第24話 うつせみ
(1)
ビルフォードの屋敷には、寮で仮眠をとる凍馬を除く3人が集まった。
姿をくらませたアユミを探しているのか、有用な情報を探しているのかはともかく、凍馬はビルフォードの逮捕期日の情報を掴み、つい先程、どこぞから慌てて帰ってきたのだ。もっとも、寮に帰ってくるなり、彼は眠りに就いてしまったが。
「アタシの風邪が、ヤツに伝染っちまったんかな?」
事情を知らないランは、凍馬が起きて来ないのをそのように解釈しているようだ。彼女は申し訳なさそうに、イェルドに尋ねてきた。
「大丈夫。何処ぞの女性と派手に遊んできたのでしょう」
イェルドはそう言い訳をして、ランを安心させることにした。
「(……いつぞやの仕返しかしら?)」
イェルドの苦し目の言い訳に、イオナはほくそ笑んでいたという。
周りの者達の「優しさ」により、ランは結局、アユミについて何も知らないまま、エリオとの最終決戦を迎える事になってしまった。
「決戦は、明日明け方だ」
ビルフォードが決断を下した。
「明日の夕までには、再び此処に集まっていろ」
ビルフォードの手元に、この一週間のロイヤルガードのシフト表が届いていた。エリオは、当日早朝から昼過ぎまでの勤務である。不意を狙うなら、明日の夜半頃が適当だろう。
「(急だな)」
イェルドは思わず唸る。正直、彼はアユミとの戦いで受けたダメージが回復し切れていない。敵に先手を打たれたようで、イェルドとしては悔しかったが、今更それを嘆いていても仕方が無いと割り切るしかなかった。
「せめてじっくり休養してくれ」
経費に、とビルフォードがキャッシュカードをランに手渡した。
(2)
安眠できないクセが染み付いている凍馬は、換気の為に開け放たれた窓から流れてくる穏やかな森の風の音で目を覚ました。
“ビルフォードは、2日後に逮捕されるよ。教えに行ってあげたら?”
アユミを探しに入ったサルラの森で聞いた声――内容が内容だったため、凍馬はその声の主を探し当てることはあえてしなかったが、例えば声の主がアユミだったとして、その情報が本当だったとして、彼があえて漏洩したのならば、アユミは実弟であるエリオに背を向けることになる。
「(是か、それとも非か?)」
それにしても、何と運命は皮肉なものだろうかと凍馬だって思う。まさか、アユミが永年捜し求めていた彼の実兄が、エリオだったなんて。
「(イェルドじゃなくても、神サマ恨むよなぁ)」
丁度、夏の虫が鳴き始めた。やや強い陽がさし、部屋が温い。
どうにも寝苦しく、寝返りを打った凍馬の顔を、いつの間にかこの部屋にやって来ていた男に、じっと覗き込まれたのだ。
「は!?」
思わず、凍馬は飛び起きた。此処に侵入者があったからではない。ここにやって来た侵入者の顔を見て、驚いたのだ。
「
見慣れた義弟の、左頬の大きな泣黒子を凍馬が見間違える筈が無かった。ともすれば、ランやイェルドと出くわす可能性があるこの寮のこの部屋に、平然とアユミはやって来たのだ。
「物騒な家だね、窓開けっ放しで。あーあ! 酒の空き瓶なんてそのまんま!」
凍馬の不摂生を説教しながら、アユミは落ち着かなさそうに部屋を見回す。
「こういう雑然とした部屋が、ドロボーに入られたりするんだって知んないの?」
「てか、此処の住人がドロボーだったりするんだが?」
凍馬は起き上がる前に、丁寧に突っ込みを返しておいた。
やや伸ばした前髪が鬱陶しく、凍馬はいつものバンダナを探す――いや、そういえば、この義弟との戦いの際に捨ててきたんだったと、やり場のない右手で前髪を耳にかけた。もうバンダナを巻いていない自分の頭を掻いて、頼みもしないのに勝手に酒瓶を台所へと運んでくれるアユミの後ろ姿を目で追っていた。
「腹減ってねえか?」
とにかく、此処からアユミを遠ざける必要があると思った凍馬は、とりあえず食堂に誘い出すことにした。寝起きの瞼を擦りながら、何とかベッドから這い上がる。
「お兄ィ、」
今まで凍馬の眠っていたベッドの隅に落ち着いたアユミが、漸く作動し始めた凍馬に呼びかけた。
「勿論、おごってくれるんだよね?」
――見つめ合う凍馬とアユミ。
「……分かったよ」
どうやら凍馬は負けたらしい。
「悪いねー」
などとは微塵も思っちゃいないが、勝手に口から出てくるので引っ込める必要は無いだろう、とアユミは思っている。
(3)
今日は早めに仕事を切り上げて帰ってきたエリオに、ネハネは、先程アユミから貰ったペンダントを渡した。
「……。」
エリオはそのペンダントを眺めたまま、暫く佇んでいた。
「このペンダントを私に譲る、と彼は言いました」
「ほう」
ネハネの言葉に、2,3、頷いて見せたエリオはゆっくりと顔を上げ、やっとこのように切り出した。
「これはなかなか良い品だ。ネハネ、良い物を貰ったじゃないか――」
「そんなことを聞きに来たのではありません!」
思わず、ネハネはエリオのデスクを強く叩いてしまった。非礼を詫び、彼が苦笑を返して着席するタイミングを見計らって、彼女は話を続けた。
「もう、とぼけなくても結構です」
エリオの顔がうつむいてしまったようだが、ネハネは続けた。
「エリオ様もこれと同じものをお持ちの筈です。だからこそ、あの“アユミ”という男が、死亡と看做されていたジュリオ様だと断定することができた……そうですね?」
ネハネの話を聞いていたエリオが、懐から赤い石のペンダントを取り出した。それは彼女の指摘通り、確かにアユミのものと同じ見目かたちをしていた。
「“何が真実なのか”は、もう意味の無いことだ」
それなのに、エリオの口からは、前にも聞いたような言葉が出てきたのだった。
「アユミがジュリオであろうと無かろうと、彼は、オレが此処にいる目的を理解し、その実現の為に共に戦おうと手を尽くしてくれた同胞だ。彼にそれ以上は何も望んでいないし、彼がそれ以上である必要も無い」
エリオはやおら席を立つと、一度、元居た世界へと続く穴の様子をモニターで確認した。そこには、ポープという幼い竜が居る。彼の呪詛によって、穴の大きさは、今、辛うじて拡大を継続している。
例の闇の民4人が光の民の世界に来たという時くらいから、穴を塞ごうとする力が強く働き始め、漸進的にそれは強まりつつある。その為、ポープは、穴を離れられない孤独な状況が続いている。しかしここのところ、エリオは、独り戦い続ける幼いポープに、ろくに声をかけてやってもいなかった。
「一体、何がそんなに不安なのです?」
ネハネはクーラーボックスから罨法布を取り、再びデスクに着いたエリオに渡した。
「不安?」
そう聞き返してしまったのは、図星だったからなのかも知れない――エリオは、冷たい薬液が浸る浴布で疲れた顔を隠すように拭った。
「事実の真偽を問いに来たアユミを、寝ぼけたフリして追い払いましたね?」
それはネハネの想像に過ぎなかったが、エリオは否定しなかった。いや、否定したかったのだろうが、ネハネに罨法布を準備されるほど目にクマがくっきりと付いていては、言い訳にもならないと、エリオは判断したようだ。上官からは何の異論も反論も無かったので、ネハネはそのまま続けた。
「エリオ様、私は、」
――アユミに、確かな居場所があれば良いと思ったのだ。“アユミ”の正体は、エリオの実弟“ジュリオ”だと、アユミ自身に知ってもらいたかったのである。どんなに悩んでも、どんなに傷付いても、確固たる真実に裏打ちされた帰るべき場所がちゃんとあるのだと……
「だからこそ、エリオ様からも、きちんと真実を告げて欲しいのです」
暫くの間、緩やかに沈黙が続いていた。
後天性の近眼(なのに意地を張って眼鏡を掛けたがらない)と睡眠不足の所為で目が疲れているのだろう、エリオは冷たいタオルを目元に乗せたまま、その沈黙の間中ずっと天井を見上げていた。
2日後には、レッドキャッスル帝国元帥ビルフォードを刑事訴追するという大イベントを控えているのだ。当然、やらなければならないことは沢山ある。ペリシア帝国本部から、光の民の世界の工作員を増やす予定は当分無いと言われたばかりだ。そもそも本国当局を当てにしてはいなかったが、正直、皆疲れている。
「エリオ様、雑務は私が承りますので、今日はもう、お休みになってはいかがです?」
思いついたようにそう言ったネハネの言葉に、エリオは素直に甘えることにした。
「“不安”というのかどうかは微妙なところだが、」
エリオをベッドまで見送り、退室しようとしたネハネは、シーツに深く沈んだ奥の奥から聞こえてきた声に呼び止められた。ネハネは、シーツ越しにエリオの背中を見つめる。
「アユミにとって、“兄”とはオレではなく、むしろ凍馬のことだろう」
“思い出なんて頼りないもの”――何時だったか、アユミからもそう言われた事がある。それが失くした思い出ならば、なおさら。
「オレは、どうしていつも、あの子を追い詰めてしまうんだろうな」
ビルフォードを逮捕すれば、4人の闇の民達も黙ってはいないだろう。近日中に、“戦争”は起こる。勿論、アユミが“兄”と慕う凍馬だって、抹殺の対象者だ。
「天罰というヤツか」
エリオの笑い声がシーツの奥から微かに聞こえてきた。
「――貴方のお力になりたくて、私も神に背きました」
ネハネはそっとベッドから離れた。
「何なりとお申し付け下さい」
私は何時でも此処に居りますので――ネハネは、エリオのデスクの資料を処理する為に、隣の部屋へと引き返した。
「……アリガトウ」
何時にも増して熱い溜息を吐いたエリオは、その表情を隠すように扉に背を向け、努めて眠りに入った。
聞こえなくて良い、とさえ思わなければ、伝わる思いも幾つかあるだろう。
届かなくて良い、とさえ思わなければ、伝わる想いも幾つかあるだろう。
(4)
傭兵学校の裏庭は針葉樹の目立つ雑木林となっている。少し歩けば小高い丘になっていることを、凍馬もアユミも知っていた。そこは、2人が出会った北方大陸の無国籍区域(通称・修羅の森)を思い出させてくれる場所だったからだ。
「これ、返す」
アユミが凍馬に突き出したのは、アユミとの戦いで一度凍馬が捨てた紺色のバンダナである。まさか戻ってくるとは思わなかった凍馬は、小さく驚いたまま、手を差し出すのも忘れてしまっていた。見兼ねたアユミがせっかちに切り出す。
「そう簡単に、かなぐり捨ててもらっちゃあ困るんだよね。お兄ィだけの『凍馬』じゃないんだからさ」
それはアユミの本音だった。
事実、北方大陸で『凍馬』は、単なる盗賊では済まされないくらい英雄化してしまっている。それに、凍馬とアユミの育ての親であり、師であるのもまた、『凍馬』なのだから、尚更。
「捨てたわけじゃねえよ」
紺色のバンダナとは、正に『凍馬』の象徴である。そんなものを放り投げたのだから、捨てたと言われても仕方が無いのだが、それ以上深く考え込めずに、凍馬は何とか手を伸ばした。
――重たい。
凍馬は渡されたバンダナをそのまま巻くと、アユミと同じように、崖下から雑木林へと視線を投げた。
いつの間にか蝉が鳴く季節になっている。二人の立っている丘にそびえる木々の許にも、空蝉が転がっていた。
「あのさ、」
ふと、アユミが声をかけた。
「――エリオさんと、戦うの?」
その問いかけに、凍馬は首を傾げて見せただけだった。
「エリオさんは強いよ。こないだみたいな戦い方じゃ、間違いなく全員死ぬ」
「こないだの戦いがオレ達の実力ってワケじゃない」
そう凍馬は反論したが、アユミは首を横に振った。
「ミラクル甘いね」
しゃあしゃあと蝉の鳴く声が聞こえてきた。今日とも知れぬ命だ、とわざわざ訴えているのだろうか、ともかく、アユミは続けた。
「勝てっこないさ。エリオさんは、不完全だって言うけど、“スペルマスター”なんだ」
「スペルマスター? 何だそれ新しい銘柄の酒か?」
怪訝そうな凍馬に、アユミは不敵な笑みを返した。
「エリオさんは、世界最強だってコト」
アユミは凍馬から顔を背け、崖の方に進み出た。そういえば、アユミはかつて自分が落ちた崖の手前にもよくこのように立っていた。崖から落ちる前に何が起こったのか――それを思い出そうとしているのだろう。しかし凍馬は、アユミがこのまま崖から飛び降りてしまうのではないかという不安に駆られ、いつも自分勝手に緊張してしまうのだった。
「こんな高いトコから落ちたのに、」
アユミの力の無い声が向かい風に乗って凍馬の耳に届く。
「……何でオレ生きてるんだろ?」
ポツリとそう漏らしたアユミがやっと足を止めてくれたので、凍馬もほっと溜息を吐いて、話題を切り替えた。
「エリオは、何か言ってきたか?」
任務に失敗したアユミを、エリオが処罰するかも知れない――凍馬は、それが気がかりだったのだ。
「何にも」
しかし、凍馬の心配を裏切るかの如く、アユミの口からは鼻歌交じりで返事が返ってきた。
「エリオさん、お兄ィと違って、やさしーから」
「そりゃどうもスイマセンでした」
それはさておいても、アユミがエリオについて話せば話すほど、凍馬の中での“エリオ”という男の人物像は、どんどんぼやけてくる。問うて良いのか悪いのかは、皆目検討付かなかったが、凍馬は問わなければならない気がしたのだ。
「お前の“やさしー”兄貴サマは、一体どうして光の民の世界に戦争ふっかけたりしなきゃなんねえんだ?」
エリオという男がアユミの言うような一応の人格者ならば、わざわざこれまで平和を維持してきたという光の民に混沌を持ち込むことなどすまい、と凍馬は思ったのだ。
「お兄ィは敵だから教えてやんない」
アユミはべっと舌を出し、ツンと横を向いた。
「くっ……!」
少し見ぬうちに口先は達者になったようだ、と凍馬は一つ気が付いたが、不意にアユミの表情に陰りが表れたので、黙っていることにした。アユミが「でも、」と、口を開きかけたその時、丁度乾いた風が林の木々を揺らして消えた――仕事のクセで、2人とも、周辺に自分の身を狙う刺客がいないかどうかを探ってしまったので、可笑しくて笑えてきた。
「まぁ、オレが思うにさ、」
アユミはそう言い直して、溜息を吐いた。
「――オレがあの人を本気で止めてあげていれば、誰も傷付けずに済んでたのかも知れないな、なんて」
それは、確かにアユミの自戒の言葉であった。返すべき言葉を見つけられなかった凍馬に、アユミも気を遣ったのか、
「ま、オレもこの光の民の世界の行く末にはあんまり興味無いケドさ」
と、冷笑を覗かせた。それは自分にも少なからず当てはまることなので、凍馬はまたも返すべき言葉を失ってしまったのだが。
終業の鐘の音が聞こえる。そろそろこんな場所からでも傭兵学校のエントランスに集る人の波が確認できるだろう。
この世界が元居た世界と違う点は人口密度だ。何処を見ても人が居る。しかも、群れている。多様な価値観と価値観の凌ぎ合いと馴れ合いを繰り返し、魔法に頼らない文明世界を構築した彼等は、全く異なる生物であるという闇の民さえも「個性」と割り切って接してくれている。
しかし、その闇の民によって、世界大戦という混沌に陥ろうとしていると知ったら、どうだろう。
別れ際を察した凍馬が伝えたい言葉を探して出てきた台詞は、
「アリガトウな」
という他愛も無いものだった。丁度アユミも、崖の下から凍馬へと視線を移してくれた。
「イェルドのこと……手加減してくれて」
“イェルド”という名を聞いて、すぐにアユミは眉間に皺を寄せた。
「別に、手加減したくてした訳じゃないよ」
アユミは崖から離れ、迫り出した岩にべたんと座り込んだ。そこにもやはり空蝉が転がっていたのだが、アユミはそれをそっと捕まえると、手のひらに転がした。
「どうしてだろな……オレにも分かんない」
やっとそう呟いたアユミの手のひらの空蝉は、乾季の熱い風に乗って彼の手を滑り降りると、そのまま崖の向こうへと撒かれていった。
「でも、多分……」
――見たくなかったのだろう、義理の兄やランの悲しむ顔を。アユミは頬を掻いて、口をつぐんだ。「何だよ?」と一応凍馬は問うてみるも、案の定、「別に何も」と帰ってきたので、「あ、そ」と流して凍馬も口をつぐんだ。
暫く、二人は沈黙していた。お互いの立場の違いを象徴するようなその間は、なかなかもどかしい空気を孕んでいた。いや、二人にはよく分かっていたのかも知れない。このように穏やかに話せる機会など、もう二度と来ないということが。
「お兄ィ、オレ、」
その沈黙を破って先に切り出したのは、アユミの方だった。
「オレ、エリオさんのこと、まだ“兄さん”って呼べないや」
思い出せないのがもどかしいのだろう、アユミは悔しそうな表情を眼下に広がる林に投げていた。
「ダメなんだ……何を聞かされても、何を見ても――オレの頭は何にも思い出しちゃくれないんだ」
己にとって確かなものなど何も無いと、アユミは絶望しているようだった。少なくとも、凍馬にはそう見えてしまったのだ。
「ホントの兄さんが、エリオさんで良かった……それは確かなんだけどね」
彼が取り繕うように言ったその言葉さえも、悲鳴に聞こえた。
「アユミ、お前は、ペリシアに帰るんだ」
凍馬は思わず言ってしまったのだ。驚き戸惑った表情を、アユミは義兄に向けていた。
「もう一度向こうで会うことがあったら、……またシーフやらねえか?」
それは凍馬の今後にとっても重大な影響を及ぼす選択肢だったのに、不思議と、凍馬は何のためらいも無くそう言えたのだ。本気だったからなのか、或いはその逆だったからなのかは当人にすら分からなかった。
しかし、その打診を受けたアユミは、
「お兄ィ、エリオさんと同じコト言ってる」
としか言わずに、只々笑っていた。
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