第六暦・陰 蛇の藪
俺が寅の処以南の木行区に足を踏み入れるのはいつぶりのことだろうか。
思い返してみて、実は一年前のあの日以来初めてかもしれないと気付く。
しかし、それもおかしな話だ。確かにあいつを思い出すこの地は好んで行きたい場所ではないかもしれない。
だが火行区へ行くときは必ず経由する道だ。
と、そこまで考えて火行区にもこの一年の間で訪れたのは極わずかだという事実に行き当たる。
そうだ。この間もそうだったように、火行区の探索は決まって母上が行っていた。
そして俺が水行区側を。別に取り決めたわけでもないのに自然とそういう流れが出来上がっていた。
ただ俺が気付いていなかっただけで、もしかしたら母上は俺を気遣ってこの道を通らずに済むようにしてくれていたのかもしれない。
いや違うな。そうじゃない。母上はそういう種の気遣いをする方ではない。
となれば簡単な話だ。俺が無意識に避けていたのだ。この場所に来ることを。
考えれば先日だってここを通る機会はあった。
任務の下見にあたって火行区に向かう堀舟に乗り込む――あのときは忠吉だけを乗せたが、本来は俺も乗るはずだった。
そして火行区に着いた後、水行区の丑の処まで戻ってくる流れ。当然、木行区を突っ切ることになる。
堀船に乗らなかった理由は俺の顔を知る
ただそれも今日までだ。
忠吉が風邪を引いた。
理由は十中八九、俺が奴に浴びせた冷水だろうが、そもそも奴が母上の話の最中に眠りこけていたのが悪いのだ。
責任を感じる必要もあるとは思えないが、そんなこととは関係なく忠吉が倒れてその看病の役が俺に回ってくるのは至極当然のことだった。
そんなわけで俺は風邪に効く薬草が生えている火行区巳の処の
しかし考えようによってはこれはいい機会だったのかもしれない。
まるで呪いのように足が遠のいていた木行区の一部。
もしこれから先も訪れないままだったら、いざ踏み込む必要が出てきたときに俺は不必要に警戒してしまっていたかもしれない。
この場所はどうしてもあいつとの思い出が過ってしまう。
それもそうだろう。ここに来るとき、俺の隣には常にあいつが――
今もそうだ。あいつの顔が、あいつと過ごした日々が、次々に俺の脳を
もしこれが重要な任務中であったらと思うとぞっとする。
だから今回のことはむしろいい機会なのだ。俺は再び自分に言い聞かせる。
こんな薬草取りなんていうくだらない用事の時に一度来ておいて正解だった。
これで次に来るときにはもうあいつの顔などいちいち浮かんでくることもない、ただの山道になっていることだろう。
そんなことを考えているうちに俺は辰の処を渡り切り、木行区と火行区の境にきていた。
さて、ここからが難関だ。俺は目の前に広がる長大なつづら折りを見て心中で呟く。
火行区巳の処から木行区辰の処にかけての
水行区丑の処と木行区寅の処の境にある
つまり火行区から木行区を経由して水行区まで出るには、これら二つの難所を越えねばならないということであり、忠吉の風邪の原因は案外こいつに体力を奪われたことにある気がした。
艮峠はもう慣れたものだが巽つづらを通るのもやっぱり久しぶりだ。
俺はやや時間をかけて巽つづらを降り切り、ようやく火行区巳の処に到着する。
ここまでくれば蓬莱の藪は目の前。さて、とっとと目的を果たすとするか。
目当ての薬草が生える場所の条件などを思い起こす間、俺の頭の中には再び土竜が割り込んできていた。
これも仕方がない。俺の薬草の知識はほぼすべてあいつに仕込まれたものだ。
俺たち地賀忍軍が身体能力や忍術に優れる忍が多いのに対し、天賀忍軍――今は忌まわしき天賀御庭番の連中は頭脳に秀で忍具製作などに長じていた。
特に薬学に関しては深い知識を持ち、それはすなわち毒の扱いに長けるということでもある。
俺と土竜は互いの忍軍の長所をそれぞれに教え合ったりしたものだった。
この竹藪にもよく一緒に来ていたな。いつもは俺との組手で泣かされてばかりのあいつが、薬草のことを語らせるとやけに誇らしげでおかしかったものだ。
そういえば、あいつはここに来るとき必ずある医者の話をしていた。
何でもこの竹藪のどこかにどんな病でも治す医者が隠れ住んでいると。
その医者の正体は不老不死の仙人で、病を治す絡繰りは自身の不老不死の血を病人に与えるからだとか。
子供のころですら一笑に付すようなそんなおとぎ話を、何度も何度も熱心に語っていた。
もしも本当にそんな医者だか仙人がいるのだとすれば――。
「ちっ……!」
俺は苛立ちのあまり思い切り舌打ちをした。むかつかずにはいられない。
気付けばすっかりあいつとの思い出に没頭してしまっていた自分の女々しさに。
そして、あいつの口から出た下らないおとぎ話に真剣になりかけていた己の愚かさに。
馬鹿馬鹿しい。そんな奴がいるはずがない。
百歩譲って本当に存在したとしても、病が治る代わりに不老不死となる――そんなものを飲むくらいなら大人しく死んだ方がマシだ。
「本当にそうでしょうか?」
俺は一瞬、聞こえてきた声に対してどちらを向けばいいか分からなかった。
その声はまるで竹藪全体から発されたような、そんな印象を受けたからだ。
しかし次の瞬間、一体いつからいたのか俺の前に一人の男が立っていた。
二十代後半ほどに見えるが和式眼鏡の奥の瞳からは、外見に似つかぬ年季を感じさせる。
丈が余り気味の着流しをゆったりと着こなした、どうみても竹藪を歩くには適さない
しかし自然と違和感は覚えなかった。むしろ男は周囲の竹よりもよほどこの場に馴染んで見えて、まるでここが竹藪になるより以前からここにいるかのようだった。
対する俺は昼間にも関わらず忍装束。これは人目を嫌ってというよりは癖のようなものだ。あいつといるときはいつもこの格好だったから。
ともかく顔を隠していた俺は謎の男に対していくらか強気に出ることができた。
「お前、一体何者だ? ここで何をしている?」
「何者――というほど大層な者ではありませんよ。お嬢さん」
男はにこやかに笑いかけてくる。
笑顔というのは相手に対して『自分は敵ではない』と示す効果があると聞くが、それが正しいとすればこの男の笑顔は俺にとって完全な逆効果でしかない。
「逆効果? どうしてですか?」
「貴様っ……最初といい今といい、どうやって俺の心を読んでいるっ!?」
まさかこの男は人間じゃないとでもいうのか。もしや話に聞く仙人だとでも。
「違いますよ。初めに言ったでしょう。大層な者ではないと。驚かせてしまったのなら申し訳ありません。
ただ私は心を直接読み取っているのではなく、あなたの表情や仕草から考えていることを類推しているだけですよ。商売柄、観察力には自信があるんです」
「つまり超人染みた妖術などではなく」
「常人並みの読心術というわけです」
男は今度は俺の言葉を引き継ぐなんてことまでやってみせた。
何が常人並みの読心術だ。そんなもので納得できるか。
「別に信じていただかずとも構いません。ともかくこれで『どうやって心を読んでいる?』というあなたの問いにはお答えしました。
一つ
「………………」
俺はこのままこの男と淡々と会話を続けていいものかどうか悩んでいた。
今すぐこの場から逃げるのが得策だと理性では分かっている。直観もこの男は危険だと告げている。
しかし俺の中のもっと奥深く、最も根底の部分ではこの男との会話を続けたい――そう感じていた。
結局、俺はその感情に身を委ねることにした。
「お前の笑みからは敵意しか感じ取れないからだ。故に笑いかけられてもこちらの敵意は薄まるどころか増すばかり――ということだ」
「なるほど。それは少々、傷つきますね」
男は全く傷ついてなさそうな表情で言う。
「お嬢さんがそういった風に感じられたのであれば頭を下げざるを得ませんが、弁明させてもらえるのであれば私は決してあなたに敵意などは向けていません」
「つまり俺の気のせいだと言いたいのか?」
「ええ。人間関係というのは鏡のようなものです。あなたが私を敵意の目で見ているから私の笑顔がそういう類のものとして映った。それだけのこと。ただの『認識』の違いです」
「認識?」
なぜかその言葉だけ男の口から流暢すぎるくらいに自然と零れた。何やら一家言ありそうな語り口に思えた。
「そうです、認識。例えばあなたが私を好意的に捉えていれば、私の笑顔も自然と好意的に思えるはず。私の笑顔自体は何の変化がなくても」
そういえば、俺は昔は土竜の笑顔が大好きだった。しかし今は何よりも嫌悪の対象だ。果たして今と昔で土竜の笑顔自体に変化はあるのだろうか?
もしも奴の笑顔が同じもので、俺に向けている感情が変わっていないのだとすれば。昔からずっと嫌悪だったのか。あるいは今でもまだ好意なのか。
「さて、これでまた一つ問答を終えたのでもう一つ戻りましょう。そう、あなたの最初の質問に私が一つ答えていないものがありましたね。
『ここで何をしている?』探し物です。私は趣味で少し変わった道具を集めていまして、それを求めてここにいました。では、最後に残った私の最初の質問に答えてもらいましょう」
男の俺への最初の問い掛けは『本当にそうでしょうか?』。
俺があのとき、胸中で抱いていた思いに対する質問だ。
「どんな病でも治る代わりに不老不死になる血。それが存在するとして、それを飲むか飲まないか――という話か」
「ええ」
改めて、こんな具体的な文言を読心術だけで導き出せるとは到底思えないがそれについてはもう考えるのはよそう。考えたところで答えが出るはずもない。
俺は淡々と自分の思いを言葉に乗せる。
「ああ。間違いなくそうだと断言できる」
「本当に? 例えばあなたの大切な人が治せぬ病に掛かっていて、その人自身が望んでいたとしても。あなたは飲むべきではないと思いますか?」
男の例えは俺にとって何の意味もなかった。
なぜならその例えは初めから想定していたものだったから。だから答えが変わるはずはない。
「俺は――」
「なるほど。よく分かりました」
俺の言葉を最後まで聞かずに遮ると、男の姿はすっーと霧のように消えていった。
後には何もなく、あの男の痕跡と言えるものは会話で費やした時間ぐらいのものだった。
「ふう」
俺は装束の頭巾を脱いで顔を晒すと、自分の額に手を当てた。
どうも薬草は二人分必要らしい。俺にも忠吉の風邪が
妙な幻覚は見るしその上――熱に浮かれてとんだ世迷言を口にしかけた。
除獣怪 ―ノケモノノケ― 水行区編 烝 @susumu
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