第四暦・陽 子の親 上

 時折、繰り返し同じ夢を見るときがある。

 あまり気持ちのいい夢ではない。

 ちょうど忘れかけた頃、警鐘けいしょうを鳴らすかのようにその悪夢は俺に襲い掛かる。


『じゃあ十字郎とおじろう、俺の代わりに母さんのことよろしく頼んだぞ』

 

 親父が幼い俺に語り掛ける。

 当時の俺にとって、それは一生の宝物に等しい大切な思い出だった。

 だが今となっては永遠に閉まっておきたい、できることなら捨て去りたいガラクタだ。


『十字郎』


 次にお袋の姿が映る。俺の背はいくらか伸びていた。


『あの人は……あの人からの返事は、まだこないのかい?』


 俺は黙って首を振る。

 お袋の体が見る見る小さくなっていき、俺は逆に今の姿に近付いていく。


『十字郎、まだかい? まだなの? あの人は何も寄越してくれないの?』


 俺は首を振って、首を振って、首を振って。そして――。


「っ……! はあ……ちっ」


 自分の現状を確認して俺は思わず舌打ちをする。

 体は寝汗でぐっしょりと冷え、心臓の鼓動だけが場違いに激しい。

 あの夢を見るのは、温応おこた町に戻ってきてから初めてのことだった。

 正直、環境が変わった今ならもう見ないかもしれないとも思っていたが、随分と自分に都合のよい考えだったと思い知る。


「『俺の代わりに』か」


 親父はその言葉にどれほどの意味があるか、分かっていたのだろうか?

 少なくとも、俺はあの日がくるまではまるで分かっていなかった。

 あるいは今でもまだ――。


「って、まずい! 今、何時だ!?」


 俺は身近に迫る恐怖を思い起こして時計を確認する。

 その針が指し示す時刻は正午少し前。

 寝過ごしたとか、そんな次元をすでに通り越していた。


「あれ?」


 予想以上に寝こけていた己の自堕落さに衝撃を受けた後、俺は首を傾げる。

 いつもなら、とっくに千和ちわが強襲してきているはず。

 どうして今日に限って襲ってこないのだろう?

 いや、これじゃあまるで襲って欲しいみたいに聞こえるが、もちろんそんなことはない。

 朝目が覚めて妹の斬撃が来ない。そんな非日常に一種の不安感を覚えているのは確かだが。

 もしかして千和も寝坊しているのか? 春眠暁を覚えずと言うし、たまには兄妹揃ってそういうこともあろう。

 自分の寝坊を取り繕うように、そんな推測を立ててみる。仕様のない妹め。

 千和の部屋は、しかしもぬけの殻だった。


「お~い、千和~。千和~。ちわわ~」


 名前を呼びながら屋敷中を徘徊してみるも返事はなく、俺は千和の留守を確信した。

 次に頭に過るのは千和がどこへ行ったのかだが、これといった心当たりがないことに愕然がくぜんとする。

 実の兄妹きょうだいとはいっても、俺たちはついこの間まで別々に暮らしていて文のやり取りさえなかった。

 その割にはうまくやっているつもりはあったが、俺は千和のことをまるで理解できていないことを痛感させられた。

 俺を起こすことなく書き置き一つ残さないで出掛けたということは、千和は俺に行き先を知られたくなかったということであり。

 つまりは妹が俺のことを信頼しきっていないことを示していた。

 この十年の空白が決して軽いものではないと認めた上で、できる限りそれを埋めたい(親父は別として、だ)と俺は思う。

 しかし、千和が触れて欲しくないものにまで踏み込もうとするべきではないだろう。俺だって隠し事がないわけではないのだし。

 一方で、結局それは理解を放棄し上辺の付き合いをするのに等しい……のかもしれない。

 家族を理解できないでいることがどういう結果を招くのか、俺は先の出来事から学んでいる。


「………………」


 代行屋の仕事は始めてから一週間が過ぎたが、いまだ雑用まがいのことを二三頼まれただけ。

 後は彦田ひこた 錦斗雲きんとうん様から、あんな男の真似事などやめておけ――という忠告を受けたくらい。

 今日も多分、親父に関して何か知れるような仕事が来ることはないだろう。

 よし。俺は本日の店仕舞いを決めると、千和を探しに外へ繰り出すことにした。

 別に会えなければ会えないでいいか、くらいの心積もりでできる限り千和の行方を推測する。

 金行区。戌の処以外で千和が行きそうなのは風見かざみ家のある酉の処か。

 きじのじょうなる人物に会いに行った可能性が……いやない。あってたまるか。

 じゃあ浮悌うきやすに会うために申の処の彦田家に、はないな。間違いなくない。

 火行区。ここに用があるとも思えない。

 木行区。完全に論外。

 となると、残るは水行区。そうだな、あそこかもしれない。

 俺は目的地を定めてようやく動き出す。

 区ごとの特色は前に千和から説明を受けたが、最近になって処によっても細かく分かれていることを悟ってきた。

 亥の処。まだ記憶に新しい演武芸えんぶげい大会で知り合った市松いちまつ家、同じく同大会でお縄になったはぎ家・紅葉もみじ家・牡丹ぼたん家ら、芸能者たちの家が多くある。

 子の処。最も人口が多く、長屋がひしめき合っているところもあれば、豪商の屋敷があったりと様々。

 そして今、俺が目指しているのが丑の処。西側には町一番の市場――まだら市場がある。

 すぐ隣に子の処の大きな港と木行区の山々があるので、新鮮な海の幸・山の幸が揃っている。

 千和は料理に凝っているようで、わざわざこの市場まで出向いて材料の買い出しに赴くことが幾度かあった。その割に味は普通だが。

 そして、丑の処の東側は――。


「ん?」


 ちょうど北門前を通りかかったところで、俺は人だかりができているのを見つけた。

 城門前の人だかり。何となく既視感を覚える。

 千和とは無関係だと思ったが何となく気になったので、俺はその群れの中に入っていく。

 そして、信じられない光景を目にした。

 玄武橋のど真ん中、小さな女の子を相手に大柄で武骨そうな男が拳を振り上げていたのだ。

 俺は必死に人垣をかき分けると、女の子と大男との間に飛び出した。

 大男の拳は止まらない。俺が割り込んだのも構わず振り切ってきた!

 咄嗟にその拳を両手で受け止める。手の平から腕を伝って全身に衝撃が走り抜けた。

 嘘だろ、この男。こんな一撃を女の子にぶつけようとしていたのか?


「…………何の真似だ?」


 やや間を置いてから、大男は口を開く。

 見た目を裏切らない重低音の声。


「貴殿も公儀こうぎの邪魔をしようというのか?」

「公儀だと?」

「そう、そこの娘は下らぬ問いで、ここ水行区を預かる身である私の仕事を滞らせた。故に然るべき罰を与えるべきである」


 眉根一つ動かすことなく、大男は平然と答える。


「水行区を預かるってことは、お前は城門守護四士じょうもんしゅごししなのか」

「如何にも。私の名は船島ふなしま 巌流がんりゅう。北の城門守護四士だ」

 船島 巌流。そういえば北の守護四士に関しては千和から少し聞いていたな。

 厳格な人物という話だったが、なるほど確かに。

 物腰柔らかな楠永くすながに対し、巌流からは色々な意味で硬質的な印象を受ける。

 同じ守護四士ではあっても二人はまるで対極に思えた。


「貴殿はその形姿なりかたちから見て桃侍御三家ももざむらいごさんけ狛走こまばしり家の長男と見受けるが」

「ああ、それがどうした?」

「たとえ金行区の中では名門であっても、ここではそれも通じはしない。私の邪魔をするというのならば、貴殿もそこの娘と同罪だ」


 巌流は俺の後ろを指差しながら言った。

 振り返れば、女の子はいまだにうずくまり小さな体を震わせていた。


「守護四士だから何をしても許されるって言いたいのか?」


 俺がその傲慢さに反目すると、巌流は無表情のままかぶりを振る。


「よいか。誰もが好き勝手に事を成せば、容易に人心は乱れ秩序を失う。

 それを防ぐために城門守護四士が存在し、私はその任を仰せつかっている。

 その私が一町民と気安く口など利いてみろ。守護四士としての威厳は失われ、すなわち水行区の混乱に繋がる。

 貴殿も金行区では彼に次いで上の立場にある。なれば、私の思いも少しは理解できるだろう」

「うるせえ! 金行区だ水行区だ桃侍御三家だ城門守護四士だなんざ関係ねえよ。

 大の男がこんな小さな女の子相手に手を上げる以上に、とち狂った状況なんてあるわけねえだろ!」 


 我慢できずに粋がっては見たものの、俺の両腕はいまだに痺れて感覚がなく刀を握ることさえできそうにない。

 その上で相手は以前完敗を喫した楠永と同格の守護四士。

 敵うわけがないのは百も承知だが、それでもここを退くわけにはいかなかった。

 巌流は俺の目をじっと見つめたかと思うと、初めてずっと平坦を保っていた眉をわずかに吊り上げる。


「親父殿と瓜二つだな。一黙斎いちもくさい殿も以前は斯様かようなことを主張して、よく私の邪魔をした。もっとも――」

「何だ、まさかお前が親父に変なことをそそのかしたのか?」


 俺は巌流の言を遮って、親父が幕府の要職に就いた理由を問い質す。

 今度の巌流の眉はわずかに吊り下がる。


「それならば、まだよかったのだがな。ともかく、妹君には何度言ったか分からないが、今の一黙斎殿には会わない方が身のためだ」


 妹君――そうだ、確か千和も親父のことを何度も守護四士たちに聞いて回ったと言っていた。

 結果はすべて門前払いとも聞いていたが。


「まさかお前、千和にも手を上げたりしたんじゃねえだろうな!?」

「ならば、どうする?」


 俺は巌流の発言に我を失い、痺れたままの拳で殴りかかろうとした。

 そのとき、俺の体は石になったかのようにずっしりと重くなる。

 俺が突き出そうとした右と逆――左肩を巌流が抑えていたからだと分かったのは、このすぐ後だった。

 いや、おかしいだろ? 俺も力には自信がある方だったが、これは次元が違い過ぎる。


「くっ……そ」


 心なしか口を開くのさえ重く感じられた。

 巌流は俺のはるか上から高圧的に、別れの言葉を言い放つ。


「残念ながら私は忙しい身でな。貴殿の相手をしているような暇はもうない。この場はこれで終わりにしよう。

 最後に言っておくが、私は水行区を、そして公方くぼう様に害を及ぼす者に一切の容赦はしない。妙な考えは起こさないことだ」


 すっと巌流の手が肩から離れると、俺の体は途端に勢いを取り戻して前に倒れ込む。

 門の奥へと去っていく巨大な背中を、俺は地に伏したまま眺めるしかなかった。

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