第2話「温泉合宿免許」

高校を卒業した後、東京の農大に進学した俺は、夏休みに運転免許を取るために、地元に帰って来た。

 たった半年離れていただけでも、都会の喧騒の十分の一もない静かな田舎の駅舎は、ひどく懐かしさを抱かせる。

 教習所は地元の温泉地近くにあり、合宿免許で取ることにしたので、しばらく旅館に泊まることになった。

 毎日温泉に入るなどという贅沢は、こんな時でもなければ、一生味わえないだろう。かなり心が躍る。

 しかし、一つだけ問題がある。

 それはお世話になる旅館のことだ。

 ここの温泉と言われば、ある程度想定できることではあるが、送迎バスが向かった先を見て、俺は思わずため息をついてしまった。

 歴史を感じる古い木造の建物。綺麗に掃除された玄関。

「本日はようこそお越しくださいました」

 そして朗らかに挨拶するすっきりとした短髪の青年。

 彼の着る法被には、外の看板と同じ字で『菊ノ屋』と記されている。

 そう。ここはバドミントン部元部長にして、現在H大2年生となる菊池亮介先輩の実家なのだ。

 俺は今日からしばらく、先輩の実家にご厄介になるわけだ。

「ちわーっす! お世話になります! 菊池先輩!」

 隣の同級生・前川が声を張り上げる。

 H大に進学した前川も、たまたま同じ合宿に参加しており、同室でもある。

 元気のいい前川に、菊池先輩は嬉しそうに笑った。

「ああ。と言っても、俺はバイトであまりいないけどな」

 こうして、先輩の家での合宿生活が始まった。


 お世話になるといっても、俺は一日中教習所、菊池先輩はバイトで、ほとんど顔を合わせることはなかった。

 俺としてはそれで良かったが、身構えていただけに、少し拍子抜けする。

 そんな合宿が終わりに近づく頃。路上教習の緊張から解放され、へろへろになった身体を引きずって、浴場に向かうと、途中で前川に遭遇した。

「田村! 今から風呂?」

「ああ。そっちも?」

「おう! 一緒行こうぜ!」

 何が悲しくて連れションならぬ連れ風呂だ……と言いたいところだが、前川とは部活の合宿でも一緒だった身。裸の付き合いにさして抵抗はない。

「なんか部活思い出すよなー」

 俺と同じ感想を前川も抱いてたらしいことに、思わず笑みがこぼれた。

 俺も前川も、そして菊池先輩も、大学でバドを続けていない。

 授業にバイト、俺なんかは実習もあって忙しいし、せっかくだから大学では新しいことを始めたいという気持ちもあった。

 中学から数えて6年間を費やしたものを、こうもあっさりと捨ててしまえるのかと思うと、もちろん寂しさはある。

 しかし、人生とはたぶんそういうものなのだろうと、19年生きてようやく悟りらしいものを得た。

 まあ中には一生忘れられない人間もいて、そういう人間がプロになる。

 俺の頭の中には、去年の今頃に部長を引き継がせた後輩の顔が浮かんだ。

「いい湯だなアハハン♪」

 が、すぐに前川の耳障りな歌声でかき消された。

「前川、うるせーよ」

「風呂って歌いたくなるよなあ」

「ならねーし、なってもやめろ。迷惑だろ」

 今は幸い貸し切り状態だが、いつ他の客が入ってくるか分からない。

 前川もブーブー言いつつ、鼻歌にチェンジした。どのみち恥ずかしいから、他の客が来たら、他人のふりをしよう。


「あのさ、前川。お前、大学で菊池先輩と会ったりすんの?」

 飯坂温泉の湯は熱い。菊ノ屋は比較的ぬるめに40℃くらいに調節されているが、それでも普段家で浴びているシャワーより高温だ。

 だから頭がゆだってしまったのだろう。聞かなくてもいいことを言い出してしまった。

 前川は気にしていないのか、あっさりと答えた。

「んー……学年もサークルも違うから、あんまりなあ。あ、でも構内ですれ違ったら挨拶はするぜ」

「そっか……」

「この間なんかさあ、おっぱいでかい美人と一緒だったぜ~ゼミの人って言ってたけど、絶対付き合ってるな。羨ましい~~~」

「どーでもいいよ」

 そうだ。菊池先輩の近況も、恋愛事情も、全部、なぜこんなことを聞いてしまったのかというくらいどうでもいことなのだ。

「前川……?」

 前川は何か言いたそうに、湯をぱしゃぱしゃかき分けている。

「何か言いたいなら、言えよ」

「いや……えっと、言いにくいんだけどさ、田村ってやっぱ菊池先輩のこと好きだったりするのか? こう、ラブ的に」

「はあ!? どうしてそうなる!?」

「いやー、急にンなこと聞いてくるし、煌々の時も先輩後輩にしては仲良さそうだったし、先輩が引退した時は、なんか寂しそうだったし……」

「お前よく見てんな!?」

 俺としては、それだけよく見ている前川にも驚く。

 しかし、その見立ては間違いだ。

「はあ……男同士でそんなの滅多にあるわけねだろ。バカか」

「そうかなあ」

「確かに、先輩としては尊敬してたよ。でも、そんだけ」

「だ、だよな! どのみち先輩には彼女いるしな! ごめん!」

 前川は、まだどこか納得していないようだった。


 実は少し嘘をついた。

 俺は菊池先輩を、他の人間より少しだけ特別に眩しく思っていたこともある。

 なぜ過去形かと言うと、毎日のように会う日が終わってから、自分でもあれが恋なのか分からなくなってしまったからだ。

 高校生の頃。俺はそれなりにあの感情に苦しめられた。

『部活』とか、『バド』とか、そういう限られたものだけが、俺と先輩を繋ぐ唯一のもののように錯覚して、みっともない姿を晒しもした。

 しかし今は、あの行き場のない、どうしようもない気持ちが込み上げてくることもない。先輩の卒業後、受験や上京によって、だいぶ流されていった気がする。

 所詮、思春期の。高校生の一時の鬱屈に過ぎなかったのかもしれない。

 2年という時間は不思議だ。

 17歳と19歳なんて、大して変わりはしないのに、俺はもうあの頃の自分を『子ども』としか思えなくなっている。

 だけど。

 たとえば子どものままでいれば。

 あの地元と学校と、せいぜい駅前くらいが世界の全てだった頃に戻れれば。

 俺は自分の気持ちに『恋』と名付けることができたのだろうか。

 そんな今さらありえない思いつきを描いて、俺は柔かな布団の上で眠った。

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