生コン

あべせい

生コン


「もういらなくなったから、帰っていいよ」

 若い現場監督の立起(たつおき)が、小型ミキサー車の運転手に言った。

 ここは5階建てマンションの新築工事現場だ。目の前の道路は幅5メートル弱しかなく、工事車両はよほどのことがない限り、大型は使えない。生コンを運ぶミキサー車も同様に、小型が出入りしている。

「そうですか。でも、どっか、この生コン、使ってくれるところないですかね? 勿体なくて……」

 運転手の波木三朗(なみきさぶろう)は車の窓を開け、顔見知りの立起の機嫌をとるように、笑顔を作って言った。

「そんなこと知らねえ。金は払うンだからな。そっちで勝手にやってくれ」

 立起は急にぞんざいな物言いになった。まだ28、9才だろう。半年前に結婚したばかりの新婚で、女房はミス湘南の美女と聞いている。

「でも、監督が生コンを余らせたのは今回が初めてでしょ。うちのプラントではみんな噂していますよ。あの立起という監督は若いが、生コンの打設でミキサー車を1台以上、余らせたことがない。顔もいいが、頭はもっといい、って」

「そうか、1台そっくり余らせたのは、今回が初めてだったか……。ちょっと計算ミスをしたンだ」

 立起は、とてもくやしそうな表情をした。

 生コンは、板と鉄筋で形作られた型枠に、ポンプ車を使って流し込むが、その分量を正確に把握することは至難の技だ。型枠の膨らみや歪みなどから、設計図から計算した量と、実際に現場で必要な量との間には、どうしても誤差が生じてしまう。ひどいときは、大型ミキサー車で、5台も6台も多く発注してしまい、そのまま生コン工場に引き取ってもらうことになる。

 大型ミキサー車には、1台で生コン5立米積載されているから、生コンのプラント工場では、料金はもらうとはいえ、その処理には時間も手間もかかるから、どこでもいい顔はしない。

 しかし、立起は、この生コンの必要量を独自の計算方法があるのか、いつもぴったり発注することから、各生コン工場では驚異の監督と見られている。例え余らせても、バケツ4、5杯の分量だから、ある意味で立起は生コン発注の天才とも言える。

 しかし、この日は珍しく、小型ミキサー車1台分をそっくり余らせた。小型ミキサー車のドラムには、生コンが1立米入っている。それがそっくり無駄になった。立起だって人間だ。いつもいつもうまくいくとは限らない。しかし、この日の立起の表情は、どこか異様だった。余らせるのがふつうなのだから、もっと楽天的になればいいのにと思われるが、彼の顔は暗く、物哀しさをにじませている。

「猿も木から落ちる。弘法も筆のあやまりですよ。いままでが出来過ぎなンです」

「なにィッ!」

 慰めるつもりでいった三朗のことばが、立起を怒らせたようだ。

「すいません。失礼しますッ!」

 三朗は慌てて車をバックさせる。

 三朗は32才。女にはとんと縁がない。プラント工場の事務所に好きな女はいるが、振り向いてもくれない。

 立起のように、一流大学を出て、大手ゼネコンで高給をとっている現場監督を見ると、三朗はうらやましくて仕方ない。ことに立起は、マスクもいいから、モテてるだろう。

 三朗が、現場から元の道路に戻ろうとしたとき、立起が急に思いついたように、

「ちょっと、待てッ!」

「エッ」

 立起が決心したように、三朗を呼びとめた。

「余ったコンクリートがあったら、分けて欲しいってところがあった。たったいま思い出した……」

「思い出した、って?……」

 三朗はわけがわからない。そんな大事なことを、こんなときに思いだすものだろうか。

 立起が、スマホをいじっている。しかし、その動作はどこかわざとらしく見える。

「監督、いいですよ」

 三朗は冗談で言ったことが本当になりそうな気配に慌てた。

「監督ッ! ジョウダン、冗談ですよ」

「冗談じゃない。おれがいま親しくしているお屋敷のお嬢さんが、余った生コンがあったら欲しいと言っていたンだ」

 積載量10トンの大型ミキサー車には生コンが5立米積めるが、三朗がいま運転している積載量2㌧の小型ミキサー車には、1立米しか積めない。しかし、1立米の生コンは、1メートル立方升、1杯分だ。小型ミキサー車のドラム内には、手付かずの生コン1立米が入っている。一般家庭で、とても使いこなせる量ではない。それなのに、監督の知人は、それだけの生コンを使うというのか。信じられない。

 三朗はそう感じたから、

「ドラムの生コンをそっくり全部、降ろしていいンですか?」

「そうだと聞いている。とにかく、行けばわかる。これが住所だ」

 立起はそう言って、胸のポケットから紙切れを取り出して三朗に手渡した。そこには、いまいる現場から5キロほど離れた住所が、きっちりしたペン字で書かれている。

 三朗はなぜか妙な感じを受けたが、それが何かわからぬまま、ミキサー車を発進させ現場を離れた。

 この日の三朗は小型ミキサー車に乗っているが、日によっては大型ミキサー車も運転する。会社の指示次第だが、現場の道路が狭ければ、小型にせざるをえない。ただ、三朗は小回りのきく小型のほうが好きだ。小型なら、自前のナビを使えば、生コン積載中でも、あちこち走り回れて退屈しなくてすむからだ。

 三朗は、その自前のナビに、立起からもらったメモの住所を入力した。

「栄南町5丁目3番……」

 三朗はそうつぶやきながら入力するうち、聞いたことがある所番地だと思った。

 どこだっけ? 三朗の自宅アパートは、生コンを運んだ工事現場から見て、栄南町とは反対方向の赤塚にある。従って赤塚から栄南町までは約10キロ。車で約20分の距離だ。行ったことがある……そうだ! 三朗はようやく思いあたった。

 1年ほど前。三朗は大型ミキサー車で行った新築工事現場で、その施主の娘に岡惚れしたことがあった。

 娘の名前は、「麻緋那(まひな)」。3月3日生まれであることから、ひなまつりをもじったらしい。25才で、大手証券会社の受付嬢をしているという話だった。

 工事は、3階建て鉄筋コンクリート住宅で、工期は半年。三朗は基礎の生コン打設からミキサー車を運転していたが、現場の警備員の話では、その娘は暇なのか、一日おきに現場に現れ、工事のようすを見ているという。

 生コンは、一般のコンクリート住宅の場合でも、基礎、壁、階段、土間に打設するだけなので、ミキサー車は概ね2週間ごとに現場に呼ばれる。そして、工事開始から約2ヵ月でお呼びがかからなくなる。

 三朗は基礎工事の際、工事のようすを見守っていた麻緋那を見て、一目惚れしてしまった。しかし、深入りできる相手ではない。話すきっかけも、話しかける用事もない。

 2週間に一度、顔が見られることを楽しみにしていたにすぎない。ところが、一度こんなことがあった。

 気分が昂揚する新緑の季節だった。好天に恵まれ、三朗は生コンを下ろし終え、現場から数百メートル離れた路上で、シュートとドラム内を水で洗っていたときだ。

「キャー、冷たいッ!」

 ミキサー車のドラム内を覗くためのステップ上にいた三朗は、その声で2メートルほど下の地上を見た。

 若い女性がハンカチで、ワンピースの胸の辺りを拭いている。

「すいません」

 三朗は慌ててステップから降りて、女性に深々と頭を下げた。その女性が、麻緋那だった。

「いいのよ。いいのだけれど、あなた、うちの家の工事の方?」

 麻緋那はそう言いながら、ハンカチを元の通り四つに折り畳み、その後ようやく顔を上げて三朗を見た。

「ハイッ! ぼくは生コンを配達している運転手です。名前は……」

 三朗は日頃あこがれている美女に、思いがけない形で遭遇して興奮していた。すると、彼女は三朗のことばを遮るようにして。

「わたしは、工事を発注している不動産会社の娘なンだけれど、わたし、ミキサー車に一度乗ってみたくて、前からチャンスがないかと思っていたの」

「エッ、本当ですか。じゃ、どうぞ」

 三朗は思いがけない展開に、助手席の方に回り、ドアを開けた。

 ところが、そこへ、

「麻緋那さんッ!」

 その非難めいた声は、麻緋那の後ろから聞えた。三朗が首を伸ばしてその方を見ると、30代半ばのスーツ姿の女性が、ゆったりした姿勢で麻緋那に近寄ってきた。

「アッ、おかあさま」

 麻緋那以上に、三朗は驚かされた。彼女が10才ほどしか違わない女性を母と呼んだからだ。当然、実母ではありえない。義母なのだろう。三朗はそう納得して、その場から一歩引き下がった。

 こうして三朗の片想いは、片想いで終わった。

 麻緋那は義母と並び、工事現場の方向にゆっくり歩いて行く。2人のおしゃべりが三朗の耳に届く。

「麻緋那さん、あそこで何をしていらっしたの?」

「ミキサー車の運転手さんに、きょうの生コンの具合を聞いていたンです」

「具合って?」

「この前テレビで、生コンは水っぽくてもダメ、固過ぎてもダメって、言っていたンです。大切なお義母さまのお家ですから……」

「そォ……。でも、麻緋那さんも、いま作っている新居で一緒に暮らしても、かまわなくってよ」

「父が許さないと思います。それに、新婚ご夫婦のお邪魔をするほど、わたしは気がきかない娘ではありませんから」

 三朗の耳にはかろうじて、そこまで聞こえた。父親が、あんな娘がいるのに、若い女と再婚するというのか。あの家は、その新居ってか。三朗は、麻緋那が哀れに思えた。しかし、彼にはどうすることもできない。それだけだ。もう話すこともないだろう。

 三朗にとって栄南5丁目には、そんな思い出があった。しかし、あの新築工事現場ではないだろう。はっきりと番地までは記憶していないが……。

 三朗がそんなことを考えながらハンドルを操作していると、徐々に見覚えのある家並みが現れた。ナビの画面が、目的地まで50メートルと告げる。

 まもなく、三朗の目が大きく見開かれた。

 ココだ。間違いない。そこには、真新しい3階建て鉄筋コンクリート住宅が完成していた。

 三朗は当時出来あがった建物は見ていなかったが、2ヶ月ほどミキサー車で通った現場に間違いない、と確信をもつことが出来た。

 母屋の前は広い庭になっていて、母屋の玄関から通りまでは20メートルはありそうだ。

 通りに面して大きな門があり、左右の門柱は3メートル以上離れている。

 と、「鍛冶」と表札が掛かる門柱にA4大の貼り紙がしてあり、手書きの文字で、

「ミキサー車はバックで門をお入りください」

 とある。

 三朗は指示通り、ミキサー車の後部を門に向け、サイドミラーで後方を確認しながらゆっくりと門内に進んだ。

 すると、サイドミラーに、紺色のサングラスをかけ、紺のキャップに紺のつなぎ服を着た人物が現れ、片手をあげ、そのまま車をバックさせるように指示した。

 三朗が指示に従い6、7メートルバックすると、紺ずくめの人物は手の平をミキサー車に向けて立てた。止まれダ。

 三朗は素早く運転席を降り、紺ずくめの人物のそばに走り寄った。

「お待たせしましたッ」

「すいません。ご無理を言って……」

 紺ずくめの人物はそう言って、キャップを脱いだ。すると、豊かな長い髪がなかから現れる。続いてサングラスを外す。

「あなたは……」

 三朗が憧れている麻緋那だった。しかし、驚くことではない。昨年、施主の娘だと自己紹介しているのだから、その家にいて当然なのだ。しかし、何かがおかしい……。

 麻緋那は三朗の反応には構うことなく、

「ここにお願いします」

 と言って、足下の地面を目で示す。

 そこには、地上から2メートルほど深く掘り下げられた1m×2mの穴が開いていて、穴の底から1m弱の高さに、10数センチ幅で穴の形に沿って1m×2mの型枠が作られている。

「ここに生コンを流し込めばいいンですか?」

「はい、お願いします」

 そこは、門から左に大きく曲がった辺りで、通りからは全く見えない。そばに樹高5mほどのヤマボウシの木があり、西日を遮っている。

 三朗はどうしたものかと考えた。生コンは通常、ミキサー車から吐き出されると、それをポンプ車が直径10数センチの巨大ゴムホースで現場まで圧送する。しかし、この現場にポンプ車はない。穴のそばに、なぜかユンボがあるだけ。恐らく、深さ2mの穴を掘るのに使ったのだろう……。

 ミキサー車のシュートを出来るだけ使おう。ドラム内の生コンは回転しながら吐き出され、大きな樋状のシュートを伝って流れ出てくる。三朗はそのシュートの先端を型枠に近づけ、直接型枠の中に流し込もうと考えた。

 シュートで入りきらない型枠には、スコップとバケツを使い、手で注ぎ込むしか、方法はない。

 量は1立米だが、一人で行うには大変な重労働だ。しかし、惚れた弱み。やるしかない。会社に知れたら大ごとだが、バレないことを祈ろう。ただ、時間は余りかけられない。工場を出た最後のミキサー車といっても、遅くなると会社に怪しまれる。三朗は腕時計を見ながら、早速作業を開始した。

 しかし……。

 麻緋那は三朗の横に立ち、スコップで生コンを掻き出す手伝いをした。三朗は麻緋那と一緒に作業を続けながら、気になっていることを尋ねた。

「お嬢さん」

「わたし、鍛冶麻緋那といいます」

「麻緋那さん、この長方形のコンクリートは何にお使いになるのですか?」

「鯉を飼おうと思っています」

「鯉の池ですか……」

 鯉を飼うにしては小さ過ぎる。金魚ならわかるが。それに型枠の上縁が、地面から1m近く下がっている。これが鯉の池だとすると、鯉に餌をやるとき、身を屈めることになり、不便このうえない……。それに、

「この型枠はずいぶんよく出来ていますが、職人にお願いされたのですか?」

「エエ、わたしの知り合いにゼネコンの方がいて、この穴もそのユンボで掘っていただきました」

 麻緋那は、傍らのユンボを指差して答える。そのとき、ふととんでもない考えが三朗の頭をよぎった。

「麻緋那さん、そのゼネコンの人って、立起さんじゃ、ないですよね」

「エッ、どうしてご存知なンですかッ」

 麻緋那も驚いたが、三朗はそれ以上に驚かされた。

 現場監督の立起は、最初からすべて計算づくで、ここに生コンを運ばせたのだ。三朗には計算ミスだと言ったが、わざと生コン1台分を多く発注した。そうに違いない。すると、どういうことになる。立起は結婚して1年足らずの新婚と聞いている。2人の新居は遠く離れた関西方面の県庁所在地だ。立起は工事の関係でこの街に単身赴任していて、会社負担で現場近くにアパートを借りている。

 麻緋那は美人だ。立起が例え新婚でも、2人の間に何もないとは考えられない。立起は、穴を掘り、型枠を作り、生コンを調達した。必要な生コンの量は彼なら簡単に計算できる。それが1立米だったのだろう。三朗はそれにうまく乗せられたのだ。

「麻緋那さん」

「ハイ」

 麻緋那は額の汗を手の甲で拭いながら、笑みを浮かべている。いい汗をかいているのだろうか。

「お父さまは再婚なさったのでしょう?」

「よくご存知ですね」

 三朗は1年前、立ち去る麻緋那と義母の会話が聞こえたのだと言った。

「そうだったの。あのとき、あなた、義母との話を聞いていらっしたの……。まァ、いいわ」

 麻緋那は急に深刻な表情になったが、すぐに仕方ないかという風に再び笑みを浮かべた。

「父は半年前に、あのときの女性と正式に再婚しました。母の名前は、公江といいます」

「それはおめでとうございます」

「おめでとう、ですってッ!」

 麻緋那の柳眉が逆立つ。

「エッ!?」

 三朗の言葉が麻緋那の逆鱗に触れた。言ってはいけないことを言ったようだ。しかし、麻緋那はすぐさま表情を和らげる。

「いいンです。なんでもありません」

 三朗は麻緋那の立場を考えた。父親が若い女性と再婚する。その女性とは10才ほどしか違わない。うまくいくはずがない……。

「お義母さまはお出かけですか?」

 三朗は何気なく言ったつもりだった。

「イイエッ、なかにいますッ!」

 彼女から鋭い声が返って来た。

「なかで家事をしていますッ」

 麻緋那は、三朗を睨みつけるようにして言った。

「そうですか」

 三朗はそう言ったものの、中から人の気配はしない。疲れて昼寝でもしているのだろうか。

 1立米の生コンは、2人の力でどうにか型枠に収まった。すでに1時間以上、かかっている。あと1時間もすれば、日が落ちる。

「生コンはどれくらいで乾くのかしら?」

 麻緋那が、シュートをあげ、ミキサー車に戻ろうとする三朗を引きとめるように言った。

「1週間はかかります。立起さんが詳しいですから、聞いてみてください。こちらに来られるンでしょ?」

「彼はダメ。あの男は、弱虫だから……」

「弱虫ですか」

「そォ。肝心なところで逃げ出す男よ」

 麻緋那は、吐き捨てるように言った。立起と彼女の間で、何があったのだろうか。

「じゃ、ぼくはこれで帰ります」

 三朗は、なぜか、これ以上ここにいるのはまずいと感じとっていた。虫の知らせというのか、何かが彼にささやいたのだ。

 三朗が運転席のドアに手を掛けたとき、

「待ってッ!」

 麻緋那が駆けよってきた。

「前にわたしが言ったことを覚えている?」

「エッ、なんですか?」

「もう、忘れたの?」

 麻緋那は、ねっとりした視線を三朗にぶつけ、体を寄せる。

「わたし、ミキサー車に興味があるって、言わなかった?」

 三朗は思い出した。昨年、初めてことばをかわしたときだ。義母に邪魔される前、そんなやりとりをしていた。

「はい、よォく覚えています」

「だったら、わたしを、ミキサー車に乗せてくださらない? 助手席でいいから……」

 麻緋那はそう言って、三朗の手を掴んで引き寄せた。

 三朗は麻緋那の誘惑に、すべてを投げ出したくなった。本来なら、ミキサー車を運転して工場に帰らなくていけない。プラント工場までは30分ほどの道のりだ。しかし、三朗は、麻緋那のような美女とドライブできるのなら、どうにでもなれという気がしてきた。

「生コン工場までですが、いいンですか?」

「いいわよ」

 麻緋那はそう言って、両手を三朗の首に巻き付けた。キスをするつもりなのか。三朗は緊張した。

「じゃ、乗ってください。汚い車ですが……」

 三朗は、麻緋那の両手から逃れて助手席のドアの前に行くと、そのドアを開け、彼女を乗せた。


「最初、彼のほうからわたしを誘惑したのよ」

 彼とは立起のことだ。三朗は知らなかったが、立起も3階建てコンクリート住宅の鍛冶邸新築工事に関わっていた。直接の現場監督ではなかったため、三朗は彼と顔を合わせることはなかったが、設計図通り施工されているかなど、立起は実地点検や、施主と打ち合わせなどのため、工事現場や、2キロほど離れた麻緋那の生家を訪れていたという。

 麻緋那は立起と二人きりになったとき、心の悩みを打ち明けた。父の再婚には反対であること、父の再婚相手の公江は性悪でヤクザのヒモがついているから、家庭が破壊されるといったことだ。

 麻緋那はそのうえで、公江と父の仲を裂いて欲しいと立起に頼んだ。勿論、立起と関係をもった後だ。立起は新婚だが、麻緋那の肉体の魔力には勝てなかった。

 立起は、スナックで働いている公江を訪ね、麻緋那の父との結婚を思いとどまって欲しいと頼んだ。しかし、これは結果的には逆効果になった。それどころか、ミイラとりがミイラになってしまった。すなわち、立起は公江の誘惑にも負け、麻緋那との約束を果たせなかった。

 立起は、公江との関係を麻緋那に告白することができず、「うまくいかなかった」とだけ言った。しかし、麻緋那は女の直感で、すべてを察知した。そこで麻緋那は計画を変えた。

「変えた、って?」

 三朗は運転しながら、助手席の麻緋那をチラ見して言った。麻緋那はイイ女だ。肉感的な唇に、誘うような胸、切れ長の目が、男の固いガードを溶かしてしまう。

「だから、彼には、今回の池作りを指示したの。穴掘り、型枠作り、生コンの手配……生コンの打ち込みだけはあなたの役割になったけれど……」

 しかし……。三朗は納得できない。

「新しい計画って、何ですか?」

 前方を見つめていた麻緋那の眼が鋭く三朗を射た。

「あなた、このままどこかに行ける?」

「どこか、って?」

「そォ、どこか。わたしの好きなところ……」

「そんなに遠くなければいいですよ」

 三朗は、生コン工場にどんないいわけをしようかと考えた。帰る途中事故をやった、困っているひとを見つけて助けたなど、目まぐるしく思考が行き来している。

「そうじゃない。このままトンズラするの。そうしたら、わたしの計画をすべて教えてあげる……」

 麻緋那の右手が伸び、三朗の膝に触れた。三朗に快感が走る。麻緋那の手はさらに、三朗の脚の……。

「やります。ぼくには、もう捨てるものはありません」

 三朗は施設で育った。両親がいない。財産といえば、体だけだ。薄汚いアパートに若干の衣類。立起とは違って、守るものは何ひとつない。

「そォ、あなたは淋しいのね。わたしと同じ。いいわ。このまま走って高速に乗ってみて……」

 小型ミキサー車は首都高から東名に入ると、ホテル群が見えるインターで降り、そのまま一軒のモーテルに吸い込まれた。

 2時間後。小型ミキサー車は再び、麻緋那がいた栄南5丁目に向かった。

「あなた、もう引き返せないわよ」

「いいンです。麻緋那さん」

 三朗はまだ、麻緋那の肉体のあまい余韻に浸っている。麻緋那のおどろおどろしい話を聞いたばかりだというのに、だ。

 麻緋那は父と公江の新居に入ることは拒否した。しかし、納得したわけではない。公江が許せないという怒りは日に日に募り、ついに爆発するときがきた。

 それが2日前。麻緋那は、父が仕事で中国に出かけたその日を狙い、公江に会いに行った。

「公江さん。あなた、もう充分満足したでしょう。老いた父をもてあそぶことはやめにしてください」

「なに、言っているの。あなた、頭がおかしくなったのでしょ」

「これは、娘からの警告です」

 2人は20畳の居間で対峙していた。

「あなたこそ、ケガをしないうちに帰りなさい。もう、ここは出入禁止にします。これは、義母の命令よ!」

 公江はそう言うと、無意識のうちに金属バットをふりあげていた。金属バットは麻緋那の父が、強盗や暴漢撃退用に買って来たもので、居間のソファの下に隠してあった。

 麻緋那も無意識に公江にしがみつき、金属バットを奪おうとする。2人は激しいもみあいになった。

「それでお義母さんを殴ってしまった。そうなンですね」

 三朗は確認した。

「よく覚えていないけれど、気がついたら、あの女がわたしの目の前で死んでいた」

「だったら、正当防衛だ。麻緋那さん、あなたに罪はありません」

 三朗は麻緋那の行為は正当化できると考え、片棒を担ぐ覚悟をしていた。ただ、事件からまる一日たっている。警察に通報するには遅すぎる。

 麻緋那の父は2日前から中国に出張している。帰国は1週間後だという。

 麻緋那は遺体を埋める決意をした。そこで立起に生コンを使った石棺を作らせることにした。

 立起は重機を使って穴を掘り、徹夜で型枠を作った。それが完成したのが今朝。生コンはすでに流し込まれた。あとは遺体を入れるだけだ。

 通常は必要な型枠外しも必要ない。遺体を保管する石棺にするのだから、そのまま蓋をして土を被せればいい。生コンは乾くまで待たなくても、遺体とともに固く締まっていくだろう。立起はそう説明したという。

 三朗は、つい30分ほど前に、モーテルのベッドのうえで、裸の麻緋那から打ち明けられた殺人劇を思い起こしている。

 鯉の池の縁が、地面から1メートル近くも下にあることが不思議だったが、石棺なら当然だ。

「着いたよ」

 三朗はミキサー車を再び門のなか深く入れ、麻緋那とともに降りた。公江の遺体は浴室だという。

 三朗は麻緋那に案内され、浴室に向かった。

 その頃、所轄の警察署では全パトカーに当たる5台のパトカーが慌しく出動態勢に入っていた。

 立起が出頭し、麻緋那の殺人計画を訴えたためだ。

「私の愛人が義母を殺し、その遺体を生コンで作った石棺に入れ、埋葬する計画です。私は鯉の池を作るのだという彼女のウソを信じて、石棺つくりを手伝ってしまいました」

 立起は自分の罪が軽くなるように、殺人計画の全容は知らなかったと必死で釈明した。刑事たちは事実を確かめるため、鍛冶邸に最も近い交番の巡査を、鍛冶邸に走らせていた。交番の警官は、深い穴の中に、石棺に相当する型枠が組まれていることを確認した。それは、三朗と麻緋那がモーテルに向かっていた頃だった。

 鍛冶邸の浴室には、公江が水のない浴槽で、手足をロープで縛られて横たわっていた。

 三朗は違和感を覚える。遺体だ。なぜ、ロープを……。

 麻緋那が三朗にかまわず、公江を持ち上げようとすると、公江が不意にうめいた。

「生きていますッ! 麻緋那さん、お義母さんは生きておられますよ!」

「それがどうしたの。早く、運ぶのよ」

 麻緋那は両足を持ち、三朗に上半身を持つように促す。

「どうするンですか?」

「あなた、ベッドのなかで何を聞いていたのッ。生コンの棺桶に入れるのよ。そうに決まっているでしょ!」

「そんなことは聞いていません。そんなことをしたら、お義母さんは死んでしまいます。生き埋めじゃないですか!」

「同じことじゃない。あなた、いまになって怖気づいたの。あの立起とおんなじ。弱虫なンだから……」

「麻緋那さん。ぼくには出来ません。殺人の片棒を担ぐなンて」

「あなた、わたしの体を抱いたのよ。忘れたのッ。もう、後戻りはさせないわ」

「でも、それとこれとは……」

 そのとき、玄関から、大人数の大きな靴音がドカドカと響いてきた。

 麻緋那が顔色を変える。三朗は逃げようと走り出す。しかし、すぐに屈強な男たちの壁に阻まれた。男たちの後ろに立起の姿が。

 先頭に立っている男が、麻緋那が抱えている公江を見て、

「遺体遺棄の現行犯……いや、殺人未遂の現行犯で逮捕するッ」

 と告げた。

 捜査員たちの前にいた三朗が、力なく膝から崩れた麻緋那に近寄り、

「麻緋那さん、あなたは悪くない」

 と言った。すると、麻緋那がキッと顔を上げ、叫ンだ。

「なら、だれが悪いの!」

 三朗は、後ろにいる立起を鋭く指差し、

「あいつだ。生コンを余らせたあいつが悪い。あいつの計算違いだったンだ」

                              (了)

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