第三暦・陰 人の心 上

演武芸えんぶげい大会?」


 母上の口から発せられた聞き慣れない単語に、俺は疑問を呈する。


「そう、毎年この時期に金行区戌の処と水行区亥の処の境・乾座いぬいざで開かれる興行らしい」

「ああ、演武芸大会ならおらも存じております」

  

 水行区は子の処に住んでいた忠吉ちゅうきちが、その視点から演武芸大会について語る。


「金行区のお侍様と水行区の町人とで劇を披露し一番を競うのですが、例年盛り上がりを見せる人気の興行です。

 特に去年は、それまではぎ家・紅葉もみじ家・牡丹ぼたん家の三家で独占していた優勝の座を、初出場の人形師が掻っ攫い――」


 話に終わりが見えないため、俺は忠吉を無視して母上に問う。


「それで、その大会がどうしたというんですか?」

「大会前から参加者の何人かは乾座に詰めて劇の練習をしている。そのうちの一人が、白装束の男と度々接触しているという話だ」

「――――!?」


 俺たち地賀ちが忍軍が黒装束で任務を行うのに対し、木行区辰の処に隠れ里を持つ天賀あまが忍軍は白装束に身を包むことが多かった。

 土行区どぎょうく温応おこた城に根城を移し天賀御庭番と名を改めた今でも、その装束に違いがないことはこれまでの調べから確かである。

 母上の持ってきたしらせならば誤報ということもないだろう。


「母上。その件、俺に預からせていただけませんか?」

「言われずとも分かってるさ。巌流がんりゅうの動きも大分落ち着いたようだし、忠吉を連れて行ってきな」


 ここ一か月の間、俺と忠吉は里から出ることなく母上が一人で市中の探索に当たっていた。

 理由はいくつかあり、一つには怪我の療養に努めるため。

 一つには、船島ふなしま 巌流の警戒が緩むのを待つため。

 そして最後の一つは、忠吉に忍のいろはを教えるためだ。

 いずれにおいてもすでに十分な時期を経たと、母上は判断したようだ。

 俺としては忠吉の教育に関しては不安も不満も多く残っていたが、ここでごねればせっかくの機会を逃す可能性が高い。

 ならば、この程度の不服は十分に飲み込める範囲だ。


「はい。では早速、行って参ります」


 そうして俺の言質げんちを取った後で、母上は到底飲み込めない条件を追加してきた。


「じゃあ琥珀こはく。あんたは客に紛れて劇中の役者たちの様子を探っておくれ」


 そう言って、演武芸大会の券を差し出す。


「客に紛れて? ということは、まさか俺に女装をしろというのですか?」

「いや、女装って。あんたは女だろうに。というか、真昼間からその黒装束で行く気だったのかい?」


 正論で丸め込まれても未だに納得のいかない俺を他所に、母上は忠吉の方へ指示を送る。


「忠吉は楽屋裏の入口で張って人の出入りを見て欲しい。目立たないようにね」

「ははは……はい」


 その指示の違いにも俺は難色を示す。


「母上、ではせめて俺と忠吉の役を代えていただけませんか? 今の忠吉にその役目は難しいのではないかと」


 裏での見張りならば、せめて女装姿を衆目に晒さずに済むという魂胆があっての進言だった。


「お、おらもちゃんとできるかどうか不安ですし……。で、できれば劇も見てみたいので、そちらの方が……」


 そんな忠吉の援護も受けて、もしかしたらいけるかと思ったのも束の間、母上は眉間に皺を寄せる。


「確かに見張り自体は琥珀の方が上手くできるかもしれないけど、女装……まあ女装姿のあんたはどうあっても目立つだろう?」

「目立つ? 俺の女装姿はやはり不自然だということですか? では、客の中に紛れるのも――」

「違う。あんたの顔は人目を引くからさ。あんまり自分の娘を褒めるのも嫌だけど、客観的にね。人だかりの方がうまく動けるはずだ」


 思いも寄らない言葉に、俺は何と返したものか分からなくなる。

 ここで俺の顔など大したことはない、などと自分をおとしめるのも何だか本来の目的から逸れている気がする。

 俺が必死に反論を探して口をもごもごさせている間に、味方だったはずの忠吉が畳み掛けるように言った。


「た、確かに。一度しか拝見しておりませんが、琥珀様の美貌には誰もが目を奪われずにはいられないでしょう」


 くそっ。なぜ俺がこんな仕打ちを受けなければならないんだ。

 結局、この針のむしろから逃れるためには母上の指示通りに動くしかなかった。


            ◆


 乾座に着いて、俺と忠吉は表口と裏口とにそれぞれ別れ行動を開始する。

 演武芸大会は昼の部と夜の部とに分かれており、昼の部が終演した後に一度合流する手筈だった。

 券に書かれた番号を確認して俺は自分の席を探すが、そのとき予想外の人物に遭遇する。

 先月、忠吉と初めて会ったのと同じ日の夜、北門前で交戦した狛走こまばしり家の兄妹――その妹の方が、爛々らんらんと輝かせた目で舞台を見つめていた。

 金行区に住む武家の娘がこの大会の観劇に来ることは至極当然だが、俺は理不尽を感じずにはいられない。

 俺の視線に気付いたのか、狛走の娘はこちらに顔を向けた。

 もしや俺が先日出会った忍であることを見抜かれたのかと焦ったが、それは杞憂だったらしい。

 にこやかに微笑みながら彼女は言う。


「とても可愛らしい方ですわね。どうされましたか? もしかして、席がどこか迷ってらっしゃるのですか?」


 完全に不意を突かれて固まるばかりの俺の手から、狛走の娘は券を抜き取る。


「この席は……あら、私のお隣ですわ! ほら、こちらです!!」


 何ということだ。俺はこの偶然を呪うが今更どうすることもできない。

 狛走の娘に促されるままに席に座り、それから券を返してもらう。

 流れから軽く会釈をしたが、これ以上の接触はできれば避けたかった俺は、やや無愛想に顔を背ける。

 ところが、狛走の娘は俺のそんな態度を気にも止めない。


「お一人ですか? 私も一人でしたから心細かったんですの。よろしければ、ご一緒いたしませんか?」


 ぐいぐい迫ってくる狛走の娘に対し、無視を決め込もうかとも一瞬思ったが、それでは逆に印象に残るかもしれないと思い直す。

 差し障りのない返事をしておけば、いずれ俺のことは記憶から消えるだろう。


「ええ。お願いします」


 だが、この判断は間違いであったことを俺は思い知らされる。


「本当ですか!? あなたのような素敵な方とお友達になれて大変嬉しいですわ。私は狛走 千和ちわといいます。あなたのお名前も教えていただけますか?」


 俺は言葉にきゅうした。

 図らずもこの娘の名前を知ることができたのは収穫だが、俺の方も名乗るのでは割に合わない。

 しかしそれが道理であることも確かである。ここで名乗らないのはあまりに不自然だ。


「ん? どうされました?」


 無邪気にこちらの目を覗き込む千和に気圧されつつも、俺は咄嗟に偽名を口にした。


「私はとら……お寅といいます」


 我ながら何て安直な。しかし、一度口にした以上は取り下げることはできない。


「お寅さんですね! これからよろしくお願いしますわ」

「はい。こちらこそ」


 表面上はそう答えてはおくが、もちろんよろしくする気など俺にはない。

 以前にも増して嬉しそうに笑む千和を、俺はどこか冷めた目で見ていた。


「………………」


 それにしても。俺は千和が大はしゃぎしているのを見ながら思う。

 初めて会ったとき、俺は千和に自分と似た臭いを感じたものだったが、今の彼女はまるで別人のようだ。

 あの夜に俺と対峙していた剣士と、目の前の年相応、あるいはそれ以上に幼い女の子と。

 どちらが千和の素顔なのか。おそらく、どちらも偽りのない彼女の一面なのだろう。

 俺は女を捨てることであの境地に達したのに、千和は当然のようにどちらも両立している。

 気付けば俺は妬みに近い感情を千和に向けていた。

 それと同時に、彼女の笑顔に引き摺られて心が和らいでいく自分もいた。

 もやもやとした感情に整理が付けられないまま、昼の部の劇はあっという間に終わる。


「あ~面白かったですわ。お寅さんは楽しめました?」

「ええ、とっても」


 これは本心だった。

 熱中したとまではさすがにいかないが、できれば任務を気にすることなく見たかったと思うくらいには。

 それは劇自体が優れたものだったからか、あるいは隣にいた千和のおかげか。


「夜の部も今から楽しみですわね。実は夜の部には私の兄――十字郎とおじろうお兄様も出ますのよ」

「え、お兄さん……十字郎さんというんですか? この大会に出られるって?」


 思いがけずも聞かされた名前を、俺は必死で拾い上げた。

 千和の兄。あの夜に俺が直接的に戦ったのはこちらだ。

 半端な覚悟しか持ち合わせていなかった腰抜けにも関わらず、俺に傷を負わせた男。

 体についた傷の方はすでに癒えたが、心についた傷は未だ残ったままだ。

 狛走 十字郎。その名前を俺は脳裏に刻み込む。あのときの借りを必ず返すために。


「そうなんですの。何だかんだとありまして、代理の代理で参加することになったんですわ」


 それから千和に聞いた十字郎が演武芸大会に参加するまでの経緯は、中々興味深い話だった。

 その中で南の城門守護四士じょうもんしゅごしし焔暦寺えんりゃくじ 楠永くすながの名前が出てきたからだ。

 東は例外として、守護四士の中で一番謎めいた男こそが楠永である。

 彼について少しでも知れるのはありがたいことだった。

 千和の話はその後も続いたが、これ以上は有益なことが聞けるとも思えず、俺は用事があるからとそれを遮った。

 嘘ではない。すぐにでも忠吉と合流して夜の部における動きを確認しなければならないのだから。

 別れ際、千和は笑顔の中に少しの寂しさを滲ませながら言う。


「そうですか。残念ですが一度お別れですわね。でもまたすぐに会えますわ。お寅さんは夜の部もご覧になるんでしょう?」

「…………もちろんです。ぜひ夜の部でもご一緒しましょう」


 俺がそう答えたのは、差し障りなく、最も千和の記憶に残りにくい返事だと思ったからだ。

 ついさっきそれで失敗したばかりだというのに、俺は全く懲りていなかった。


            ◆


 事前の打合せでは劇場裏口の付近で落ち合わせるはずが、忠吉はなぜか表口の方に回って待っていた。


「なぜ表口にいた?」


 周囲に人目のない場所に移ってから、俺は当然のようにそう聞いた。


「そ、それが劇場から出てきたお侍様から、あ、あの不審に思われたのか声を掛けられて逃げ出してきたもので……」


 俺は呆れを隠せず大仰にため息をつく。

 分かってはいたことだが、まだ忠吉の教育は不十分であることを再認識する。


「で、何か掴めたか?」


 故にこの問いに色好い答えが返ってくることなど全く期待していなかった。

 ところが、忠吉が伝えたのは色好いどころの報せではなかった。


「は、はい! つぐみ様の仰っていた白装束の男と接触していた大会参加者を突き止めました! 実際に会って話しているところも見たので、間違いありません!!」


 俺は驚きを禁じ得なかった。

 まさか忠吉がここまでの働きを見せるとは、誰が予想できようか。

 いや、もしかしたら母上には分かっていたのかもしれない。


『忠吉は使える』


 俺から見れば何も特筆すべきところがなかった中年男を、母上は確かにそう評していた。

 もしかして俺に分からないだけで忠吉には秘められた力がある……のか?


「琥珀様?」


 不安そうな忠吉の呼び掛けに、俺は現実に引き戻される。


「いや、何でもない」


 どうあれ今は忠吉が有能かどうかについて検討している場合ではない。俺は目の前の問題に向き直る。


「その白装束の男について何か分かったことはあるか?」

「い、いえ。何分遠目で見ただけですし、ご存じの通り装束で目元以外は隠れておりましたので……。後を尾けるのも失敗しまして……」


 まあ、そんなところだろう。いくら何でもそこまで期待するのは酷というものだ。


「ならば、役者の方に当たることになるか。誰なんだ? その役者というのは?」

「お、驚かないでくださいよ。何とあの人形師・市松いちまつ 竹恵たけえです!」


 人形師? 市松竹恵?


「誰だ、そいつは? 貴様が知っている人間なのか?」

「そ、そんな。朝おらが話していたのをお忘れですか? 昨年度の優勝者ですよ。彼女の操る人形はまるで生きているかのようであると評判でして、実際に去年の大会では――」

「昼の部には出ていなかったな。夜の部の参加者ということか」


 俺は忠吉の語りが無駄話に及んだと見て、一人演目表を確認する。

 夜の部の一番最後にその名はあった。


「この人形師の家は分かるのか?」

「……へ? え、ええ! 亥の処で市松堂という人形店を営んでおります。おらも娘にせがまれて、そこの人形を買ったことが――」

「そんなことはどうでもいい。家を知っているのなら、そこへ案内しろ」


 俺は忍としては無駄口の過ぎる忠吉に苛立ちを感じる。

 予想以上に役立っている、少なくとも俺よりはいい働きを見せているので褒めたくはあるのだが、こいつの態度は俺のそんな気を削いでくるのだから仕様がない。

 忠吉は俺の叱責に縮こまって、そこからは粛々と市松堂への案内を行った。


「ここです」


 市松堂は忠吉の言う通り人形店であり、近隣の店と比べてこじんまりとした店構えだった。

 周囲から浮いている点はもう一つ。鯉のぼりが市松堂の庭先には見当たらない。

 今の時間は昼の部と夜の部との合間。きっとここの店主・市松竹恵は店に戻ってきているはずである。


「裏から回って様子を探る。音を立てるなよ」


 俺は忠吉に指示を出し、自らもそのように動く。

 おあつらえ向きに庭から覗ける窓があり、そこからは竹恵の私室らしい部屋が見えた。

 二人でしばらく見張っていると、部屋の戸が開き長い黒髪が特徴的な美女が入ってくる。

 俺が視線で確認すると忠吉は頷く。美女は紛れもなく市松竹恵本人のようだ。

 その手には一人の女の子を抱えていた。いいや、あれは一体の絡繰からくり人形か?


「このっ……出来損ないっ!!」


 途端、竹恵は人形を持ち上げると机の角目掛けて叩きつけた。

 俺たちが張り付いている壁にも衝撃が伝わり、忠吉が声を上げそうになるのを口を塞いで止めた。

 それでもばれていてもおかしくはなかったが、今の竹恵は別のことに夢中のようである。


「またよ! また言われた。また言われた。生きてるみたいだって!? 全然、人形に近付いていないじゃない。

 もっと動きを抑えて口を閉じて息を殺して! まだ足りないの。もっともっともっともっと……」


 彼女は狂ったように叫びながら執拗に女の子に暴行を加えていた。

 その様子を見ていた忠吉の顔はどんどん青白くなっていき、俺は限界と悟りこの場を離れることを伝える。

 再び人目のないところまで移ると、忠吉は盛大に胃の中のものを吐き出した。


「…………大丈夫か?」

「は、はい……すみませんでした、琥珀様。……あ、あの少しよろしいですか?」


 忠吉が何を言うか俺には予測がついていて、それに対する答えも決まりきっていた。

 それでも、せめて口にはさせてやろうと俺は忠吉の発言を許す。


「何だ?」

「あの娘を、何とか助けてやることはできませんか? あのままではとても……」

「無理だ。任務とは関係ない。むしろ、下手に手を出せばせっかく掴んだ奴らへの糸が切れる可能性がある」

「やはり……そう、ですか」


 そうだ。任務とは関係ない。

 あの子供が可哀想な身の上だろうと何だろうと、俺たちのやることに変わりはない。

 任務達成のために何が最善か考え続け動き続ける。それだけだ。


「母上の話と貴様の話を合わせると、市松竹恵と白装束の男が会う場所は決まって乾座周辺。

 夜の部でも密会が行われることは考えられる。今度は俺も付き添って劇場裏を張り、そこを抑える。いいな?」


 ようやくこの嫌な格好を脱ぎ捨てることができて、望んでいた通りに見張りに回ることができる。

 願ってもないことのはずなのに、俺の心は清々しさとは無縁でむしろ暗澹あんたんとするばかり。

 千和の笑顔と竹恵の娘のことが、こびりついて離れなかった。

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