第五暦・陽 亀の甲 下

「月だよ」

「月?」

「ああ、そうだ。毎日の仕事終わり、この堀に映り込む月を見るのが儂の最大の楽しみだった。

 ところが先の洪水で寺子屋が崩れた折、増築して建て直すことが決まった。寺子屋の影で月が遮られる。それが許せなんだ」


 そのあまりに身勝手な理由に、俺は気付けば叫び出していた。


「ふざけんなっ! 許せねえは俺の科白だ。てめえみてえな奴は、この俺が月に代わって成敗してやるっ!!」


 ガコンッ!!

 ――と青龍橋の跳ね橋が降り切った音を合図として、俺は甲蔵こうぞう爺さんに斬りかかる。

 ところが怒りで冷静さを失っていた俺はこの場が船上であることを失念していた。

 突然に走り出したせいで舟は傾き、危うく転倒しそうになるのを何とかたたらを踏んで堪える。

 しかし甲蔵爺さんはこの好機を逃しはしなかった。 

 豪快な水飛沫を上げながら堀の中から櫂を引き抜くと、それを俺の頭上目掛けて振り下ろす。


「ぐっ……!」


 間一髪で刀で受け止めたものの、この一合の衝撃で再び舟は大きく揺れる。

 ただでさえ不利な体勢の中、不規則に揺れる足場は俺を一層の窮地に追い込む。


「くそっ……たれ!」


 まともに利かない踏み込みを捨てて、俺は純粋な腕力勝負で甲蔵爺さんの櫂を押し返そうとする。

 だが絶妙な拍子で甲蔵爺さんは自らも引き、俺は勢い余って再び前方に体勢を崩す。

 その隙を狙って甲蔵爺さんの櫂は俺の鳩尾みぞおちを突き上げる。


「うっ……おっっっえぇ……」


 痛打をはるかに上回って込み上げる嘔吐おうと感。

 俺は堪らず両手で口を塞ぐ。その結果、当然のこととして刀は俺の手を離れ重力に従った。

 しまった、と思ったのも束の間。甲蔵爺さんは追撃の手を緩めることなくむしろ激化させた。

 くるりと反転して勢いを付けた櫂の柄を、今度は俺のこめかみに叩きつけたのだ。

 俺の体はなすすべなく真横に吹き飛び舟の縁に叩きつけられた。


「ううっ……」


 衝撃で頭の中に星が飛ぶ。

 それが消えたと思ったら、今度は視界がぐにゃぐにゃと歪み出した。

 もはや揺れているのは舟なのか俺なのか。平衡感覚が完全に殺され立ち上がることさえできない。

 しっかりしろよ、狛走こまばしり 十字郎とおじろう。これしきでやられてたまるかよ。

 俺の中に残された力は精神力――つまりは根性のみ。

 それを必死で絞り出して何とか己を鼓舞する。

 この苦し紛れが功を奏したか、よろめきながらも何とか地に足をつけることができた。

 よし。これなら戦える。まだいける。

 引き続き戦意をたかぶらせながら俺は脇差しを構えた。

 未だに体はふらつく。少し気を抜けば再びおねんねだ。


「さあ、来やがれっ!」


 虚勢という名の発破で自分自身を支えながら俺は叫んだ。

 そんな軽く突けば転がるような俺を前にして、甲蔵爺さんは掌を前に突き出して言った。


「待て」


 誰よりも俺が言いたい(本心では)科白が、あろうことか甲蔵爺さんの口から飛び出したのだ。

 どういうことだ? この場面で甲蔵爺さんが攻撃を躊躇ためらう要素など微塵もないはず。

 そんな俺の疑問に甲蔵爺さんの続く言葉が答えを示す。


「一時休戦だ。舵を切る」


 言われて舟の外に目を向けてみれば、いつの間にやら木行区を渡り切り水行区に差し掛かろうとしていた。

 なるほど。このまま戦い続けていれば堀の壁に激突だったということか。


「あ、ああ。仕方ねえな」


 俺は内心で安堵しながらに強がりを口にする。

 甲蔵爺さんは先程まで俺をしばき倒すのに使っていた櫂を、再び水の中に差し込み本来の使い方で舟を動かす。

 さて、今のうちに吐いとこ。

 胃の中のものを盛大に吐き散らしながら俺は対案を考える。

 とにかく問題はこの足場だ。こっちはまともに直立もできない。一方であっちは歴戦の船乗り。体幹がぶれる気配がまるでない。

 その上で戦い方は嫌に堅実で隙がない。じわりじわりと確実に俺の力を削ぎ取ってくる。

 あれだけ有利な場面にもかかわらず勝ちに逸るどころか冷静に周りの状況を把握していた。付け入る隙が全くない。


「さあ、もうよいぞ」


 結局、まともな案を思い付かないままに束の間の休戦協定は解かれた。

 おかげで大分回復できたが、半端に冷静になったせいで悪い考えばかりが頭を支配する。

 どうする。どうする。


「来ないのならば、こちらから」


 水という鞘から引き抜かれた櫂が襲い来る。俺はとにかく無暗に動くのをやめて迎撃に備える。

 だが本差しでやっとの一撃を脇差しで受け切れるはずもなく、いともたやすく後退させられる。

 重心が動き舟は揺れる。構えが崩れる。そこを逃さず相手は仕掛ける。

 今度はそこまで大きく体勢が崩れていたわけでもないので何とか躱したが、やはり十全な回避には程遠い。

 わずかでも動けばどうしても舟の揺れで体も傾く。駄目だ。このままじゃさっきの二の舞。

 とうとう諦観が俺の脳裏に過り始めた――そのとき。

 真黒い影が俺と甲蔵爺さんの間に割り込んだ。

 影はそのまま甲蔵爺さんの不意を突き一撃を加える。

 反撃に転じようと櫂を振り被る甲蔵爺さんだったが、侵入者の姿はすでになく何と舟の外へと身を投げ出していた。


「お、おい! 琥珀こはくっ!!」


 俺は堀へと転落した黒装束の名を叫ぶ。

 ところが、俺が視線を向けたときにはまたも琥珀の姿はそこにはない。

 何と俺の隣を横切って再び船上に飛び乗ると、やはり先程と同じく甲蔵爺さんに一撃を加え、またしても反撃の届かぬ船外へと姿を消す。

 これがひたすらに繰り返される。この驚くべき光景を可能にしているのは琥珀が使う二つの忍具――水蜘蛛みずぐも鉤縄かぎなわ

 足につけた水蜘蛛によって水上での一瞬の踏み込みを作り、舟の縁に引っ掛けた鉤縄で己の体を引き上げる。

 なるほど。舟の外に出てしまえばどれだけ揺れようと影響はない。こんな攻略法があったとは。

 まあ、俺にはどうしたって真似できない攻略法だが。というか、身軽にも程があるだろ。

 琥珀の一撃一撃は正直軽い。しかしこうも連続で畳み掛けられては堪らない。

 ついにその大樹のような足腰が揺らぎ始めた。その隙を逃さず琥珀は爺さんの足元の舟板を叩き割り、だめ押しとばかりに腹部を苦無の柄で殴り付ける。

 さしもの甲蔵爺さんも落ちたようだ。がっくりと力なくこうべを垂らす。

 どうやら何とかなったみたいだな。――と俺が一心地ついたのも束の間、琥珀は何と苦無を反転させるとその刃を甲蔵爺さんの首元に向けた。


「ちょっと待て、琥珀!」

「邪魔だ。どけ」

「それ以上はやり過ぎだ。そもそもお前、どうしてここに――」


 慌てて止めに入った俺に対し、琥珀は苦無の矛先を今度はこちらへと変えた。

 いや、今度も――か。三度目ともなっても、俺の体は依然恐怖に震える。

 そんな俺に琥珀は冷淡な眼差しを向けた。


「半端な覚悟でこれ以上こちら側に踏み込むな」


 その、確かな『覚悟』がこもった言葉に俺は何一つ言い返すことができない。

 そのとき、俺の緊張を緩和するお間抜けな音が夜空に響いた。


「な、何だ? あの汚ねえ花火は?」

「ようやくか。本当に鈍臭い男だ」


 花火かどうかも怪しいような、ともかくしょぼい音と光を確かめると琥珀はなぜか苦無を引いた。

 どうやらあれは何かの合図だったようだ。


「狛走 十字郎」


 そして初めて俺の名を呼んだ。


「次に半端な覚悟で俺の前に立ってみろ。そのときは必ずお前を殺す」


 そんな捨て科白とともに琥珀は船外へと消える。もちろん、今度は鉤縄の先を舟縁ではなく対岸に引っ掛け撤退した。


「………………」


 琥珀がいなくなっても、俺はその場から一歩も動くことはできなかった。

 首元にはまだ、琥珀の苦無の残滓ざんしがこびりついている気がした。


「半端な覚悟……か」


 琥珀の言葉を反芻はんすうしていた俺の思考を、不意に聞こえてきた物音が遮る。

 見れば、甲蔵爺さんが意識を取り戻していた。どうやら甲蔵爺さんの鋼の肉体には、やはり琥珀の攻撃は軽すぎたようだ。

 といっても、全く影響がないということもないはず。


「おいおい、まだやる気かよ。いい加減、大人しく捕まっとけ」


 俺は自分の保身半分、甲蔵爺さんの心配半分で声を掛けるが、今更この爺さんがこんな言葉で止まるはずもなかった。


「お前にだけは……捕まるわけにはいかん」

「俺にだけは?」

「そうだ。あの男の息子の……お前にだけは」

「っ!!」


 朦朧もうろうとした意識からの油断か、ともかくようやく甲蔵爺さんの固い口から洩れた親父の情報に俺は飛び付く。


「どういうことだ? 親父とあんたとの間に一体何があった?」

「あの男は――『かわって』しまった……」

「かわって?」


 その意味を再度問い直そうとするも、甲蔵爺さんはお喋りは終わりとばかりにすでに櫂を構え直していた。

 くそっ。結局、琥珀が乱入する前と状況は全く一緒だ。あいつの戦法はやっぱり真似のしようがないし。

 そのとき、思わず後退した俺の足にカランッとある物体がぶつかって音を立てた。それを見て俺は咄嗟に閃く。

 甲蔵爺さんのお決まりの唐竹割りを俺は脇差しで受け止める。

 このまま揺れる足場に体勢を崩されればこれまでと同じだったが、今度の俺の体幹はぶれることはない。なぜなら――。


「二刀かっ!」


 そう。さっきのごたごたの間に俺の本差しはいつの間にか足元に転がっていた。

 それを拾い上げ、一本を迎撃に。もう一本を三本目の『脚』として甲板に突き刺したのだ。

 足場さえまともならこっちのもの。片手打ちになっちまうが、それでも甲蔵爺さんには力負けしない自信がある。

 俺はようやくまともに甲蔵爺さんに一撃を叩き込むことに成功する。


「くだらん」


 ところが甲蔵爺さんはそんな俺の浅知恵を容易く打ち破ってきた。

 俺の間合いから出ると櫂を堀の中に突っ込み思い切り振り切ったのだ。


「おうわっ!」


 舟はこれまで横方向に揺れていたが今回は縦の揺れ。

 俺の作戦はそちら向きの揺れには対応できなかった。俺は呆気なく前方に倒れ込む。

 だが、支柱に使っていた刀も全くの無駄ではない。こいつのおかげで完全に倒れるのだけは何とか防げた。

 甲蔵爺さんもすぐには仕掛けてはこれない。櫂を水中から引き出している間に、俺は何とか体勢を整える。

 止めとばかりに一際勢いを伴って襲い来る櫂。俺は無我夢中で二本の刀を前へと振る。

 くそっ。やっぱりちょっと遅いか。

 甲蔵爺さんの櫂が先に届きかけた刹那、なぜかその動きがわずかに鈍る。


「ここだぁ!!」


 その間に俺の二刀が甲蔵爺さんの鳩尾に炸裂した。

 甲蔵爺さんの体は宙に浮き、船尾側へと吹き飛ばされる。

 今度こそは当分、起き上がってはこれないだろう。


「ふう。何とか勝ちを拾えたか。手強い爺さんだったぜ」


 それにしても、最後にどうしてあんな隙を――。

 俺は疑問に思いながら、甲蔵爺さんの視線が何となく後ろの方に逸れていたのに気付き振り返った。

 そうして眼前に飛び込んできたものにその答えを知る。

 玄武橋が今にも手が届きそうな距離まで迫っていたのだ。

 そうか、甲蔵爺さんはこれに気付いて舟を止めようと――ってそんなこと考えている暇もねえ!

 よりにもよって、さっき舟は加速したばかり。この勢いでぶつかったら一溜りもない。


「おい、爺さん! 起きろっ! 起きてくれ!!」


 俺は必死に甲蔵爺さんを揺り起こそうとするが、まるで気付く様子はない。


「だ、駄目だ……。もう間に会わねえ」


 ぐっ、南無三――俺は目を固く閉じ終わりを悟った。

 続けて襲い来る衝撃。船体は大きく振動する。だが、どういうわけかそれはすぐに治まった。

 何が起こったんだ? 俺は恐る恐る目を開けた。

 すると舟は橋にぶつかる寸前で止まっていたのだ。


「え、あ、あれ?」


 助かったことよりも不可解さに当惑してしまう。

 そのとき、俺は玄武橋の橋桁に何者かの人影があるのに気付いた。

 見間違えようもない巨体。そこにいたのは北の城門守護四士じょうもんしゅごしし――船島ふなしま 巌流がんりゅうだった。

 両腕を広げ船首を抱え込むような体勢で硬直している。

 いや、まさかとは思うが。でもそれしか考えられない。

 あの野郎、体一つで舟の激突を止めやがった!


「化物だらけかよ、この町は……」

「誰かいるのか?」


 思わず零れた微かな声に巌流は鋭く反応した。

 まずい。ここで見つかると色々と面倒だ。早く隠れないと……って、隠れる場所なんかねえよ。

 一難去って、もう今日はこれで何難目か分からないが、ともかく今度こそは逃げられないか。

 ついに観念した俺の耳に、それまでの巌流からは考えられないような、柔らかい声音が届く。


「参ったな。月が隠れて何も見えん」


 まばゆい月光に照らされる中で、巌流が俺を見逃してくれたことに気付いたのは大分経ってからだった。


            ◆


「それでお兄様。甲蔵様の処分はどのようになるんでしょうか?」


 全身ボロボロの状態で何とか狛走家まで戻り着いた俺は、千和の手当てを受けながら事の顛末を話していた。


「どのようにもならないんじゃないか。結局、幕府としては寺子屋を壊されたこと自体が失態になるわけだし、その犯人をどうしょっぴいても町民の不信は募るだろうからな。

 寺子屋倒壊は事故として片づけるはず――だから、理由がなくなる以上は甲蔵爺さんにも罰を下せないはずだ」


 つまり今回の件で俺は幕府の弱みを握ったことになる。巌流が俺をあの場で見逃したのは口封じ代ってわけだ。


「そうですか。何だか今一つ釈然と致しませんわね」

「確かにな。でもまあ、あの爺さんをどうしたところで壊れた寺子屋が元に戻るわけでもないし、俺は一発ぶち込めたからもう満足だ」


 千和はそれでもまだ納得のいってない様子だったが、気持ちを切り替えるためにだろう自分から話題を変えた。


「それにしても、お兄様。たったあれだけの情報でよく甲蔵様が犯人だと分かりましたわね」

「ああ。それは簡単だよ。昔、親父に似た話を聞いたことがあったんだ」


 十年前。俺は親父から事あるごとに武勇伝を聞き出そうとしていた。

 その中の一つに今回の事件とそっくりのものがあったのだ。


「十年前って親父は言ってたから、今から数えて二十年前か。ある漁師が今回と同じ手口で寺子屋を倒壊させたって話。もちろん、犯人の名前は伏せてたが」

「その漁師というのが甲蔵様?」

「そういうことだろうな。ああ。つまりあれはそういうことか」


 千和に話をしているうちに、俺の中にあった一つの疑問が氷解した。


「何がですか?」

「いや、爺さんが言ってたんだよ。『俺にだけは捕まりたくない』って。二十年前、親父に捕まった過去を息子の俺で繰り返すのが嫌だって意味だったんだろう。

 月がどうとか意味不明なことを言ってたけど、本当の動機は親父が消えた今なら過去の手口をばれずにやれると思ったからなのかも」

「だとしたら不運でしたわね。ちょうど、お父様のお話を覚えてらしたお兄様が戻ってきたときで」

「……ああ」


 そうだ。親父の話を覚えていたから、だ。

 俺は親父の功績の上澄みを掬い取っただけ。やったことは同じでも実態は大きく違う。

 それこそ、本物の月と水に映り込んだ月くらいに。


「お兄様?」


 首を傾げる千和を尻目に、俺は胸中に黒く渦巻く感情の正体をいつまでも探っていた。

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