第7話 月と嘘つき
(1)
その日はビルフォードの家に泊めてもらえる事となった。
与えられたのは、3階の大部屋二つ。どちらもキャンプができそうな程度はあろうかという広さだ。ビルフォードとハルナから、此処に一緒に住んでも良いと言われたが、幾ら何でもそれは迷惑だろうと、イェルドが借家の斡旋を依頼していた。
「広ェな」
これまで邸宅の中で食事をし、風呂に入り、睡眠を取れるということは稀だった凍馬は、大部屋の中で立ち尽くすことしかできない。とりあえず、窓の外に架かる中途半端な満月と向かい合うように座り込んだ。春が終わりを告げつつあるのだろう。窓を開けたままだったが、寒くは無い。
“距離を置こうとしているようだな”
ビルフォードとの別れ際に、そう囁かれたのを、凍馬はぼんやりと思い出していた。
「(そうかも知れないな)」
どんなに周りがこの世界の異常事態に慌しくなろうとも、この“ひかりのたみ”の世界が一体どういう世界なのかも、彼には何だか興味にはならなかったのだった。
「(何故、こうなった?)」
凍馬は壁にもたれ掛かり、身体を丸めた。
光――それは轟音を発して流れ落ちる川に透ける陽光のこと。
何万という数で押し寄せてきた追っ手から身を隠す為に、同胞に押し込められた洞窟は滝の裏側へと繋がっていた。
“チビ、”
盗賊である養父が自分を呼ぶ、掠れた弱弱しい声を忘れる事ができない――彼は血だらけでそこに転がっていた。
長い金髪、細く切れ上がった目、そして、紺色のバンダナの……
“凍馬サン!”
少年だった彼はすぐに養父に駆け寄った。傷、傷、傷――治そうにも何処をどうして良いのか分からないほどのそれが体じゅうを覆っていた。
“凍馬サン! 死んじゃダメだよ!”
あんなに悲しかったことは無い。少年だった彼は、泣き叫ぶことしかできなかったのだ。
“チッ、ガキがオレに命令するなよな”
プライドの高い男だった。今思えば、彼は誰の目にも死に様を晒したくは無かった筈だ。
“な、くだらねえ最期だろ、盗賊なんてよ”
そうして彼は、臨終に際してくれた義理の息子に告げたのだ。
“お前にゃちゃんと、ツェイユって名もあるし、南方のヴェラッシェンドには生き別れのイェルドとか言う弟もいる。オレがくたばった後は、こんな盗賊団抜けて、弟探して……普通に暮らすといい”
お前は幸せになってくれ――と告げて、「父」は逝ってしまったのだった。
凍馬はふと目を開ける。丁度、月が西の空に傾き始めたところだった。いつものクセで、安眠できない凍馬は、丸い月を目で追った。
「(オレは、“凍馬”として生きると決めた)」
ある日突然、不意を打たれてくたばった――親にさえ遺棄された自分を育ててくれた命の恩人である彼に、そんな最期は似合わない。
「(でも、)」
イェルドという男を一目見ておきたくてヴェラッシェンドに来たのも本当だし、イェルドも自分の事を捜していたと聞いて嬉しかったのも本当だ。
「(じゃあ、目的はほぼ果たしたじゃねえか)」
最早、此処にいてラン達と行動を共にする理由は無い。サルラ山脈に元居た世界へと続く空間の歪があるのならば、それを利用しない手は無い。現地に赴く、その時にでも――凍馬が目線を窓枠に移した時だった。
窓の桟の上に、黒髪の女の首!
「えーっと……」
頭を抱える凍馬を尻目に、“首”の持ち主はひらりと窓枠を飛び越え、
「イオナでしてよ」
と挨拶した。
(2)
イオナは凍馬の横に座り込むと「綺麗ね」と月を仰いだ。
「何か用か?」
彼女の黒髪のウェーヴが月桂に照らされてキラキラしている。凍馬ももう一度月を見上げたが、彼女から仄かに漂う化粧の香りの所為で落ち着けなかった。
やろうとしていることを悟られたくなくて、あまり誰とも関わり合いたくなかったのだが、彼女の考えている事があまりにも分からなかったので、凍馬の方から切り出すしかなくなっていたのだ。
「用? そうねェ、強いて言う程の事じゃなくてよ」
案の定、イオナは答えを出さなかった。
「オレはもう寝る」
子供の相手で疲れてしまった、と適当に言い訳をしつつ、凍馬は目を閉じ、顔を伏せた。そのままやり過ごせられれば一番良い。誰の戸惑う顔を見なくても済むのだから。
緩やかにまどろみを覚えた頃だろうか。目を閉じた暗黒の中で、ふと、女声を聞いた。
「貴方は此処に居なくちゃダメよ?」
凍馬は目を開け、声の主を見た。彼女はまだ月を眺めていた。
「眠るんじゃなくって?」
「……今、目が覚めたんだよ」
「アラ、そう」と、凍馬を一瞥したイオナが笑った。その余裕が羨ましい、と彼も少しは思っただろうか。
月は向かって7時の方角へ差し掛かった。打ち寄せる波の音に気が付いたのはその時が初めてだった。
「自由がどうのにこだわっていたのは、お前の方じゃねえのかよ?」
もう一度、凍馬は切り出した。そうだったかしら、とイオナは窓の外をずっと見つめている。凍馬は続けるしかなくなった。此処は自分の居るべき場所ではないのだ、と。
「お前だって、……ペリシアからの亡命者だろ?」
髪の色といい、“イオナ”という名といい、彼女にはその徴表がある。凍馬はイオナからの返事を待った。
「アタシは、」
イオナの口が開く。
「ヴェラッシェンドのお抱え。ランちゃんの教育係よ」
そういう事を聞いているんじゃない、と凍馬が言いそうになる前に、
「――ペリシアを出た後からはね」
彼女が先手を打って白状した。一方、追及してみたものの、何だか触れてはいけない事に触れた気がした凍馬は、それ以上彼女を問いただす事などできず、言葉を失ってしまった。
「ヤダぁ、貴方が傷つかなくても良いのよ」
しかし、当のイオナは全く堪えちゃいなかったどころか、むしろ待ち望んでいたかのように話し始めたのだった。
「だってペリシアって、アタシの性に合わないんですもの。何だか泥臭いし、汗臭いし、何かにつけてお金取られちゃうし」
その説明で納得できたので、あえて凍馬はイオナの話を聞き流して黙っていた。しかし、彼のその不意を狙って、突然、イオナが核をついてきたのだった。
「貴方はきっと……此処から消え去ろうとしているのかしら」
「は?」
イオナの言葉はあまりにも素直に喉笛を噛み付いてきたので、凍馬は戸惑ったままの表情を返してしまった。それでもやはり、彼女はニンマリと余裕の笑みを浮かべたまま、
「世界の異常事態より、先ずは自分の安全保障……ってトコロかしら?」
と、軽く挑発してきた。とはいえ、挑発に乗って熱くなれる気分でもなかった凍馬は、
「ま、そんなトコロだ」
と、この場さえも適当に受け流そうとした。此処にいる誰とも深く関わり合いたくは無いと思ったのだ。特に彼女には、何だか全てを見透かされそうな気がしていたから――
「アラ、貴方そんなにドライなヒトじゃなくってよ?」
少しだけイオナの声が高くなった。
「これもその隠喩(メタファー)なんじゃなくって?」
イオナは凍馬の紺色のバンダナに一度手を触れ、そっと離した。
少し強い風が吹いてきた。針葉樹の防砂林がザワザワと音を立てて波の音と共鳴した。彼はその女性の白い指から月へと視線を投げた。
今日からは欠けて行くしかない月は、それでも辛くは無いと言うのだろうか。
「自由ってのは、寂しい奴の言い訳みたいなもんだよな」
大きな心の拠り所だった養父・“凍馬”が死んだ時。盗賊団の義兄義姉達が死んだ時。何者にも替え難い存在だった彼等の悲運の死を受け容れられなくて、それでも何とか同化したくて、繋がっていたくて――彼は紺色のバンダナを手に取って呟いた。
「ドライなことでもやらなきゃ、シーフで飯は食えねえよ」
何千何万ものバウンティハンターを殺害し、何十億ゴールドという金品を巻き上げてきた。彼の首に懸かる金は最早国家予算規模である。
「じゃあ、貴方はシーフに向いてないのね」
彼女には、一体どこまで知られているのだろう。ともかく、言葉に追い詰められているような、救われているような、居心地の良さも気まずさも感じて、
「ハハ、精進しまーす」
などと、凍馬は笑うしかなくなった。しかし、
「泣いているわよ?」
ニヤリと笑ったイオナと、とっさに驚いた顔を向けた凍馬は目が合った。
「――貴方のココロが」
思わず目元を確認してしまっていた凍馬は、ゆっくりとその手を下ろす。
「風の噂で、」
凍馬は円には及ばない月を見上げた。
「オレ等の実の両親が死んだって聞いたんだ」
凍馬に合わせて、イオナも月を見上げた。
「そしたら、何だか無性にイェルドって奴に会ってみたくなったんだよ」
そしてその目的は果たした。
「(いや、……)」
正確には目的を「失くした」のだ。どちらにせよ、最早、此処に留まる意味は無い。
「そう」
イオナはやはり月を見上げたままだった。いや、硝子窓越しに映る凍馬を見つめていた。
「何だ? まだ居座る気か?」
「ええ」
「あ、そ」
オレは寝るからなと、凍馬は身体を丸めて、顔を伏せた。そろそろ眠らなければ、明日に差し支えがありそうだ。暫く目を閉じていた暗黒の中から、また女声を聞いた。
「アタシ、此処にしか居場所が無いの」
凍馬は目を開け、声の主を見た。彼女はまだ月を眺めていた。
「眠るんじゃなくって?」
「……今、目が覚めたんだよ」
「アラ、そう」
しかし、凍馬を一瞥もせずに月を眺めていたイオナの表情に、先程までの笑みは無かった。
凍馬は、もう一度目を閉じて横になった。
「……ツェイユ・グラディオ・マータ」
首を傾げたイオナを見もせずに、凍馬は続けた。
「本名教えろって、言ってたじゃねェか」
「そうだったわね」
口元を緩めたイオナを見もせずに、凍馬は続けた。
「でも、“トーマ”って呼んでくれ」
この名前、イェルドに会えたら忘れるつもりだった――そうとしか、彼は言わなかった。
(2)
「どうなるんだろうな、これから」
ランは溜息をついた。傍らには勿論、イェルドが控えている。
「まさか、光の民の世界に闇の民が侵入していたなんて……ウチのおじいが聞いたら絶対泣いてたな」
故・ヴァルザードを偲ぶ。彼は、自らをあの“開かずの間”に封印することで、光の民を守護していたという程、光と闇の秩序を尊んでいたと聞く。
しかし、何か思うところがあったのだろうか、ランが生まれて間も無く、ヴァルザードは自らその封を解き、それから彼が崩御するまで3年というごく短い時間を、『勇者』と共に見てきた世界を他人に伝える事に費やした。
世界を彩る炎・水・風・大地の4つの魔法属性を総称して『四大元素』と言うが、ヴェルザードが保持していた“炎”属性魔法分子を司る術者たる資格・“正式継承権”をまだ幼いランに贈与したのも、この頃だ。
「思えば、あの後すぐに、おじいが崩御したんだっけ」
そしてすぐに母も逝った――ランはふと、窓の外に掛かる月を睨み付けた。
「(もしかすると、ヴァルザード様は、こうなる事をご存知だったんじゃ?)」
ランの話を聞いていたイェルドは、そんな気さえしてきたのだが、果たして。
「ま、アタシはあの家出られれば何だって良いんだけどね」
もう一つ、ランは溜息をついた。
月が南中する空が窓一杯に広がる。しかし、ランは月から顔を背けた。昔、月が地に落ちてくる夢を見た彼女は、それ以来、月があまりに不気味に見えて嫌いなのだ。気づいたイェルドは、すぐにカーテンを閉ざしてくれた。
「トーマのこと、見つかって良かったね」
ランが話題を変えて切り出す。「ええ」と、イェルドの表情も明るくなった。
「まさか、あんな形で再会するとは思ってもいませんでしたが」
今となっては皮肉としか言いようが無いほど対立的立場にあるものの、それでも、ランがイェルドと出会った時から、イェルドは兄を探して危険なバウンティハンターの仕事をこなしていた。再会の喜びはひとしおだろう。
ヴェラッシェンドの大聖堂を所有し、神学校を首席で卒業する程の頭脳、更には聖戦士の実技の試験を免除される程の武芸の才を兼ね備えた完璧な彼が、唯一得られなかった「肉親との縁」を求めるために重ねた計り知れない無茶・無謀が危なっかしく、ついつい世話を焼いてしまっていたついこの間までの日常を、ランは思い出していた。
彼が双子の兄を捜そうと思いもしなければ、ランとイェルドは私的に会話することさえもなかっただろう。
「どうなるんだろうな、これから」
先ほどと同じ台詞でも、ランが考えていることはまるで違うことなのだが、イェルドはイェルドで考え事をしていたらしい。
「謝らなければならないことがあります」
と、いきなり切り出されたので、ランは少し驚いた顔を彼に向けてしまった。
何かと思えば他愛もなく、「聖戦士長」という立場でありながら実の兄である凍馬を如何に逃がすべきかという事ばかりを考えていた事を、イェルドが律儀に詫びてきたので、
「良い良い。平穏ボケしたロイヤルガード達の良い訓練にはなったから」
と、ランは鼻歌交じりに軽く躱わしておいた。一人で何でもできてしまうイェルドは、多分、自覚が無いのだ。
――彼は、ひとりで生きていくことができるほど、孤独に慣れていない。
「私も、城務に慣れるまでは相当時間を要するようです」
今度はイェルドが溜息をついた。彼が、一度かなぐり捨てた“神の道”に返るなど、今更できるだろうか。むしろ、凍馬との再会で、国教会が主張する“平等起源論”に対する抵抗は更に強まっただろう。
そう言えば、この騒動の収拾はどう付ければ良いのだろう。盗賊騒ぎで(曲がりなりにも)一国の第一皇女が失踪したのだ。皇帝はじめ城務省、ひいては国民が大きく動揺するのは間違いない。
「ランさん?」
イェルドがランの顔を覗き込んでいた。
「あ? ゴメン、色々こじらせてたわ」
彼女の返事に、イェルドも苦笑を返してくれた。
「せめて誰かに、この事を告げておけば良かったですね」
果たして、本当の事を打ち明けたところで、誰が信じてくれるだろう――
「城の事は、まあ良いよ。私がいなくたって、今までどうにでもなってたんだし」
ランは、城の中で卑屈になっていた自分を精いっぱい笑い飛ばした。
「今は、こっちの世界の事考えなきゃ、ユウシャ様」
「ユウシャって……」
イェルドのことだ。”神”は勿論、”勇者”のことも訝しがっているだろう。案の定、
「開かずの間のアリスが一体何者なのかは判りませんが、恐らく、これから出会う”敵”とは”アリスの敵”を言うのでしょうね」
と華麗に分析し、自分達がアリスと利害を共にする範囲で彼女に協力をした方が望ましく、先ずは“敵”が何者かを知ることが肝要だとか何とか言っている。
祖父・ヴァルザードから『勇者』の武勇伝を数々聞いて育ってきたランは、『勇者』に対して幾らかの羨望があったので、
「流石だね、ユウシャ様」
とランはわざと言ってやった。
「ランさん、ひょっとして、羨ましいなんて思ってません?」
彼の苦笑は見慣れたものだ。「お見通しかよ」と素直に認めてむくれて見せたランに、
「貴女は、どちらかというと魔王様の方ですよね?」
と、イェルドは大体斜め上から返事をしてくるので、いつもぐうの音も出ない。
「まだ違えし」
イェルドはイェルドで、ランが武術に関しては熱心で、彼も会った事の無い帝国元帥が、ランの魔法と剣の師なのだということを思い出したらしく、
「どちらにせよ、貴女にはかないません」
と3歩下がって見せた。
「……まだ戦ってねえし」
神父業の他にバウンティハンターをしていたイェルドを物珍しく思ったランは、彼と出会った当初は暫く、散々試合を迫っては彼を困らせてしまっていた。それを思い出したランは、とうとう真っ赤になって口を噤んでしまった。
「とりあえず、さ、イェルド」
いつもならもうとっくに眠っている時間だった。ランは欠伸の間を置いて、言ったのだ。
「もう暫く、“姫様”って呼ぶのは勘弁してよね」
「じゃあ、せめて此処に居る間は今まで通りにお呼び致しますね」
元居た世界では、主従関係が生まれたばかりの二人である。お互いに、この距離感は正しくないと承知はしていた。が、せめてこちらの世界に滞在している間は、モラトリアム(猶予)期間としても良いのでは無いか、と互いに思っており、今、互いにそれを確かめ合ったところだ。
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