第四暦・陰 戌の病 下
まさにあっという間の出来事で、千和も同じように感じていたのか差し込む西日に驚いたように言った。
「あら、もうこんな時間ですのね。最後に一か所だけ行きたいところがあるんですけどよろしいですか?」
日暮れまでにはまだいくらか余裕がある。
次が最後というのなら構わないだろうと俺は
千和が訪れた最後の場所。それは何と
一体、こんな場所に何の用があるというんだろう?
今日は
劇場の中に入ると千和はおもむろに舞台に上がった。そして無人の劇場で何やら舞を躍り始めた。
それはいかにも素人の動きでとても客を呼べる代物ではない。ただとても、今日一日そうであったように彼女はとても楽しげだった。
「あの千和さん?」
俺は千和のしたいことが分からず戸惑い気味に話しかける。
「お寅さんもどうですか? 一緒に舞台に」
「はあ」
訳が分からないが俺は誘われるままに千和と共に素人舞踊を披露する。
それも一段落すると千和は息を切らせながらに言った。
「ありがとうございます。お寅さん。私、一度でいいからこの舞台の上で誰かと一緒に芸をしてみたかったんです」
「また来年にでも演武芸大会に出ればいいじゃないですか。時間だって自由だっていくらでもあるんですから」
俺は千和の物言いに少し苛立ちを感じ皮肉気味に言った。
そう、俺には許されていない時間も自由も千和には無限にある。
やりたいことがあるならいくらでもやればいい。
「そう……ですね」
千和は少し困ったように微笑んだ。俺の言葉に棘を感じて
だとしても、これくらいは許して欲しいものだ。
こっちはお嬢様のわがままに一日中付き合ったのだから。
だがいつまでも一緒にいるというわけにはいかない。
俺が約束の時間に遅れては示しがつかない。今度こそ千和に別れを切り出すことにした。
「申し訳ありませんが、そろそろ――」
そのとき、ゴツンッ!と鈍い音が劇場内に反響した。
それが千和が舞台に頭を打ち付けた音だと分かるのに、かなりの時間を要した。
どういうことだ、一体? さっきまであんなに元気過ぎるくらいに動き回っていたのに?
ともかく考えるのは後だ。俺は千和を抱えて舞台から客席に運ぶと応急処置を施す。
昔あいつから……
「大丈夫ですか?」
意識はあるらしい千和に俺は語りかける。
千和は辛そうにしながらも、それでもこんなときでも笑顔を忘れていなかった。
「はい。すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって。ちょっと無理をし過ぎました」
「すぐに医者に――」
「いえ! 大丈夫です。いつものことですから」
「………………」
俺は無言で待った。千和が話すのを。あるいは話さないのを。
果たして、千和は口を開いた。
「十年前にお母様がある病に
それで
「それから一年ほど後です。私がこんな風に急に意識を失ったり胸が苦しくなったりするようになったのは。私は家族のみんなにこれ以上心配事を増やしたくなくて、内緒でお母様を診てくださったお医者様のところへ行きました。その結果は……」
千和は息を呑むようにして言葉を詰まらせたが、やがて続く言葉を紡いだ。
「その結果はお母様と全く同じ病気だということでした。お医者様では完全に治すことはできないと、家族の方とよく話し合いなさいとそう言われました」
「千和さんのお母さんは今は?」
分かっているのに、分かり切っているのに聞かずにはおれなかった。
「亡くなったそうです。ついこの間。ですから、そう私ももって後一年……もっと早いのかもしれませんけど」
俺は何て馬鹿だったんだろう。
女を捨てたとか、普通の人生を諦めたとか、そんな覚悟など千和と比して何と
まして彼女には時間など、自由などあるはずもないのにあんな……。
「お気になさらないでください。お寅さんみたいな素敵な人が私なんかのために気に病む必要なんてありませんもの」
そうか。千和があまり人と深く接しようとしなかった理由。そんな中で俺に話しかけ親しくしようとした理由。
きっと千和はいずれ死んでしまう自分を誰かの思い出の中に残すのが嫌だったんだ。だから家族以外の人間には上辺だけの態度を取った。
そして俺も同じ。理由は違えど、この姿のときは本心を包み隠していた。
お互いに一枚の壁を隔てた上での付き合い。しかしだからこそ寄りかかることができた。
自分の秘密が相手を傷つける心配をしなくてよかったから。だがもうその関係も終わりだ。
千和の壁が取り払われてしまった今、彼女の本心に触れてしまった今。
俺は、俺たちは相手に寄りかかることができない。
「聞いてくれてありがとうございます。できればこの話は誰にもしないでいただけますか?」
「…………はい」
俺は誓った。この日、ここで千和から聞いた話のすべてを、そして千和と過ごした時間のすべてを忘れることを。
「今日はとっても楽しかったです。本当にありがとうございました。さようなら」
千和は最後まで笑っていた。
俺は自分が今どんな顔をしているのか、分からなかったし知りたくもなかった。
ちょうど夕日が半分地平にかかる刻限。忠吉は朝とは違い少しは覚悟を秘めたらしい様子で路地に立っていた。
「決めました、
「ならばお前は家族のことを忘れるということだな」
俺が最後の確認を取ると忠吉はさすがに心苦しそうな面持ちになりながらも、その言葉に淀みはなかった。
「はい。今のままのおらでは家族のところへ戻っても何もできません。彼のように代わりとして立つことさえ……」
彼? 代わり?
俺は忠吉の言葉の意味を判じかねたが、ともかくこの一日の間でこいつの方にも色々とあったらしいことを察した。
忠吉は続ける。
「どのみち、おらはすでに巌流様の意に背いた大罪人。迷惑しか掛けることはできませんから。だから家族のことは忘れます。家族にももうおらのことは忘れてもらった方がいいかと」
「そうだな。もう二度と会うべきではない」
忠吉の答えに対して俺は何も言わないつもりでいたが気付けばひとりでに口走っていた。
「会ったところで、互い辛くなるだけなのだから」
地平に暮れていく日の中を、昼の世界から夜の世界に移り変わる町を、俺と忠吉は無言で後にした。
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