「やさしい風」 -睦月衣

 ふと気がつくと武から連絡が来ていた。彼は同郷の友人で、いわゆる幼なじみというやつである。今では付き合いはほとんどないが、こうして急にメールが来たところで別段驚くことはない。

 今度、皆で旅行にでも行かないか。そう誘ってきた彼は昔の彼のままであった。なじみの友人三人と過ごす三十路の夏盛り――その何とも言えない響きに光一郎は少しむずむずした。

 武は昔から人一倍目立っていた。光一郎より一つ年上で、高校ではバスケ部のエースとして学校中の注目を集めていた。光一郎は彼とは正反対で常に本を持ち歩いているような生徒であったので、彼は見ていてどこか爽快であった。当時から何かを始めるのはいつも彼であった。「カラオケに行こう」「喫茶店に寄ろう」「ちょっと遠出してみよう」、そんな武の誘いを受け、光一郎はよくマコや優史と一緒に遊びまわっていた。一人が好きな光一郎も彼らといるときはよく笑っていた。それぞれが勝手をしても繋がっていられるこの関係に、光一郎は安心している。

 旅行は八月の中旬、武の車で行くことになった。大人が四人、肩を縮ませながら座席に納まり、助手席のマコが手製のプレイリストをかける。どれも十年以上前のものであったので、近頃の音楽に疎い光一郎も少し口ずさんだ。

「なあ、この道を左だよな?」運転席の武が言い、

「違うわ、そこはまっすぐ」とマコが返す。

 当時、付き合っているのではないかと噂された二人は今では夫婦になっていた。昔から彼らの仲を知る光一郎にとっては嬉しいことである。

 しばらく山道を走ると窓の外がひらけて見えた。灰色が凝縮された都会の街とは違い、遥かな青と緑がある。全く縁のない土地のはずだが、光一郎はどこか懐かしさと切なさを覚えた。隣に座る優史は黙って外を見ている。光一郎は窓を開けてすうっと息を吸い込んだ。ぬるっとした空気が体内にまわっていく。鼻の奥でぷんと川の匂いがした。少し胸がつまった。光一郎は窓を閉め、小さく息を吐いた。頭が重かった。

 コテージに着くと川の匂いはさらに増した。頭がずしんとした。匂いは記憶を蘇らせやすいと言うが、光一郎の場合もそうであった。光一郎は以前もここに来たことがあったのだ。この匂いとコテージ、確かあれは大学生のころであった。どうして今まで忘れていたのだろう。武に確認すると、十年前、確かに皆でここに来たことがあった。何故だか忘れていたのだと言うと、彼は一切からかわなかった。少し変である。

 十年前のその日は花火大会の日で、今日と同じようなぬるい風が吹いていた。――花火は強風だとあがらない、無風だと煙が溜まってよく見えない、だから今日の程よい風は花火に最適だ。誰かが得意げにそう言い、皆で喜んだ。

 部屋のテーブルの上には十年前と同じ花火大会の案内が置かれていた。日付は今日である。

「もしかして今回も花火を狙って?」

 荷物を運んでくる武に尋ねると、彼は少し間を置いて「約束だったから」と言った。その目は窓の向こうを見ていて、どんな表情をしているのかわからなかった。後からクーラーボックスを持ってきた優史が中からワインを取り出していた。

「それ花火のときに?」光一郎が問うと、彼はそうだと言った。「好きだったでしょ、光くんたち」

「ああ、うん」

 しかし、確か三人はワインを飲まなかった。

 夜になり、光一郎たちはベランダに出た。ワイングラス片手に四人横一列になって空を見上げる。十年前はもっときつかった気がしたが、並んでもまだ少し余裕がある。

「ねえ、そろそろじゃない?」

 マコが言うと、その隣の武が腕時計を確認し「あと十秒」と言った。

 光一郎はふいに右隣を見た。そこには何もない。左端から優史が言う。「光くん、もう上がるよ」

 顔を上げると、広がる星空がぱっと消え、一面に赤い火花が見えた。続いて青、緑、桃色、そして黄色。その光を映す光一郎の瞳に、十年前の風が吹きつけた。

 ――忘れ物取ってくる。十年前、そう言って「彼」は川に向かった。彼は光一郎と同じくワインが好きで、そのため旅行にもワインを持ってきていた。花火のうんちくを語りながら、彼と光一郎は乾杯をした。ワインを好まない三人はビールを飲んでいた。十年後また集まろうと皆で笑った。――

 すうっと腹の奥が冷たくなった。十年前ここには五人いた。今、光一郎の右隣では細身の彼が笑っているはずであった。

 ぼうっと温風が吹いた。目がからからに乾いた。

 光一郎にとって彼は本当の親友であった。川で彼の遺体が見つかったとき、光一郎は倒れ、彼に関する記憶はきれいに消失した。自分が彼を消したのだと、光一郎は思い出した。

 光一郎は柵にかけていた左手をだらりと落とした。無言のままベランダを立ち去る。

「どうした?」武が言った。光一郎は立ち止まって振り返り少し笑った。

「ごめん。ちょっと川に忘れ物」

 ぬるい風が優しく光一郎を包んでいた。

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