいく筈だ」
ビルフォードは的確にこれからの事を指示していく。ハルナは元帥副官として彼の指示を理解する。
「何か、質問は無いか?」
そう問いはしたが、帝国元帥は傍らの副官ではなく、赤く暮れなずむ空と暗黒の砂防林を映す窓の向こう側を見つめていた。
「一つだけ」
ハルナは元帥と同じように窓の外に視線を投げた。
「……勝てるの?」
波の音が聞こえてくる。いつもなら、質問を寄せれば必ず返してくれるこの上官が、この日に限って沈黙している。いや、むしろこの沈黙が大まかな回答をしてくれていた。ハルナはもうそれ以上問うことはしない。その代わり、
「私達のことは、心配しないで」
彼女は徐にソファーから立ち上がると、元帥の前に立った。
「貴方は、敵を帝国から叩き出す事だけ考えてれば良いから」
ビルフォードは口元を緩めて、一つ、頷いた。
「――それで良いんだよ」
ハルナは書簡を懐にしまう。臙脂(えんじ)という色の制服は目立つが、脱ぐ気にはならなかった。これから彼女は、元帥副官として先頭に立ち、謀反兵57名を亡命させなければならない。
せわしなくリビングに響く妻の軍靴の音が胸に突き刺さり、痛む。彼女が自分の腹心でさえなければ、このような超危険任務を任せなくて済んだのかも知れない。だから、とてもではないが、エリオとの戦いに付いて来いと、彼は言えなかった。
(2)
戻って来た凍馬にも、明日夕にサルラに赴く旨が伝えられた。
「いよいよか」
ランは剣を研ぎながら呟いた。久しぶりの実践となるランは、戦慄に怯むというよりは、戦いの前の高揚感に胸躍らせているようだ。
「ちょっとランちゃん、遊びじゃないのよ?」
イオナは大きく溜息をついた。攻撃呪文を使えない今の彼女は、これから戦いに赴く4人の足手まといになる可能性が高い。だからといって、今すぐにでも攻撃呪文の封印を解くというわけにはいかない――というよりは、今、簡単に解除できるくらいなら、始めから封印など施していなかったという方が正しい。
「ったく。頼もしい姫様で良かったな、ヴェラッシェンドは」
凍馬は寝るに寝付けず、ベッドの上である。酔いに任せて目まぐるしく回るのは……
アユミの正体を知らずに戦いに赴くラン。
攻撃呪文を封じたイオナ。
先日の戦いの疲れがまだ癒えないイェルド。
闇の民と戦った経験の無いビルフォード。
何の情報も無いポープという少年。
事実上無条件で敵国の第一皇女を解放したネハネ。
アユミの実兄であり、“スペルマスター”であるというエリオ。
そして、今尚不可解な動きをし続けるアユミ――
「兄さんも、深酒は止めてください!」
酒瓶一本を空けようとする兄を、イェルドは制しに掛かる。彼は最近気付いたのだが、凍馬は酒の力を借りて強引に眠りに入る時がある。決まって次の朝は二日酔いに陥っているのを、イェルドは心配していた。凍馬は渋々ボトルを床に置く。
「せめて、もう少し時間があれば……」
イェルドは、動くとまだ痛みの走る四肢を折り曲げ、凍馬のベッドの端に座り込んだ。
「アンタにしちゃあ、随分弱気だね?」
剣を研ぐランが、不思議そうにイェルドを見た。
「しっかりしてよね、双子の勇者サマ」
“勇者”――ランからそう呼ばれるまで、イェルドも凍馬も、自分達が“高貴なる双子(ケツァルコアトル)”であるということを完全に忘却してしまっていた。どうやら、ランの余裕はそこに由来しているようだ。双子達は互いに顔を見合わせてしまっていた。
「そういや、そうだったな」
凍馬は起き上がって、自分の左腕に光る“銀のブレスレット”をしげしげと眺めてみた。
「勝算があるとすれば、そこでしょうか」
イェルドも兄の“銀のブレスレット”を見つめた。“ケツァルコアトル”としてのチカラを引き出すツールは、これしか無い。いや、「これしか知らない」と言った方が正しい。
「(それとも、また明護神使様のチカラをお貸し頂くことになるのだろうか?)」
以前、副脳の解除を行った時に垣間見た明護神使の残像が、イェルドの脳裏に焼き付いていた。あの時のように、彼に“大丈夫”と言ってもらえたら、どんなに心強いだろう、と彼は思う。しかし、今のところそのような予兆は全く無い。
「戻りましょうか、ランちゃん」
それぞれ思案し始めた双子達を見て、イオナが笑った。
「明日は長いわ。今は休養が必要よ」
有明の月が昇り始めた頃合だった。
(3)
部屋に戻ったランとイオナはそれぞれベッドに座り込んだ。丁度24時間先の未来が、今は全く予想できない。当然の事だが、このように部屋で語らっているわけは無く、敵国ペリシアの工作員達との戦闘が待っている。互いに大義名分を持つ“殺し合い”である。
先刻、ランは“勇者”と言う言葉を使った。しかし、これは全人類を戦争から解放するという、かつての“高貴なる双子(ケツァルコアトル)”のような崇高なる葛藤ではない。冷戦下にある闇の民の大国二つが、互いの国策に則って仕掛けた抗争の一つでしかない。
かつての『勇者』達は悲しんでいるだろう。これは、相克に挑み、止揚を目指す『勇者』の戦いではない――同種同士の血で血を洗う「戦争」であり、“ケツァルコアトル”達の理想としていた世界から大きくかけ離れたものである。
元々ペリシアの民であったイオナは、自分達がこの人間界を守るために得ようとしている勝利が、ヴェラッシェンドという一帝国の戦利にも見え、正直、心が痛む。明日の戦いは、残念ながら、ランの信じているようなヒロイックファンタジーでは済まされない結末となるだろう。
「ねえ、イオ、」
ベッドに寝転んでいたランが、取り留めの無い考え事をしていたイオナに話しかけた。
「アンタ、明日どうするの?」
それは、暗に攻撃呪文の封印の解除の有無を問うているのだ。
「そうね……」
イオナはそう言ったきり、そのまま再びぼんやりと窓の向こうを眺めていた。
そろそろ月が窓の左の枠から顔を出しそうだ。月が怖いと言うこの幼い姫も、やがて国民の利益の為に、議会の下した宣戦布告を承諾する日が来るのだろう。ただ、その時は“かの神父”が、命を懸けて彼女を守るには違いない。
「ランちゃんが解除しろというんなら、やぶさかではなくってよ?」
今、笑って言えているかもよく分からない冗談を言い捨てながら、イオナは明日身につける装身具の吟味を始めた。
「そんな事は勝手に手前で決めやがれ」
イオナに攻撃呪文を使用させた場合、彼女の能力(スキル)の特性上、“非常に厄介なスキル”まで目覚めてしまうのだ。それは、特に亡命直後の疲弊したイオナの心身状態では生命の維持すら支障を来たしてしまいかねないものだった。故に、ランは彼女に攻撃呪文の封印を命じたのだ。大分前の話に過ぎて、ランもあまり詳細に覚えてはいないのだが、経緯としては上記の通りである。
「アンタが戦わなくても、誰も責めたりはしないよ。でもさ、」
青白い天井を見つめたままのランが話を続けていたので、イオナは慌てて追憶を止め、声に耳を傾けた。
「アンタが一番、辛いんじゃないか?」
イオナがランの良き理解者であるのと同様、ランもまたイオナの「唯一の」理解者である。それだけに、この土壇場で攻撃呪文が使えないという彼女の心情を慮らずにはいられなかったのだ。
「アラ、何だか今日はランちゃん優しいのね?」
イオナは、しかし、ランをそう茶化すと、まるで何事も無かったようにベッドを離れて、何やら思い出したように湯を沸かし始めた。凍馬が何処ぞの食堂から“拝借”してきた(!)セルフサービス用の紅茶を淹れるのだ。それは最近のイオナの寝る前の儀式と化している。
「ランちゃんもいかが?」
「アタシは要らない」
砂糖やミルクを入れずにお茶を飲めないランは、何となく馬鹿にされたような気がして、ムッとした表情をそっぽに向けた。
「ヤダァ、馬鹿にしてるんじゃ無いわよ」
イオナはランと並んでベッドに座った。お茶の香が優しくて、ランは、視線だけをイオナに移す。
「実はこの数日、……何度か攻撃呪文の解除を試みていたの」
彼女はそう白状すると、慌ててこちらに顔を向けたランに微笑を返した。
「ダメ、だった」
紅茶が少し冷めた頃合、ポツリとそう漏らしたイオナは、2口3口を一気に飲んで、そっとランのベッドから離れた。月が窓枠に入らないうちに、カーテンを閉めるのだ。
「イオ、」
ローズピンクの無地のカーテンを引く音が鳴り止むのを待って、ランは続けた。
「なんっつーか、その……”アリガトウ”と”お疲れ様”と”無理するな”、っていうのを一言で伝えたいんだけど、何て言っていいか判んない」
とにかく今の彼女を肯定してやりたくて、ランもよく考えぬまま口走ってしまったのだが、
「ランちゃんは、大儀である、とでも言ってくれれば良いわ」
ランの気持ちが素直に嬉しく、イオナはランを、亜麻色の長い髪ごと抱きしめた。
「私ももう少し、勇気が欲しい」
イオナは、ペリシア帝国で授かった地位も、財産も、親兄弟親戚も、自分の本名さえも、棄ててきてしまった。下手に要職にあったせいで、ペリシア帝国からかけられていたマインドコントロールに未だに苦しめられている。
「とにかく、明日はアタシも行くわ。ヒール(回復呪文)と雑用ぐらいなら役立てそうだから」
「そ、か」
ランは、少し考えて、こう伝えた。
「……大儀である」
(4)
ビルフォードが明後日逮捕されるという情報は、アユミの情報を100パーセント信頼したものだ。アユミとの戦いの報告を含めて、実は先刻、凍馬は皆と遅れて、一人、ビルフォードを訪ねていた。
“信じてやれば良い”
やるべきことは、何一つ変わらないから――と、ビルフォードは言ってくれた。
「そう言えば、先刻、アユミに会いましたよ」
ふと、イェルドが切り出した話に、酔いの頭痛も忘れて凍馬は跳ね起きてしまった。
「“兄さんにヨロシク”と、言っていました」
「そう、か」
イェルドがアユミにハチ会ったとしたなら、自分と会った直後だろう――それを伝えるかどうか、凍馬は暫く迷っていた。
「アユミは、一体これからどうするつもりなのでしょう?」
もう一度、アユミが敵として自分達の前に現れるかもしれない。ただ、もう敵として対峙したくは無いと言うのがイェルドの本音である。しかしそれでは、アユミはエリオのところに居づらくなってしまうだろう。
つまるところ、イェルドも凍馬と同じ心配をしていた。
「一応、ペリシアに帰れとは言っておいた」
結局、凍馬は、今日アユミと会っていた事をイェルドに伝える事にした。
「オレ達に情報提供した以上、エリオのところには帰り難くなっている筈だ」
――幾ら、エリオとは実の兄弟だとはいえ、肝心のアユミにはその礎となるべき記憶が全く無いのだから。
それとは別に、イェルドにはずっと引っかかっている事があった。
突然現れ、擦れ違いざま声をかけ、そのまま宵闇に紛れて立ち去ろうとした大きな帽子の青年を、イェルドは辛うじて引き止めることができた。
“一つだけ、分からない事があるんです”
イェルドは、敵である彼に、直接それを尋ねた。
“何故、姫を無事に渡してくださったんですか?”
先日のあの戦いをどう振り返っても、未だにどうしても見えてこないものがあったのだ。誘拐目的は、人質目的か、抹殺目的か、そのどちらかだろうと思われていたが、結局はどちらにしても、アユミは無防備・無抵抗・無警戒のランを、懐柔することも抹殺することもしなかった(勿論、ランに副脳が取り付けられていない事は確認済みである)。ネハネなどは、わざわざランを引渡しに来たようなものだった。
“大事な『お姫サマ』を無事に返されたことを、素直に喜びなよ”
アユミはそうとしか言わなかったが、ネハネがワンド(死霊)とランを伴ってやって来た時の彼の動揺を慮れば、一つの「仮説」が見えてくる。即ち、少なくともアユミは、ランを殺すことも懐柔することもできなかったのではないか。
“――やっぱ、アンタだけはちゃんと殺っとくんだった”
ともかく、舌打ちしたアユミは、つんとイェルドに背を向けると、そのまま水無川の方へ滑り降りて行ってしまった。
「アユミはもう、ランさんには会わないつもりなんでしょうか?」
「え? ランがどうしたって?」
経緯を全く知らない凍馬は、突然出てきたランの名に首を傾げるのが精一杯だった。
「いえ、忘れてください」
大いなる戦いの前にはあまりにも些細な悩みだと、イェルドも自分に言い聞かせた。
(5)
決戦当日を迎えた。
待ち合わせは夕刻であったが、気も漫ろな4人は正午にはビルフォードの屋敷に向かっていた。
アユミの情報によると、彼の逮捕は明日の朝(一般の司法官憲が働き出す前であると思われる)。恐らく今日のうちに、或いはもっと前から、ビルフォードがサンタバーレと繋がっているというような事が囁かれていたのだろうが、彼は何事も無かったように、今日もカッカディーナにあるレッドキャッスル帝国軍本部で自分の仕事を処理し、何事も無かったように、しかし、夕刻前には屋敷へと戻ってきた。
そこで初めて、4人はハルナを含めた同志の兵達が亡命したことを知らされた。
「長期戦も覚悟の上、か」
イェルドはまだ疲れの残る両腕を組むと、彼の体調を気遣って心配そうに声をかけてきたイオナに“大丈夫”と返事を返した。
「そんなに時間かかるかなァ?」
首を傾げたランに、
「そういう想像もしておこう、という事だ」
先行きを不安にさせないようにする為に、ビルフォードはあえてそのような説明を選んだ。
一月強という時間ではあるが、ビルフォードはこの4人の“人となり”を掴んでいた。
このランという一帝国の第一皇女は、その地位とは裏腹に、明るく爽やかな気取らない性格で、4人の中でもムードメーカーの役割を担っている。戦いの前に不安を煽り、彼女を弱気にさせてしまうと、
チームリーダーはイェルドが担っているようだ。その内心には、実践合理性(いわゆる「模範的神父」のような宗教臭さなど微塵も感じさせないもの)に裏打ちされた論理から導かれる一応の正義感を秘めているが、何しろ一貫してクールである。
イェルドを助ける参謀役はイオナであろう。彼女も一見すれば、単なるルンルンの小娘にしか見えないが、その口からは他人の色恋沙汰から小難しい官房学まで飛び出してくるから恐ろしい。
この3人が絶妙なまでに明確な役割分担が成され、それぞれが独自のカラーを発揮させていると言えるならば、凍馬は、この3人のバランスを見事に調整しながら、“内助の功”に徹している。総合的な戦力では彼が最も4人の中で優れているだけに、いざ戦闘となれば、面倒見の良い彼が一躍司令塔となるだろう。
「連中のアジトなら、もう目星は付いてる」
早速、凍馬が戦いの指針を打ち出し始めた。これは彼の義弟であり、敵の一味であった者からの情報である。信憑性はともかく、闇雲に歩くよりはだいぶマシであろう。
ビルフォードは、異世界からやって来た4人の闇の民に、遍く一切の運命を委ねた。
「さあ、行こうか」
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