第五暦・陽 亀の甲 上

「おっ、ようやく晴れたみたいだな」


 およそ一月ぶりとなる青い空を仰ぎ見て俺は大きく伸びをする。


「あら、ついに明けましたか?」


 縁側に立つ俺の横合いから千和ちわがひょっこりと顔を出した。

 そのまま俺たちは久方ぶりの陽光に感激すら覚えながら、並んで腰を下ろした。


「今年の梅雨は本当に長かったですわね。ずっと終わらないのではないかと思うほどでした」

「ただ長いだけならいいんだがな。ろくに外出できないほどの豪雨が続いて気が滅入るったらなかったぜ」

「まあ、その程度で済んだことも幸いに思いませんと。水行区の被害に比べれば金行区こちらは平和なものですわ」


 千和の言う水行区の被害とは今回の長梅雨に伴って起きた地盤沈下のこと。

 元々、あのあたりは三か月前に川の氾濫もあり地盤が緩くなっている状態だったらしい。

 先の水害の復旧がようやく落ち着きを見せたところでの今回ということで、確かにそれを思えば俺たちは幸せ者だ。


「子の処の寺子屋なんて建て直したばかりだというのにひどく壊れてしまったとか」

「ああ。竹恵たけえさんから聞いたぜ。『せっかく娘を通わせようとした矢先だったのに』って悔しがってたな」


 そういえば、あの子――いたちもきっと子の処の寺子屋に通っているはずだ。

 寺子屋さえ再開すれば、あんな風に一人寂しさを抱えることもなくなるだろうに。


「お兄様。いつまでもじめじめした気分を引きずっていては、せっかくの天気も意味をなくしますわよ」


 俺が暗い顔をしているのに気付いてたか、千和は努めて明るい声を出しながら立ち上がる。


「お茶でも淹れてきますわ。それで心もすっきり晴らしましょう」


 そう言って、千和は台所の方へ向かう。

 そうだ。確かに千和の言う通り。俺が頭を抱えたところで天の采配さいはいばかりはどうすることもできない。

 起こってしまったことをあれこれ考えていてもせんの無いことか。

 と、俺が水行区のことについては諦めて整理をつけようとしたとき。


「あ~、たいへんですわ~」


 台所から千和の叫び声が聞こえてきた。どことなくわざとらしい叫び声が。


「……何だ? どうした?」


 いかにも聞いて欲しそうだったので俺は暗黙の要求に従い質問する。


「お茶葉を切らしてますの」

「ああ。梅雨で閉じ込められて長いこと買い物にも行けてなかったしな」


 一体何事なのかと思いきや予想以上にどうでもいい答えだった。

 しかし千和はいかにも一大事といった真剣な表情で続ける。


「ええ。今すぐ買ってこないといけませんわ。お兄様のためにお茶が必要ですから。お茶を飲まないとお兄様はうじうじしたままですから」

「いや別に……」

「でも私にはお洗濯を始めお家の仕事をたくさんやらないといけませんの。ですから買い物には行きたくてもいけませんの」

「だからお茶なんて急がないから……」

「ああ。こんなときに代行屋がいてくだされば買い物を頼めますのに」

「………………」


 いや普通に頼めよ。俺、普段から結構家事手伝ってるぜ?

 何かそんな言い方されたら俺が代行屋を理由にいつも家でゴロゴロしてる実質無職のろくでなしみてえじゃねえか。

 それとも何だ。丸っきり依頼が入ってこない俺を気遣ってこんな大根芝居を打っているのか?


「俺が代わりに行ってこようか?」


 妹の意図が分からないまま、言って欲しい言葉は嫌というほど分かるのでまたもそれに従う。


「本当ですか? 流石お兄様ですわ」

「いや全然、流石っていうところがないと思うけど」

「それではお願いします。お茶葉と……お味噌とお塩とお米とお醤油、それとお酢も」

「随分一片に買い込むな!」


 つまりあからさまな力仕事を押し付けるのは気が引けるから遠回しに頼んだってことか?

 別にそれでも普通に頼んでくれてよかったけどな。力仕事は得意だし嫌いでもない。


「分かったよ。しかしそれだけ揃えようと思ったら丑の処のまだら市場に行くのが手っ取り早いな」

「ええ。ここからですと『水行区の子の処にあります寺子屋の前を横切って』行く市場ですわね」


 なるほど。俺はようやくのこと千和の狙いが分かった。


「なら、行ってくるぜ。戻るのは少し遅くなるかもしれないけどな」


 その気遣いに感謝をしつつ、しかしやはり演技の拙さに呆れつつ俺は千和の描いた絵に乗っかる形で屋敷を出る。

 そして水行区の子の処――その中で中心部に位置する寺子屋の跡に到着した。


「話に聞いていた通り……いやそれ以上だな」


 原型を全く留めていない完全倒壊。周辺の地面は目算で五・六尺近く陥没していた。

 怪我人や死人は出ていないという話だったからもっと軽微な被害を予想していたが何ともひどい。

 埋め立て作業が必死で行われているが中には夜通しで作業している者もいるのだろう。彼らには明らかに疲れが見て取れた。

 この様子だと寺子屋の再開はいつになるか分からないな。

 俺は再び市松いちまつ 梅子うめこやいたちの顔を思い起こす。

 彼女たちのために俺ができることなど何もない。

 そう割り切ったつもりだったがもしも寺子屋の復旧を手伝うことで力になれるのならば、俺は労を惜しむつもりはなかった。

 生憎、力仕事は嫌いじゃない。

 よし、そうと決まれば善は急げだ。

 俺は陥没地に足を踏み出そうとした、そのときだった。


「そこで何をやっている?」


 重くて固い、冷淡な声が俺の鼓膜を震わせた。

 そこにいたのはこの水行区を統べる北の城門守護四士じょうもんしゅごしし――船島ふなしま 巌流がんりゅうその人だった。

 相変わらず目の前にいるだけで圧し潰されそうなほどの重圧を感じる。


「何って水行区が地盤沈下にあったって聞いたからな。復旧作業を手伝おうと思っていたんだよ」

「ふん。代行屋は随分と暇らしいな」


 全く期待はしていなかったが巌流は感謝の色一つ見せることはなく、どころかかなり傷付く言葉をぶつけてきた。


「ひ、暇じゃねえよ。今だって依頼を受けているところだぜ」


 依頼者は身内だけど。ぶっちゃけただのお遣いだけど。


「ならば貴殿は貴殿の仕事に専念することだ」

「そうしたいのは山々だがな。こんな疲れ切った連中をこき使っている状況を見て何もしないほど、俺は人でなしじゃねえんだ。どこかの誰かと違ってな」

「それはどこの無能のことかな?」


 巌流がさっと手を上げると、たちまち大量の若者たちが復旧の現場になだれ込み作業の引き継ぎを始めた。


「人手は十分に足りている。労働時間や健康状態の管理体制も問題はない」

「……まあ、さっきの発言は取り消すがそれでも何か手伝えることが――」

「ない。むしろ勝手に場を荒らされては迷惑だ。それとも十字郎殿には、どうしてもここに近付きたい理由でもあるのかな?」


 巌流は意味深にいぶかしむようなことを言うが、何を言いたいのか俺には全く分からない。


「どういうことだ?」

「何。犯罪者は現場に戻ってくるとよく言うからな」

「ますます分からねえよ。はっきり言え」


 焦らしてくるような巌流の言葉に俺は痺れを切らして問い質す。

 次の瞬間、巌流は驚きべき言葉を口にした。


「この事件は天災ではなく人災だということだ」

「は? 人災……だと? これが?」 


 俺は今一度、陥没している地面を見る。これを人の手でできるとは到底思えない。


「何言ってるんだ? こんなものをどうやって、いやそもそも何で寺子屋を壊すんだよ? そんなことをして何の得がある?」

「幕府の権威を失墜させるためだろう。ここは水行区の中心。まして子供の集う場を守れぬとあれば、幕府への町民たちの不信が募ることは必死」


 正直、巌流の話は根拠のない絵空事にしか思えず俺には付き合い切れなかった。


「で、俺がそれをやったってか。馬鹿馬鹿しい。証拠でもあるのかよ」

「私が何も知らないとでも思っているのか?」


 俺はどきりとした。もちろん寺子屋倒壊事件にはまったく関与していないが、同じくここ子の処にある北門に侵入未遂をした前科はあったからだ。

 もしそれがばれかけているとすれば。俺は動揺を悟られぬように何とか平静を装う。


「何の話だ?」

「ふん。ともかく私は幕府に歯向かうものには容赦はしない。それを肝に銘じておくことだ」


 前回と似たような忠告を残して巌流は現場指揮の仕事に取り掛かり始めた。

 俺は一先ずほっと溜息を吐くと、続けて巌流から聞いた話について思考を巡らせる。

 この事件が人災。それも幕府の権威失墜を狙っての破壊工作。

 これが巌流の妄想でないとするならば俺の中に浮かんでくる人物が一人いた。


「まさか琥珀こはくが……?」


 詳しいことは分からないが、琥珀が幕府直轄の天賀あまが御庭番に反感を抱いていること・何やら色々と暗躍していることは間違いがない。

 だが同時に梅子を助けてくれたあいつが自分の目的とためとはいえこんなことをするとも思えない。

 まあ地賀ちが 琥珀について何も分からない以上、ここから先は考えたって仕方がないか。

 どうあれ、犯人探しにしても復旧作業にしても巌流に任せるより他はないのだ。

 今一つすっきりしないが俺は千和からの依頼をこなすことにしよう。

 そんな風に思考を切り替え市場を目指そうとしたとき、見覚えのある顔が俺の視界を横切った。


「あ~やっと交代だぜ。疲れた~」

浮悌うきやす? お前、こんなところで何やってるんだ?」

「あれ、十字郎とおじろうさん? こんなところで会うなんて奇遇だな~」


 泥だらけの顔に似合いもしない健康的な汗を垂らしながら、彦田ひこた家次男――彦田 浮悌は俺に白い歯を見せた。


「何って復旧作業の手伝いだよ」

「言っちゃあ何だが意外だな。お前、そんな博愛精神に溢れた奴だったのか?」

「いやいやまさか。俺が好き好んでこんなことをやるはずがねえだろ」


 浮悌の言葉に俺はある種の安心感を覚える。

 よかった。やっぱりこいつは俺が知るいつもの浮悌だ。


「じゃあ何だってこんなことを?」

「それがよ~、『女遊びも大概にしろ』って親父にどやされちまって無理矢理ここに放り込まれたんだぜ。ひでえ話だろ」

「うん、確かにひどい話だな」


 というか、あの梅雨の中でも花街通いに精を出していたお前は流石だよ、浮悌。


「まあ、それも何とか一段落ついたけどな。十字郎さんは?」

「俺はただの通り道だよ。この先の市場に用があってな」

「ああ、まだら市場か。あそこに行くんなら都合がいい。俺もちょうど用があったからよ。一緒に行こうぜ」

「それはもちろん構わないが、何の用があるんだ?」

「いやここのところクソ親父のせいで女の子たちのところに行けてないだろ? だからお詫びの品を色々と買っておこうと思ってな」


 親父さんの思いも虚しくバカ息子は全く懲りた様子はなかった。

 未の処の女の子たちにしてみれば、これ以上ないくらいにいいお客さんだがな。

 そんなわけで、俺と浮悌は肩を並べて丑の処のまだら市場に向かうこととなった。

 道すがら気になったことがあったので俺は口に出す。


「このあたりはそれほど被害はないんだな」

「ああ。というか、被害らしい被害はほとんどあそこだけだってよ。まるで寺子屋の周りだけ狙いすましたかのようにずっぽりさ」


 狙いすましたかのように、か。

 巌流から聞いた話を浮悌に振って意見を聞いてみようかと一瞬思ったが即座に思い直した。

 何か色々な意味であまり意味はなさそうだ。

 そうしているうちに俺たちは目的地に到着する。


「さてと、じゃあ俺は工芸品とかお菓子とか売ってるとこにいくからここで一旦別れようぜ」

「お、おう」


 着いて早々に浮悌は俺を置き去りに去っていこうとしたが、寸前できびすを返してこちらへと戻ってきた。


「何だ十字郎さん。そんな雨の中うち捨てられた子犬みたいな目をして。もしかしてここに来るの初めてなのか?」

「……いや、多少不安になったのは認めるがそんな目はしてねえよ。初めてでもねえし」

「あ~あ~強がりはいいから。それ貸してみろよ」


 そう言って、浮悌は俺の手から買い出し内容の書かれた紙を強引に抜き取る。

 それに目を通すとたちまち困惑の表情をにじませた。


「うわ~、これを一片に買いに行かせるとかちわわちゃんも鬼だな。よし……まずこっちだ」

「お、おいちょっと待てよ」


 俺はすっかり浮悌の調子に引きずられる形でその後を追う。

 浮悌は効率よく売り場を回り値引き交渉まで請け負ってくれたばかりか、梅雨明けで混み合う市場の中で俺が逸れないよう手まで引いてくれた。

 何だこいつ。こんなにも頼もしい奴だったのか。それでも妹をやる気はないがな。


「これで全部だな」

「ああ。ありがとな。随分と助かったぜ」

「礼ならちわわちゃんに俺のいいところを話すことでしてくれ」

「分かったよ……」


 それを自分から言わなきゃ完璧なんだがな。


「頼んだぜ。絶対だぜ。それじゃあ帰ろうぜ」

「ああ、戻るとするか」


 そうして俺が元来た道を引き返そうするのを、どういうわけか浮悌は慌てて引き留めてきた。


「おいおい十字郎さん。まさかその大荷物抱えて徒歩で戻るつもりか!?」


 俺は浮悌が何に驚いているのか分からず呆気に取られる。


「もちろん、そのつもりだけど」

「馬鹿だな。金行区に戻るなら堀舟を使えばいいだろ」

「堀舟? 何だそれ?」


 聞き慣れぬ名前を受けて俺は説明を求める。


「堀舟ってのはそのまんま水堀の上を通る舟だよ。逆暦ぎゃくれきのみだが定期的に巡航してんのさ」

「逆暦?」

「逆暦っていうのは十二支を逆に辿る経路のことだよ。ちなみに十二支通りに進むときは順暦じゅんれき


 なるほど。そんなものがあったとは。

 これまではひたすら歩きで町を回っていたから知らなかった。

 流石に将軍様のお膝元だけあって田舎では考えられないものが色々あるぜ。


「おっ、ちょうど来たみたいだぜ」


 言われて浮悌の指す方向を見ると、堀の角から想像していたよりも十倍以上もでかい屋形船が姿を現し田舎者はまたも度肝を抜かれた。


「でかっ!」


 こんな馬鹿でかいものに今まで気付いていなかったとは。水堀の上を通る舟っていうのは盲点だったからな。

 やがて屋形船(万年丸と船体に刻まれている)は丑の処の淵につけられ、俺と浮悌、他の乗船者たちが一斉に乗り込む。

 それから積荷も運び込まれるが、その量もまた規格外のもので俺は目を丸くする。


「こんな大量の積荷どこに持ってこうってんだ?」

「土行区だよ。この舟は元々、土行区への積荷を運搬するためのもので人の送迎は昼間だけの臨時なのさ」

「そうか。一区分の物資やら食糧やらを積み込もうと思えば、このくらいの大きさになるわな……ん?」


 そのとき俺はある事実に気付く。


「ということは、この舟の人間は土行区に立ち入りが許されているってことだよな!?」

「……ああ、まあな」


 俺の言葉に浮悌はなぜか気のない声で応える。

 だが今の俺には浮悌の顔色に気を配る余裕などはなかった。

 重要なのはこの舟に土行区へ入れるもの――すなわち親父に会った可能性があるものが乗っているということだけだ。

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