第8話 結界
あの頃の私は何もわかっていなかった。
心理学には興味があって
短期の講座を受けたり
「心の病気」を扱ったドラマは必ず見ていた。
それでなんとなく
「心の病気」を持った人を
理解している気になっていた。
けれどもドラマは1時間足らずで終了し、
その中で必ずといっていいほど、
問題は解決している。
マークが仕事に行けなくなって、
私の収入だけでは家賃を払って
生活するのが難しくなった。
それで一部屋使っていないので
誰かシェアメイトを探そう、と決めた。
部屋には何もなかったので、
ベッドとサイドテーブルぐらいは
買わなければとeBayや Gumtreeで探した。
ちょうどいいサイドテーブルを
Gumtreeで見つけて
受け取りに行くことにした。
リハビリにいいと言って
マークが運転した。
Yacht Streetとの交差点で
何故か右折ラインに寄って
Uターンした。
「どこに行くの?
この道まっすぐだよ」
「うん、この辺りに
病院あったかと思って」
言ってることがわからなかった。
来た道を戻って、
また右折してUターン。
さっきと同じところで、
また右折してUターン。
「何してるの?
サイドテーブル
取りに行くんだよね」
「わかってる。
この辺りに病院はあった?」
「病院があるかどうか知らない。
私たちは病院に行くんじゃ
ないでしょ」
「これ以上、先に進めない」
Yacht Street 。
ここにまるで
結界があるかのように
直進できずにUターンをした。
「病院があったら
安心して進めるかも
しれないけど…」
「もう、家に帰ろう。
私が後で取りに行く」
なぜ、これ以上先に進めないのか
全く分からなかった。
今まで何回も通った道なのに。
何度も同じ場所をぐるぐる回ったので
私もなんだか気分が悪くなっていた。
出品者に少し遅れると
テキストを送って
私たちは家に帰った。
「家に帰るとすごく安心する。
エリーもいるし。ほっとする」
ひどく疲れたと言って
マークはベッドルームに
行ってしまった。
私も疲れてはいたが
サイドテーブルを取りに
行かないといけなかった。
「何にもないのに
どうして進めないの?」
さっきのYacht Streetを
通り過ぎるとき
無性に腹が立った。
私には、とうてい
理解のできないことだった。
サイドテーブルを買って家に帰ると
マークはリビングのソファに座っていて
ビールを飲んでいた。
それを見た瞬間、
私の怒りが頂点に達した。
マークは私の気持ちなどお構いなしに
笑顔で迎えてくれた。
さっきのことが何でもなかったみたいに。
「エリー, ありがとう。
君が僕のためにしてくれたことが
うれしくって
ちょっと 飲みたくなったんだ」
何?その理屈!あり得ない!
予想もつかない理不尽なことが起きると
人って何にも言えなくなるんだ。
「Ellie」
「何?」
「I love you」
微笑み返したが私の顔は
ひきつっていたと思う。
数日後、ケンとゴードンが
ダブルベッドを探して持ってきてくれた。
その時、知り合いの女性が
部屋を探しているという情報をくれた。
コミュニティの掲示板や情報誌に
シェアメイト募集を出して、
一から探すよりも、誰かの紹介のほうが
簡単だし、安心だと思って、
その知り合いの女性から
連絡をもらえるようにケンに伝えた。
2,3日して、その女性
キャシーから連絡があった。
すぐに部屋を見たいと言って訪ねてきた。
キャシーは50過ぎの明るい女性だった。
ずいぶん前に離婚して、
子供たちもみんな独立していた。
今部屋を借りているオーナーが家を売って、
キャラバンカーで
あちこち回ることにしたので、
部屋を探しているということだった。
ロケーションが便利なこと、
日本びいきなこともあって、
キャシーは
部屋を気に入ってくれた。
マークがずっと家にいるので
若い女性は問題があると思っていたし、
男性のシェアメイトも
私は好まなかったので、
キャシーを歓迎した。
「結界」は謎のままだったけれども
私は日々の生活に追われていた。
後で分かったことだが、どうやら
パニックアタックに伴う不安症の一つで
広場障害Agoraphobiaと言うらしい。
そして、これは
マークの不安症のほんの一部だった。
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