第五暦・陽 亀の甲 中

「この舟の船頭って誰なんだ?」

「あそこにいる甲蔵こうぞうってジジイだよ」


 浮悌うきやすの指先を辿ると、そこにいたのは文字通りに舟の舳先へさきに立ち、この巨船をあろうことかたった一人、ただ一本のかいで舵を切る豪快な老人だった。


「あの爺さんか?」

「ああ、ただ――」


 浮悌の言葉を最後まで待たず、俺は老人に駆け寄ると周囲への迷惑も省みず大声で言った。


「いきなりすまない。俺は狛走こまばしり 十字郎とおじろう。狛走 一黙斎いちもくさいの息子だ。あんた、土行区に積荷を運ぶ仕事をしてるんだよな? 何でもいい。親父について何か知らないか?」


 これまでは城門守護四士じょうもんしゅごししにしかできなかった質問。

 ところが北は取り付く島もなく南にはのらりくらりと躱されて西と東には未だに会えず仕舞い。

 そんな中で図らずも訪れた好機に俺は逸る気持ちを抑えられなかった。

 甲蔵爺さんは俺の期待のこもった眼差しを、しかし一瞥したきりすぐに前方を向き直す。


「………………」


 それから何事もなかったかのように舵を切り始めた。

 聞こえなかった? いや、今明らかにこっちを見たよな。


「なあ、聞こえてんだろ? 親父は温応おこた城の警備に就いているって聞いたんだが本当か?」

「………………」

「もしかして、幕府に口止めされているのか?」

「………………」

「おい、答えられないなら答えられないでもいいから、せめて何か――」


 甲蔵爺さんはもう俺の方を見向きもしない。

 痺れを切らしてその肩に手を伸ばそうとしたとき、逆に俺の肩に背後から伸びてくる手があった。


「もう止めとけ、十字郎さん」


 浮悌はそう言って周囲を見るよう身振りで促す。

 そのとき俺はようやく船中の注目を浴びていることに気付き、途端に気恥ずかしさが顔を出す。

 結局、守護四士以上に何も引き出せないまま、すごすごと引き下がる羽目になった。


「しかしあの爺さん、徹頭徹尾だんまりだったな。やっぱりあの質問はまずかったのか?」


 集まっていた視線が散ったのを確かめてから、俺は今更ながら後悔の言葉を口にする。


「いいや、そうじゃねえよ。あのジジイは誰に対してもああなんだよ。仕事は確かなんだが逆に仕事に必要なこと以外は一切しねえ。絵に描いたような仕事人間なのさ」

「ふ~ん。公私混同しないのは好感がもてるけどな」


 俺がそう返すと、浮悌は今一度周囲の目を確認してから声を潜めて付け足した。


「それだけじゃねえ。あいつは昔、漁師だったんだが何かの事件を起こして幕府に仕えることになったって噂だ」

「何かの事件って?」

「さあ。そこまでは知らねえけど。本人の雰囲気とも相まってどことなく不気味だから、俺はあのジジイあんまり好きじゃねえんだよ」


 それから浮悌はこの話はおしまい、とばかりに頭の後ろで手を組んで船の縁に体を預けた。

 俺はもう一度、気付かれぬように甲蔵爺さんの顔をうかがう。

 確かに頑固一徹で近寄りがたそうな雰囲気はあるが悪人には見えない。

 まあ、悪人に見える悪人がどれだけいるのかという話だが。

 そんなことを考えている間に、舟は早くも丑の処を横切って子の処に差し掛かった。


「うん、待てよ。おい浮悌!」


 俺は目前に現れた異常に気付き浮悌を揺り起こす。


「何だよ、十字郎さん。どうしたってんだ?」

「どうしたもこうしたも、このままじゃ舟が玄武橋に激突しちまうぜ。もしかして四分の一区間ごとに舟を乗り変えるのか?」

「何にも知らねえんだな、十字郎さんは」

「何にもは知らなくねえよ。知らないことだけだ」


 浮悌は溜息混じりに、今日何度目かも分からない説明を何だかんだで丁寧にしてくれた。


「舟は乗り変えねえよ。確かにこの舟の大きさだと橋の下は潜れねえが、実はあの橋は跳ね橋になっているのさ」

「跳ね橋?」

「ああ、見てれば分かるぜ」


 言われた通りに見ていると舟は減速し始め玄武橋の手前で停止した。

 それから甲蔵爺さんは舟から飛び降りると、橋の下を何やらいじり出した。

 やがて玄武橋はゆっくりと中央から二つに割れ始めた。


「これが跳ね橋か」

「そう。ちなみに東西南北の橋のうち、朱雀橋だけは跳ね橋じゃねえんだ。もちろん最初に作ったときは跳ね橋だったんだが、楠永くすながが勝手に改造したせいで――」


 橋が上がるのを待つ間に浮悌の捕捉説明が始まっていたが、俺の意識は別のところに引っ張られていた。

 他の乗船者は慣れたものとばかりにめいめいにくつろいでいたが、ただ一人俺と同じように甲蔵爺さんを見つめていた男がいたのだ。

 その姿はひどく目立ち、自然と俺の目が次に追ったのはその男だった。

 そして驚いたことに俺はその男を知っていたのだ。頬がこけ飛び出した無精ひげを生やした鼠のような風貌。

 乾座の裏口、それから子の処の長屋と俺は二度この男の顔を見ている。

 単なる偶然……と言えばそれまでだが。


「おい、十字郎さん! 聞いてんのか」


 そのとき浮悌の声に俺ははっと我に返る。


「あ、悪い。聞いてなかった」

「まったく。誰のために説明してると思ってんだよ」

「だから悪かったって。ちょっと知っている顔を見かけたもんで――」


 俺はもう一度、あの男がいた場所に視線を戻したがすでに男の姿はなかった。


「知っている顔って?」

「いや、本当に顔を知っているだけの奴なんだけど」

「何じゃそりゃ」


 それから浮悌と無駄話に花を咲かせている間に舟は戌の処に到着する。

 出たのは朝だったのに気付けば日が暮れかかっていた。


「今日はありがとな、本当に」

「いいってことよ。それじゃあまたな、十字郎さん」


 夕日のせいか、謎の名残り惜しささえ感じながら俺は浮悌と別れの言葉を交わす。

 ああ、そうだ。最後に言っておかなければならないことがあるんだった。


「なあ一つだけ教えて欲しいんだけど」

「何だよ、またか。もういいぜ。何でも聞いてこいよ」

「いや、大したことじゃないんだがな。お前、このまま申の処の自分の家に戻るのか?」

「いいや、家には寄らず未の処まで乗っていくつもりだぜ」


 やっぱりな。


「浮悌。お前、まだら市場で――」

「ああ――!!」


 気付いたみたいだな。最後の最後で俺からも一つ教えることができたみたいでよかった。

 そう、浮悌は俺の買い物に付き合っているうちに自分の買い物のことをすっかり忘れていたのである。

 てっきり諦めて手ぶらで未の処に向かうのかと思っていたが、そんな俺の想像を彦田浮悌は悠々と越えてきた。

 何と出航直前の船から飛び降りると、水行区目掛けて全速力で駆け出していったのだ。


「まさかそこまでするとはな……」


 俺はもはや感心さえしながら狛走家の門を潜る。


「お帰りなさいませ、お兄様。お茶葉は買えましたか?」

「ああ、茶葉も味噌も塩も米も醤油も酢も買ってきたよ。これお釣りな」


 俺は千和に余った銭を渡すと、次に買ってきたものを運び込むことにした。


「千和、これはどこに置いたら――」


 指示を仰ごうと千和を見ると、どうしたわけか俺から銭を受け取った姿勢のまま目を丸くして固まっていた。


「どうしたんだ?」

「いえ、正直驚いておりますの。お兄様がこんな上質で、それも私が普段から使っているものをこの金額に収めて買ってきてくださるとは思っておりませんでしたから」


 俺は妹にどれほど見くびられているのだろうか。いや、実際に一人じゃこれを買い揃えられなかったのは事実だが。


「実は浮悌に会ってな」

「ああ、それで」


 その一言で千和はすべてを察したようで今度は俺が逆に驚かされた。


「いや、まだ終わってねえよ。浮悌の奴が意外にも市場に大分詳しくてな」

「そんなことは存じておりますわよ。さてお兄様。お疲れ様でした。今度こそお茶を淹れて差し上げましょう」

「………………」


 よかったな、浮悌。お前の好感度はそれほど低くもなさそうだぞ。

 俺としてはちょっと複雑だが。

 千和がお茶を淹れてくれている間に今度は寺子屋の現状について報告した。


「ってな感じでな。まあ巌流始めみんな復旧を頑張ってたけど、寺子屋再開の目処はまだまだ立ちそうもないな」


 せめて手伝いをさせてもらえればこのもどかしさもいくらか解消できるんだが、肝心の巌流に嫌われている現状では無理な話だった。


「心配なさることはありませんわ、お兄様。きっと何とかなります」


 俺の悩みを何のそのとばかりに千和は楽天的なことを言う。


「何とかなるって、何の根拠があってそんなこと」

「だってほら」


 千和はお茶を淹れ終わった湯呑を俺に差し出しながらその『根拠』を示した。


「お兄様の湯呑に茶柱が立ってますから」


 確かに、並々と注がれたお茶の中心で一本の茶柱が浮き沈みを繰り返していた。

 いや茶柱って……そもそもそんなものを根拠にする時点で能天気過ぎると思うが。

 しかし今日一日で何度も何度も同じことを考えあぐねている俺にとって、千和のお気楽さは見習うべきものなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は妹に淹れてもらったお茶を早速口にする。

 垂直に立っていた茶柱は当然ながら湯呑の傾きに合わせて倒れ、俺が茶をすするとその流れに乗って口元に運ばれてくる。

 危うく口の中に入れそうになって慌てて湯呑を口から離した瞬間、俺の中に閃きの電光がほとばしった。


「そうだ。昔親父が……」

「どうされました、お兄様?」


 心配してくれる千和をよそに俺は思考を進めた。


「この湯呑、お茶が減ってる」

「それはお兄様が飲まれたからですよ。あの、本当に大丈夫ですか?」

「いや、そうじゃなくて。玄武橋……寺子屋……後はあの先には確か……分かった! かもしれない」

「えっと、何がでしょう?」


 千和からの問いをまたも無視して、俺は己の中に沸き起こる衝動のままに駆け出した。


「ちょっと出掛けてくる!!」


 それだけ言い残して俺は一目散に走った。

 今ならまだ間に合う。

 俺は金行区を南下して火行区方面へ、浮悌に教えてもらった名前で言えば逆暦の経路を進む。

 そう、甲蔵爺さんの乗った舟を追いかけたのである。

 しかし予想以上に舟は動いていた。

 息も絶え絶えで追い付いたときには火行区を端から端まで走り切り、日もすっかり暮れていた。

 すなわち、俺が今いる場所は火行区の巳の処。

 ちょうど、朱雀橋を跨いで(これだけ跳ね橋じゃないんだったな)舟を乗り変えたところだった。


「おい、ちょっと! ちょっと待ってくれ!!」


 甲蔵爺さんは舵を切ろうとしていた矢先、目の前に現れた俺を見てその固い口をようやく開く。


「夜間は人の送迎はやっとらん」


 それは浮悌から聞いて重々承知していた。

 だからこそ日が沈む前に追いつきたかったのだが、ここではいそうですかと引き下がるわけにもいかない。


「固いこと言うなよ。せっかく人が面白い話を持ってきたっていうのに」


 俺の言葉に甲蔵爺さんの鉄面皮がわずかに興味にうずいた、ように見えた。

 その変化を逃すまいと俺は畳み掛ける。


「寺子屋倒壊事件の犯人があんただって話さ」

「………………」


 数瞬の沈黙の後、甲蔵爺さんはくいっと顎を上げ俺の乗船を促した。

 そして舟が動き出したのを見てから俺は自分のたどり着いた真相を口にする。


「さっきも言ったが今、水行区を騒がせている寺子屋周辺の地盤沈下。あれはあんたの仕業なんだろ?」

「………………」


 甲蔵爺さんは黙々と舟を漕ぐ。まあ、ここですんなりと自白するとは最初から思っちゃいないが無反応は予想外だ。

 なら反応せずにおれないようにするまで。俺は返事を待たずに独り言のように推理を続ける。


「巌流からあれが人災だって話を聞くまで俺はちっともそんな可能性は考えなかった。あれを人間の力でできるとは到底思えなかったからだ。

 ただ何か別の力を借りればどうか? 例えば跳ね橋の動力とか」


 舟は火行区を過ぎ、堀の角を折れて木行区に入る。

 それからほどなく見えてくるのは東門とその前に掛かる青龍橋だ。

 昼間、北の玄武橋を前にしたときと同様に舟は一旦静止する。


「舟が橋の下を通るとき、跳ね橋を上げるのはあんたの仕事だ。今ちょうどやっているように」

「跳ね橋の力を使い」


 顔色にも声色にも変化は見られないが、甲蔵爺さんは俺の話にやっと反応した。


「寺子屋を壊すと言っても具体的にどうする?」

「そうだな。寺子屋の大黒柱に縄でも巻きつけて、それを跳ね橋の力で巻き上げたらどうだ?」


 俺の幼稚な発想を受けて甲蔵爺さんの仏頂面が失笑に変わる。


「馬鹿を言え。百歩譲ってそれでうまくいくとして、そんな長いものが横たわっていて誰も気付かないはずがなかろう」


 その完璧とも言える振りに、俺はしてやったりとばかりに用意していた言葉をぶつける。


「道の上なら確かにそうだな。だが、道の下ならどうだ?」

「………………」


 甲蔵爺さんは再び沈黙するが、それまでの沈黙とは意味が違うはずだ。


「このお堀の水は木行区の卯の処にある跳月山はねつきやまって山から流れる賀ノかのかわって川から水を引いているらしいな。

 そして、給水用の水門はここ青龍橋の跳ね橋の上げ下げによって開閉する仕組みになっている」


 ちょうどそのとき、跳ね橋が上がり切り堀の水がわずかに増した。

 甲蔵爺さんは一旦舟に戻り橋の下を通過させると、再び跳ね橋を下ろし始めた。

 それを待つ間に俺は話を続ける。


「で、排水の方はどうかといえば玄武橋下の水門で同じようにしているそうだな。排水先はこの町の唯一にして最大の港――出水港いずみこう

 そのために子の処には港(海)と橋(堀)を結ぶ地下水路がある。そして、寺子屋はこの地下水路上にくる位置関係にある」


 子の処の中心を真っ直ぐに貫く地下水路。これが道の下に横たわる見えない『縄』というわけだ。


「あんたは前回の洪水で寺子屋が壊れたとき、工事のどさくさに紛れて地下水路に細工したんだ。寺子屋の真下で水路が滞るようにな。

 後は港が荒れている日を選んで普段は調節する跳ね橋を全開にするだけ。

 そうすれば排水用の地下水路を水が逆流し、茶をすすったときの茶柱のように寺子屋の柱を倒せるって寸法だ」

「確かに面白い話だ。しかし、儂がそれをやったという証拠があるのか? 

 そして仮にあの日、儂が必要以上に水門を開けてしまったのだとしてもだ。それが事故ではなく故意であったと如何にして証明する?」


 甲蔵爺さんのもっともな弁明にも俺は返す手をすでに用意している。


「言っただろ。あんたがやったことはもう一つ。寺子屋真下の地下水路の細工だ。水路が滞っていたのも事故だったってあんたは主張するんだろうが残念だったな。

 人為的に細工した跡を見つけているから巌流にはあれが人災だって分かったんだ。

 巌流は人員の配置や仕事内容の把握に余念がない。あれがあんたの仕業だって分かるのは時間の問題だぜ」

「………………」


 俺の渾身の手を前にして甲蔵爺さんに更なる反撃の芽は残されていなかった。

 反論の兆しが消えた甲蔵爺さんに、俺は今回の事件の動機を問い質す。


「何でこんなことをした? やっぱり、長年こき使われた幕府への仕返しか?」

「いいや。この仕事は存外気に入っている」

「じゃあ何で?」


 他に一体どんな理由があって甲蔵爺さんが寺子屋を壊そうと思ったのか、俺には皆目見当がつかなかった。

 それもそのはず、甲蔵爺さんがそのしわがれた声で次に発した言葉は想像を絶するものだった。

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