第1部 序記「暗転」
此処に一つの痛みがある。
捨て子だった彼は大国の最も権威ある聖戦士に育てられた。彼は養親に慈しまれて育ち、何不自由ない生活を送ることができていた。与えられた高水準の教育と自ら進んで臨んだ厳格な修行によって徳を積んだ彼は、誰もが有能と認める僧侶となるに至った。
しかし、
「私は、お前と一緒に捨てられていたお前の兄を守ってあげる事ができなかったのだ」
養父の臨終の懺悔を聞いた彼は、ほんの一重の偶然の差で生き長らえ、高い身分を与えられた自分の幸福にさえ罪深さを感じ入るようになったのだった。
「(神は民を平等にお救い下さりはしないのか?)」
やがて彼は、それまで絶対なる者と信じて疑わなかった“神”と、彼を国政に関与させたがる国教会から逃れるように、スラム街を拠点として生活するようになった。何処か遠くの国でまだ生きているかもしれない双子の兄を探して。
此処に一つの痛みがある。
今、彼女は号外の見出しに目を奪われていた。
“ペリシア帝国元帥による謀反!失脚し、亡命か”
“亡命した帝国元帥を国際指名手配”
“元帥一族の処刑が決行された”
“後任は謀反を密告した元婚約者”
彼女は数度強く目元を拭うと、その号外をくしゃくしゃに丸めて二つに引き裂いた。何処からとも無く声が聞こえてくる。
「裏切り者には死を!」「裏切り者には死を!」「裏切り者には死を!」
それは町のいたる所から聞こえてきて、とうとう町中大合唱になった。
彼女は逃げるように町を離れた。やがて来る狙撃班から身を守る為に。
此処に一つの痛みがある。
彼は人々から恐れられている盗賊である。彼の首には国家予算規模の賞金が掛けられている。その為、彼の周囲にはそれを狙うバウンティハンターが数十数百潜んでいるのだが、彼自身も一晩で四万の兵を灰燼に帰したという伝説を持つ腕を持っている。
盗まねば喰うに困り、殺さねば殺される――殺伐とした日常は彼自身があえて選んだ道なので、とうにその孤独には妥協していた。しかし、彼は知らないわけでは無いのだ。
親の顔や故郷、自分の本名や家族の名、人が人故に持っている深い愛――例えば、親の子に対する慈愛や兄姉の弟妹に対する責任感。師に寄せる敬意や仲間に寄せる信頼。
そして大切な人を失うという事の、耐え難い絶望感を。
此処にも一つ、痛みがある。
「嘘つき!絶対治るって言ったじゃない!」
少女が母親の主治医に詰め寄る。無念の余りにただ深く頭を垂れる医師を気遣うように、
「ラン、もうお止し」
少女の父親が泣きじゃくる少女を制した。
「お医者様は、最善を尽くしてくれたんだよ。だから、ママも今日まで頑張れたんだ」
――あの少女の母親は病で亡くなったのである。
「嫌だ! ママ!」
母親の亡骸にしがみ付く少女の肩を抱きしめてあげることしかできず、父親も途方に暮れていた。
しかし、周囲はこの父子を放っておいてはくれないのだった。
「さぁ、御二人とも、国葬の儀が始まってしまいます。会場へお急ぎください」
「各国首脳が挨拶にお見えになっております。さ、早くこちらへ」
「城務省緊急集会の骨子がまとまりましたのでお目通しを」
「次期皇帝の就任式についてですが、……」
そう、亡くなった少女の母親とは、闇の民(或いは魔族)と呼ばれる闇属性の魔法を操る種族を代々束ねる首長にして、その総意を統括してきた『魔王(サタン)』であったのだ。
まだ幼いランを魔王に擁立する事はできないとの判断がなされて、代わって“サタン”に担ぎ上げられた「民間人出身」の父親は、不慣れな国政の舞台でどうしても官僚に振り回されてしまい、母親の死という巨大な喪失感を抱え込んだ娘の傍にいてあげる事ができなかったのである。そして、それが少女のココロを頑なにしていったのだった。
「姫!姫は居らぬか!?」
「姫様が脱走なさったぞ!」
「オイオイまたかよ」
「探せ!探さぬか!」
ラン・クオリス・ヴェラッシェンド。
彼女はヴェラッシェンド帝国という大国の第一皇女でありながら、公然と公務を放棄し、父皇帝に舞い込む再婚の申し出を次から次へと破綻させ、父親や城務省の官僚達の頭を日々悩ませることに終始しているという。
「ざまァ見ろ、クソエロ親父っ!」
粉々に砕け散ったガラス窓の下、丁度真下の階にある部屋の窓の庇(ひさし)に身を潜め、長く伸びた亜麻色の髪を涼しく風になびかせて周囲の喧騒を観察していたランだったが、やがて一つだけ大きな溜息をつくと、亡き祖父から譲られた赤い大きな鳥(通称・フレアフェニックス)を召喚し、城下に向かって飛び出した。
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