第三暦・陰 人の心 下

 日が沈み、俺たちは闇に溶け込む衣へと姿を変える。

 昼の部で忠吉ちゅうきちがどのように見張りをしていたのかを聞き、そのあまりの杜撰ずさんさに呆れる。そんなやり方では不審に思われて当然だ。

 改めて指導をしたりしながら見張りを継続すること、およそ一時間ばかり。

 楽屋裏から市松いちまつ 竹恵たけえが出てきた。人形も、人間も連れていない、一人きりだ。


琥珀こはく様……!」

「俺だけで行く。貴様は残れ」


 忠吉にそう言い残して、俺は追跡を開始した。

 昼に忠吉でも追えたことからも分かっていたが、竹恵をけること自体は容易かった。

 やがて彼女は路地裏に入り込み足を止める。そこに現れる――白装束の男。

 俺は飛び出したくなるのをぐっと堪えて時を待った。

 竹恵がいる状況で出ていくのは色々と面倒だ。

 二言三言交わすばかりで竹恵と白装束の男はすぐに別れた。

 竹恵は劇場の方へと引き返していく。俺は残った男を注視する。

 だが、男は話が終わったにも関わらず一歩も動く気配を見せない。

 夜の町に一陣の風が吹き抜ける。

 辺りの鯉たちが一斉にはためいて、それが止んだとき辰の忍がついに動き出した。


「出てきなよ、琥珀」


 男は俺の潜んでいる場所を見据えながら静かに言う。

 昔とまるで変わらない、俺の心の一番柔らかい部分に巻きつくような声で。

 俺は観念して、本心では隠れているのに耐えられず、男の前に――天賀あまが 土竜もぐらの前に立ち対峙たいじする。


「しばらくだね、琥珀」

「………………」

「どうしたの、琥珀? 一年ぶりの幼馴染との再会に緊張しているのかい?」


 変わらない。変わらな過ぎる。

 あんな別れ方をしたというのに、この男の中で俺は仲のいい幼馴染のままだというのか。


「気安く名前を呼ぶな」

「今更じゃない? やっぱり緊張しているみたいだね、琥珀。そういえば僕らが七つくらいのときにさ、琥珀が……」


 俺は土竜が言い終わる前に動き出していた。

 いつも通りに苦無の仕舞い口へ手を差し込むと、相手の首元を狙い振り切る。

 土竜はまるで反応しない。する素振りさえない。奴の頸動脈が切り裂かれ血が噴き出す……はずだった。


「何してんの? 空手で振り被ったりなんかして」


 俺の手にはあるはずの苦無がなく、代わりに土竜の手の内に収まっている。


「琥珀さあ、苦無の隠し場所変えた方がいいと思うよ」

「…………返せ」

「ついでに言うとさあ、忍自体もやめて温応おこたから出て行った方がいいと思うんだよね。他のお仲間みたいに」


 かっと俺の中で何かが燃え上がり、その思いの丈を込めて手裏剣を繰り出した。


「うおっ……とっ、とっ、とっ、のわっ!」


 土竜は乱舞する手裏剣を初めこそ回避できていたが、やがて避け損ねて転倒する。

 俺はその隙を逃さず奴の上に飛び乗ると、苦無を奪い返し今度こそ首元へ突きつけた。


「さっき不意を突けたときに仕掛けなかったのは失策だったな。俺はこの一年、貴様を倒すために技を磨き体を鍛え上げてきた。そして今の貴様の動きで確信した。貴様はもはや俺よりはるかに弱い、とな」


 追い込んだ。間違いなく。しかし、土竜の顔からは笑みが消えていなかった。


「口数が多くなってきたね。ちょっとは緊張が解けてきたんじゃない?」

「聞いているのか!? 俺は――」

「うん、聞こえてる聞こえてる。技と体をねえ、でも心は弱いままみたいだね」


 俺は苦無を持つ手を振り上げる。重力と、ありったけの怒りを加えて土竜を突き殺そうとする。

 だが、土竜はあろうことか自ら体を浮かせて苦無に飛び込んできた!


「なっ……!?」


 首に向かっていた苦無の刃はこちらから逸れていく。土竜の覆面を掠めて突き破った。

 少し大人びた土竜の素顔が見えて、俺の体は凍り付いたように固まる。なぜ? なぜ俺は今……? 


「ほうら、ね。僕を倒すため? 殺すためと言い切れない時点で、君の甘さなんて透けて見えてた」


 土竜は俺に完全に体を預けると、血が垂れる右頬を俺の左頬に擦りつける。

 それは生暖かく、ひどく気色悪く、ほんの少し懐かしい感じがした。


「……土竜」

「やっと名前で呼んでくれたね、琥珀」


 俺ははっとして土竜の顔を見た。土竜は優しげに微笑んで、ゆっくりと口を開き――次の瞬間、俺の体を鋭い痛みが走り抜けた!


「――含み針かっ!?」


 しかもしびれ薬が塗布とふしてあったらしく、手先足先から徐々に自由が失われていく。

 まずい。このままでは。


「あははっ。そんなのだから、あのときも僕に騙されたんだよ」


 土竜は動けない俺に何をすることもなく、すでに路地遠くまで離れていた。

 別れ際に一言だけ言い残して。


「じゃあね琥珀。また今度、一緒に遊ぼう」


 それは俺と土竜が別れるときの、お決まりの科白せりふだった。

 あの日だって、あいつはそう言っていた。そう言っていたのに。


「くそっ……」


 この苛立ちは何に対してか?

 痺れが抜けるまで俺は考えていたが、答えが出ることはなかった。

 忠吉に事の次第を報告すべく俺は乾座いぬいざへ戻る。

 すると、見張りを継続しているはずの忠吉が、何と裏口の真ん前で仰向きに倒れていた。


「忠吉!?」


 俺の呼び掛けに忠吉は後頭部を抑えながら、ようよう起き上がる。

 息があったことに一先ず安心する。


「どうした? 何があった?」

「あ~え~…………あっ、こ、琥珀様っ! たたた……大変です!」


 虚ろだった意識がはっきりすると、忠吉はある意味いつものように取り乱す。

 俺はそれをなだめて冷静になるよう促した。


「だから何があったんだ? 落ち着いて話せ」

「そ、それが竹恵様の人形と……娘さんが、盗み出されたのです。お、おらはそれを止めようとして……」

「返り討ちにあった、ということか」


 任務に関係ないことは捨て置けなんて忠告は、この男には無意味であったと俺は今更ながらに痛感した。

 忠吉は俺に縋り付きながら嘆願する。


「彼らは子の処の港へ行くと言っておりました。お、お願いいたします、琥珀様。あの娘を助けて……助けてやってください」

「…………助けてくれ、と竹恵の娘が貴様に頼んだりしたのか?」

「いいえ! 頼みませんでした。おらと目があっても、まるで動く気配もなく。怖いはずなのに無表情のままでした。

 だから……だからこそ、助けなければと! 助けたいと思ったのです! お願いします、琥珀様。どうか、どうか……」


 俺は考える。任務達成のために何が最善か。

 天賀御庭番へ繋がる糸は、今のところ市松竹恵しかない。

 この後、どうあれあの人形師には接触する必要がある。

 ならば少しでも恩を売っておいた方が、後々楽になる……はずだ。


「分かった。あの娘を助けに向かう」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。その代わり、貴様には一つ頼みたいことがある」


            ◆


 夜の町の中、十数人で荷台を引く姿はひどく目立った。

 俺は大した労もなく盗人を見つけると、視覚外から強襲し声も上げさせないままに全滅させる。

 確かこの辺りは船島ふなしま 巌流がんりゅうの縄張り。後はあの男に任せておけばいいようにするだろう。

 盗人たちをそのままに、俺は荷台を引いてすぐに引き返す。

 その途中、人形の中に埋もれる竹恵の娘を振り返って見た。

 忠吉の言う通り、微動だにせず攫われようと助けられようと反応がない。

 あるいはそれは、命じられたことのみを実行する忍には理想の姿とも思えたが……。


 劇場の近くまで戻り(人形の重量が予想外でかなりの時間を要した)俺は今一度、娘の目を覗き込む。

 そして、俺は切れ味の最も優れた苦無を取り出すと娘の周囲、そこに絡み付き纏わりつく糸を裁断する。


「これで貴様は自由だ」


 俺は竹恵の娘に語り掛ける。

 一体何をしたいのか、自分でも分からなかった。


「それでもなお動けないというのなら、俺から貴様に命じよう。動け、話せ、生きろ」

「………………」

「貴様がそのままだと、やかましい男がいる。俺も少し困る。だから――」


 そのとき、劇場の方から何者か近付いてくる気配を感じた。

 忠吉と思い俺はそちらへと歩んでいく。ところが、そこにいたのは市松竹恵ともう一人。


「お、お前はあのときのっ!」


 千和ちわの兄・狛走こまばしり 十字郎とおじろうだ。

 そういえば、夜の部に出場しているんだったな。


「まさか、お前もはぎ家の奴らに協力していたのか?」


 萩家というのは夜の部の参加団体の一つだったはず。

 なるほど、そういうことか。

 俺はこの人形盗難事件の実情を解決した今になって掴む。

 どうあれ、俺には最初から興味のないことだ。

 十字郎が俺を犯人の一味と思うのであれば、思わせておくだけのことだった。

 この男への借りも忘れていないが、それを返すのもまたの機会でいい。

 俺はすでに十字郎から意識を外して、ここから脱する算段を立て始めていた。

 しかし、次の瞬間の十字郎の発言だけは決して聞き逃すことはできないそれだった。


「な、何とか言いやがれ!? お前、天賀御庭番とかいう幕府の手下なんだろ!? やっぱり、幕府の連中はよからぬことを企んで――」


 俺の苦無は、今度は紛れもなく狙いの首元寸前を捉える。

 十字郎はあの夜のことを思い出したのか、自ら体を震わせ首の皮を差し出した。

 こいつもこいつで、相変わらず生半可な覚悟をぶら下げたままのようだ。


「俺は」


 ここで俺が声を発したわけ。

 それは忠吉に感化されたからであり。

 それは千和と触れ合ったからであり。

 それは土竜と再会をしたからであり。

 そして直前に、竹恵の娘と会話したからであった。


「俺は地賀忍軍の琥珀。天賀の連中などと一緒にするな」

「地賀……琥珀」


 十字郎は俺の名を呼ぶ。

 先刻の土竜とのやり取りを思い出して俺は薄気味悪くなり、同時に名乗ったことを後悔した。

 これ以上、何かを漏らしてはまずいと俺は撤退に移る。

 遠く十字郎の声が聞こえた気がしたが、奴が追ってくることはなかった。


            ◆


 忠吉とは非常用に取り決めておいた集合場所で無事に落ち合うことができた。


「琥珀様、御無事でしたか? あの……」

「ああ。俺も竹恵の娘も無事だ」


 俺は忠吉の問いに答えてから問い返す。


「そっちはどうだった? 俺が言った女はいたか?」

「はい。十半ばくらいで犬耳のような髪ハネを持つ娘ですよね。ちょうど、劇場から出てくるところを見かけまして、言われた通りに言伝を致しました」

「それで?」


 忠吉は千和の口調を真似て言う。

 もちろん似ても似つかないが、不思議と千和の存在を感じられた。


『お気になさらないでください。もし機会がございましたら、また今度、一緒に遊んでくださいね?』


 体に残っていた痺れが、その言葉で完全に抜け切ったような気がした。


「何をにやついている?」


 俺は忠吉の顔がだらしなく緩んでいるのを指摘する。

 忠吉はそれでも自分の表情を変えることができないようだった。


「す、すみません。ようやく琥珀様のお役に立てたと思うと、嬉しくて……」

「何を言っている?」


 もっと前から役に立っている――そう言いそうになったのを俺は飲み込んだ。

 こいつを図に乗せるとろくなことがない。

 なので、代わりにこう言うことにした。


「なぜ今回に限って役に立ったなどと思った?」

「それは……気付かれてませんか? 琥珀様が初めて自然に微笑んでいましたから」

「は?」


 俺が笑っていた? 馬鹿な。


「俺は笑ってなどいない。貴様の見間違いだ」

「は、はあ。ではお役に立てたというのも、おらの勘違いでしたか……」

「いや、それは」


 また言葉を飲み込もうかとして止めた。

 まあ、これくらいはいいだろう。


「勘違いじゃない。役にたった。よくやったな、忠吉」


 結局、この後に性懲りもなく浮かれ倒した忠吉に制裁を加えたのは言うまでもない。


            ◆


 翌日、俺は改めて市松 竹恵に会いに市松堂を訪れた。

 彼女と天賀御庭番との関係について問い質すためである。

 娘を助けてくれた恩人である俺に対し、竹恵の口が軽くなっていたのは目論み通りだった。


「私が生きた人形作りに行き詰りを感じ、梅子うめこにあんなことをし始めたのは一年前のことになります。

 その頃に、私の研究に興味があると温応幕府が天賀御庭番を通じて資金提供をしてきたんです」


 幕府側が竹恵に要求してきたのは、理想の人形作りの経過を教えること。

 見返りとしての技術提供などもせず、ただどの程度の完成度かを話していただけらしい。

 幕府が果たして何を目的としているのか、竹恵は見当も付かないということだった。


「それももう終わりにすることにしました。もちろん、生きた人形は私の夢には変わりありません。

 けれど、今はもっと大事なものがあると気付きましたから。あなたと十字郎さんのおかげです」


 竹恵はそう言って俺に感謝の意を示したが、そんなものをもらっても何もならない。

 結局、自分で言っていた通り下手に手を出したばかりに奴らへの糸が途切れてしまったのだ。

 しかし、市松堂を出た俺は思ったほどの気落ちはしていなかった。

 昨日はなかった鯉のぼりが、堂々と風に吹かれている。

 糸を切らなければあれを見れなかったかと思うと、そんなに悪い気はしなかった。

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