第六暦・陽 鬼の森

 新しい朝が来た。そう例えるならこれは希望の朝だ。

 喜びに胸を開きながら、俺は朝食の支度をする千和ちわ溌剌はつらつと目覚めの挨拶をする。


「おはよう。千和」

「あら、おはようございます。お兄様。今朝は早いですわね」


 千和は意外そうに言った。

 いつもは自分が起こしに行くまで寝ているのに、と言いたげだ。

 それは事実だ。潔く認めよう。しかし――。


「今日の俺は今までとは違うのさ。そう、生まれ変わったんだ」

「はあ。そうですか」


 千和は全く興味を示さず朝食作りを進める。

 まあ刃物と火を使っている途中でこっちに注意を向けられても困るが。

 だから俺は妹の無視を快く受け入れて、一人思考を続けるのだった。

 すでに今月も残りわずか。俺がこの町に戻ってきて丸三か月になる。

 俺は思ったのだ。このままでいいのか。否、よくない。

 妹に起こされるまでぐうたらと寝て、たまに来る依頼は雑用ばかりの代行屋稼業。

 こんな生活を続けていては、いつまでも親父をぶん殴るという目標は果たせない。

 そのためには琥珀こはくが言っていたように、半端ではない確かな覚悟――その正体を突き止め身に着ける必要がある。


「というわけで、早速だが千和」


 朝食を終え、食後の茶をすすりながら俺は言う。


「何でしょう?」


 洗い物をする千和に覚悟に関する問いをぶつけようとして、俺は寸前で思い直した。

 千和は琥珀が言うような覚悟とは無縁だろうと思ったからだ。

 故に俺は出かかった言葉をお茶と一緒に飲み込んで、別の言葉を口にする。 


「いや、少し出掛けてくる。依頼があったら代わりに用件を聞いといてくれ」


 ぐっと湯飲みのお茶を飲み干すと、俺はそのまま沓脱くつぬぎに向かった。

「お出掛けですか? どちらまで?」

「本物の覚悟が身に着くまで……かな?」


 少し気取りながらに屋敷の戸を開ける。

 すると去り際、背後から千和のため息交じりの呟きが聞こえた。


「何だか、お兄様。少し浮悌うきやす様に似てきましたわね」


 妹からの何とも侮辱的な送別の言葉を受けながら俺は町に繰り出した。


            ◆


 まずやってきたのは水行区亥の処――人形店・市松堂いちまつどう


「いらっしゃいま――あ、十字郎とおじろうさん」

「こんにちは」


 暖簾のれんを潜ると、以前よりも雰囲気が明るくなった店主――市松いちまつ 竹恵たけえさんは笑顔で俺を迎えてくれた。

 心なしか店に並ぶ人形たちの表情も、店主同様に和らいでいるように思える。

 竹恵さんは俺に恭しく頭を下げると礼の言葉を口にした。


「先日はありがとうございました。娘に友達を紹介していただいて。梅子うめこはいたちちゃんとすごく気があったみたいで、今日も二人で遊びに出掛けているんですよ」

「そうか。そいつは何より」


 少々お節介かとも思ったが、二人の少女の仲が進展していることを聞き俺は胸を撫で下ろす。


「それで今日はどういった御用ですか?」

「実は今日は竹恵さんに少し相談があって」


 俺はもちろん親父のことやお袋のことについては伏せながら、どうしても達したい目標があること。

 ただ自分の覚悟は半端であると指摘されたこと。

 覚悟とは一体何なのか、どうすれば半端から抜け出せるのか、といったことを竹恵さんに相談した。

 竹恵さんはいきなり現れて営業妨害をかます俺に、嫌な顔一つせず真摯しんしに答えてくれた。


「そうですね。十字郎さんが叶えたいことが何なのか分からない以上、はっきりとしたことは言えませんし、それこそ中途半端な助言になってしまうかもしれませんが」

「ああ、それは全然構わない。というか、抽象的な質問をしたこっちが申し訳ないくらいだから。竹恵さんが思ったことを言ってくれればそれで十分だ」

「そうですか。それでは。私は中途半端というのは決して悪いことではないと思います」

「はあ?」


 竹恵さんの言葉は常識から見事に外れたもので、俺は思わず間抜けな声を漏らす。


「どういうことだ? 中途半端はどう考えても悪いことだと思うけど」

「いえ、半端な状態というのはとても大切な時期だと私は思います」


 竹恵さんの独自の考えに俺は俄然興味が沸き、食い入るように耳を傾ける。


「大切な時期?」

「はい。半端というのは何かと何かの間で揺れている状態、振り切れていない状態のことですよね。逆に十字郎さんが身に着けたい覚悟は一つだけを見据えた、振り切った状態」

「まあ、そうだな」

「一度、覚悟を決めてしまえば視野は狭まり、他のものには目がいかなくなります。素晴らしいことではありますけど危うくもあります。

 確かに半端というのは主観的にも客観的にもよくないもののように思えます。しかし、自分にとって本当に大切なものが何なのか見極めるために必要な時間でもあるのです。

 ですから、半端だからと言って焦らずじっくりと覚悟を育てていくのが一番だと思いますよ」


 そうか。竹恵さんはかつて『亡き夫の夢である生きた人形作り』と『最愛の娘』との間で揺れていた。

 そして、一度は『人形作り』の方を選び取り振り切っていた。あのときの竹恵さんは確かに半端ではない覚悟を持っているように感じた。

 しかし、必ずしもその強い思いが正しいものに向けられているとは限らない。

 俺は今、いたずらに覚悟の『強さ』だけを求めていた。しかしその『向き』が正しいものなのかどうか、考えていただろうか。

 お袋の仇を討つために親父をぶん殴る――果たしてこの気持ちは正しいものなのかどうか。

 この思いの裏で何か大切なものを俺は見失っていないかどうか。今一度見直す必要があるのかもしれない。


「今日はありがとうございました。いきなりやって来て勝手な相談に付き合ってもらって」

「いいえ。むしろ力になれて嬉しかったです。十字郎さんには返しきれないほどのご恩がありますから。困ったことがありましたら、いつでもいらしてください」


 竹恵さんからは非常にためになる大人の助言を頂けた。

 しかし何だろう。何か物足りないというか。大人であるがゆえに俺を気遣った当たり障りのない回答って感じだったな。

 焦らずじっくりという助言ももらったことだし、もっと色んな人に話を聞いてみよう。

 次はもう少し厳しめのガツンとした言葉をくれそうな人物がいいな。となれば――。

 

            ◆


 次にやってきた水行区子の処――出水港いずみこう

 一人の老人が大海原に一本の糸を垂らしていた。


「どうです? 釣れてますか、太公望さん?」

「………………」


 俺は揉み手をしながら老人に近付き魚籠びくの中を覗き込む。


「うおお、大漁じゃないですか。さすがは海の男」

「………………」


 おだてまくるも少しも釣れない。いや、魚は釣れている。爺さんが釣れない。ううむ、こいつはかなりの大物だ。

 完全に無反応の甲蔵こうぞう爺さん相手に、さすがに虚しくなってきたので普通に話しかけることにした。


「あの、実は折り入って相談があるんだけど」

「………………」


 やはり押し黙ったままの甲蔵爺さん。

 くそっ。これなら巌流がんりゅうの方に行けばよかったか。飴どころか鞭もくれないとか、ある意味一番辛いぜ。

 もちろん、最初に思い付いた相手は巌流だった。それを甲蔵爺さんに変えた理由は単純。

 あいつ、怖いもん。そうだよ。日和ったんだよ。


「――でさ、どうやったらそいつが言うような覚悟ってのを身に着けられるか悩んでるんだけど」

「………………」


 こちらの用件を最後まで言い尽くしてもなお無言を貫き通す甲蔵爺さんに、俺は卑怯だと思いながらも最終手段に出る。


「誰のおかげでこんなところで呑気に釣りができると思ってるんだよ。巌流にあのこと言っちまうぜ」


 脅しである。

 実際には巌流は寺子屋倒壊事件が甲蔵爺さんの仕業だと知っていて見逃しているわけだから、これは脅しは脅しでもこけおどしなのだが。

 てっきりこれも無視されると思っていたが、甲蔵爺さんはこちらに向き直った。

 そして一言、はっきりと言い放ったのだ。


「儂はそれを覚悟であれをやった」


 深い……のか。いや、当たり前のことを言っているような。聞きようによってはただの犯罪者の開き直りのような。

 その言葉の意図を考えていると、突然後ろから巨大な影が俺たちを覆う。

 振り返れば奴がいた。


「十字郎殿。何をしている?」


 北の城門守護四士じょうもんしゅごしし――船島 巌流。こいつこそ、こんなところで何を?


「べ、別に何も。俺が港にいちゃ悪いのかよ」

「いいや。ただ釣り竿も持たずに何をしているのか気になっただけだ。まさかこの男と会話しているとは思えないからな」


 言いながら、甲蔵爺さんの背中を見つめる巌流。振り向きもせず釣りを続ける甲蔵爺さん。

 そうか。巌流は甲蔵爺さんがまたよからぬことをしないか監視に来たのか。

 それにしても。微動だにしない両者を見て俺は思う。

 この二人って結構似ているよなあ。あれ、よく見れば雰囲気だけじゃなく顔自体も似ているような。

 気難しい仏頂面を続けて大人になったらこうなるってことか。俺はこうはなるまい。

 ほんの数瞬の出来事だったのだろうが随分と長い時間に感じられた。

 巌流は甲蔵爺さんから視線を外すと踵を返し、やはり何も言わずに立ち去った。

 後に残された俺も何だか居たたまれない空気に耐え切れず、すごすごと退散するのだった。

 

            ◆


 今度向かうのは水行区丑の処――いや、別にあんなところに用はねえな。

 何か流れで思わず順暦じゅんれきたどりそうになったけど。まだら市場で何か買う用事もないし、その先にも……今となっては行くことはない。

 さて、どうしたもんか。とりあえず、一度屋敷に戻るか。


「そこの旦那、ちょいと待ちなぁ」


 不意に呼び止められたので振り返れば、そこにいたのは盲目の僧侶だった。

 一応は僧侶の格好をしているが、とても信心があるとは思えない。

 黒い法衣は泥に塗れ、錫杖はへし折れ、頭には汚いちぢれ毛が生えている。

 盲目の僧侶はかなりの高齢で、腰を屈めた姿勢から目を閉じたままで俺を見上げた。


「悪いが道を教えちゃくれねぇか? この年まで放浪して道に関しちゃ大分明るい方だと自負しちゃいたが、何のことはねぇ。ここがどこだかまるで分かりゃしねぇんだ」


 めくらで道に明るいも何もないだろう。

 そう言おうとしたが、盲目の僧侶は下手に刺激したら無事ではすまない雰囲気をまとっていたので、俺はその思いを心の内に留める。


「教えるのは構わないけど、俺もこの町に来てまだ三月目だからな。案内できるか分からないぜ」

「何、謙遜することはねぇよ。お前さんはこの俺が目をつけた男だ。道を教えるくらいわけねぇだろ」


 だから、見えないのに目をつけたも何もないだろう。

 それにしてもこの坊さん、かなりの自信家らしいな。

 言葉の端々からそれがうかがえる。

 盲目の僧侶は続けざまに言った。


「何なら俺の目を奪った仇の鬼の居場所も、教えてくれりゃありがてぇんだがな」

「目を奪った仇?」


 盲目の僧侶の目の周りは傷一つ見当たらなかったので、てっきり病か何かで視力を失ったと思っていたが。


「そうは言われてもな。そいつの特徴を教えてくれないと」

「おっと悪ぃな。そいつは黒い肌で角は五本、身の丈が十尺はある大鬼よ」

「はあ? 鬼って本物の鬼かよ。からかってんのか? そんなもんがこの世にいるはずがねえだろ」


 俺は老人の与太話かと思ったが、盲目の僧侶はどうも本気のようだった。


「そっちこそ何を言ってやがる。俺の生まれた里でもあるめぇし、鬼を知らねぇ奴なんざいるかよ」


 何だこいつ、キチガイか?

 真面目に相手をするのが馬鹿らしくなって、俺は適当にあしらうことにした。


「鬼に会いたいのなら、この町の北東――水行区丑の処にある渡世とせいの森に行ってみるんだな。あそこは鬼門の方角だし、噂だと別の世界に繋がってるって話だぜ」


 渡世の森――そここそまだら市場の東にある、昼間でも日が射さない森林だ。俺は十年前に一度だけそこを訪れたことがあった。


「へぇ、やっぱりあっちの方か。さすがは俺の見込んだ男だ。やりゃあできるじゃねぇか」


 そう言って、盲目の男は北東へと体を向けて、そのまま立ち去るかと思いきや思い出したようにこちらに振り返った。


「そうだ一つだけ、道を教えてくた礼に忠告してやる。遠からずお前さんの身近にいる奴かお前自身が、よくない目に遭うだろう。そんな臭いがしているぜ」


 ひくつかせた鼻を壊れた錫杖で叩きながら、盲目の僧侶は薄気味悪く笑った。


「まあ、お前さんに嫌な別れがないことを祈っているよ」


 こんな信心をドブに捨てたような僧侶に祈られても、御利益がないどころか逆に縁起が悪いような気がしたが、俺は適当に調子を合わせることにした。


「ああ、あんたにもいい出会いがあることを祈っているぜ」


 盲目の僧侶は閉じていた目を少しだけ開いたかと思うと、前を向いて今度こそ去って行った。


「とことん変な爺さんだったな」


 俺も再び歩き出そうとしたところで、さっきの老人の目の奥がまるで闇を詰め込んだように真っ黒であったことに気が付いた。

 まさか本当に……馬鹿馬鹿しい。

 今はそんなよしなし事を考えている場合ではない。

 俺はあの老人の言葉から一人の男を思い出して、そいつに会いに行ってみることにした。

 火行区午の処――南の城門守護四士・焔暦寺えんりゃくじ 楠永くすながの元へ。今の俺は一体どんな目をしているのか聞くために。


            ◆


 戻りましては水行区戌の処――狛走こまばしり家。


「戻ったぞ」


 夕食の支度をしている千和に俺は気だるげに告げる。


「あら、おかえりなさいませ。お兄様。遅かったですわね」


 千和はやはり俺への返事はそこそこに料理へと戻る。


「それで覚悟とやらは見つかりました?」

「いいや。ただ見つけにくいものだってことと焦って見つけるもんじゃないってことは分かったよ」

「そうですか。まあ、探すことをやめたとき見つかることもよくある話ですからね」


 会話は一応、成立してはいるものの千和がほとんど生返事をしていることは容易に分かった。

 しかし俺はそれに腹を立てることもない。

 別に快く受け入れたというわけではなく、ただ単純に腹を立てる間もないほど俺の心はある欲に支配されていたからだ。


「ああ。そういうわけだからとりあえず」

「とりあえず?」

「今日のところはもう寝る。少し早いけど」

「そうですか。確かに、大変眠そうな目をしてますものね」


 俺ははいつくばるように布団に潜り込み夢の中へと旅立った。

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