第三暦・陽 人の形 上

 ついにこのときがやってきた。

 今日をもって、丸々一か月続いた地獄の日々から俺はようやく解放されるのだ。


「準備はできましたか、お兄様?」

「おう」


 階下からの呼び掛けに俺は意気揚々と答える。

 屋敷の入口に向かえば千和ちわは待ちきれないとばかりに、足をぷらぷらと振っていた。


「お兄様っ、早く早く!」


 年以上に幼いその仕草から見て、余程楽しみにしているのだろう。

 これから乾座いぬいざで行われる演武芸えんぶげい大会を。

 まあ観るだけの千和は気楽なものだろうが、参加する俺としては楽もあれば苦もあった。というか、九割九分が苦だ。

 もちろん、俺は自発的にこんなものに出たがる酔狂ではない。

 それというのも、今から一か月前に城門守護四士じょうもんしゅごしし焔暦寺えんりゃくじ 楠永くすながとの勝負に負けた結果である。

 あのとき、楠永は俺にこう言った。


水行区すいぎょうく金行区きんぎょうくの境に、乾座という劇場があってね。来月、そこで演武芸大会という大会が開かれるんだ。

 名前の通りに水行区の町人たちが演芸を、金行区の侍たちが武芸を、それぞれ披露して優勝を決めるのさ。

 僕の頼みはね、十字郎とおじろうくん。君にその大会に参加して欲しいんだ。

 大会の参加団体の一つに、亥の処に住んでいるはぎという家があって、優勝を目指して懸命に稽古に励んでいたらしい。

 それが不幸なことに、少し前に水行区で起きた災害で旦那さんが腕の骨を折ってしまったんだそうだ。

 このままでは棄権するしかないということで、僕に代理で参加して欲しいと奥さんから頼まれていたんだけど。

 知っての通り僕は火行区かぎょうくを任されている城門守護四士。

 立場的にあまり時間は取れないし、水行区と金行区の住人の交流に割り込むのも、できれば控えたかったんだ。

 でも萩家の奥さんも困っているようだったしどうしたものか……と、そこにちょうどよく君が現れた。

 君は金行区のお侍で、それもいぬところなら会場の乾座にも、萩家のあるの処にも近い。まさに打ってつけというわけだよ」


 というわけで、俺は次の日から萩家の人たちに混じって稽古に参加することとなった。

 楠永が来ることを期待していた彼らの落胆はありありと見て取れて、俺は初日から肩身の狭い思いをする。

 さらに優勝を目指すというだけあって毎日の稽古量も尋常ではなく、俺に対しても容赦のない指導がされた。 

 何とかその地獄に耐え抜くうちに、気付けば俺が温応おこたに戻ってきたころには満開だった桜はすっかり散り、上を見れば青空を鯉が泳いでいた。

 そして大会当日を迎えたのである。

 後は最終稽古と本番の二回を残すのみ。それが終われば、完全に自由だ!

 演武芸大会は昼の部と夜の部に分かれており、萩家は夜の部で出ることになっている。

 ただし、本番前の最終稽古は昼の部が終わった後に行われるので、結局は昼の部の時点で会場入りする必要があるのだ。

 乾座に到着すると、俺は楽屋裏に通じる裏口へ、千和は客席に通じる正面入り口へとそれぞれ別れる。


「それではお兄様、頑張ってくださいね」

「…………ああ」


 満面の笑みの千和に対して、俺は今更になって憂鬱ゆううつになり始めていた。

 裏口に回ると、辺りをきょろきょろと見回す中年男がいた。

 出っ歯と飛び出した無精ひげから、鼠を思わせる風貌だ。

 探し物をしているか待ち人でもいるのだろうと、俺は気にせず通り過ぎた。

 楽屋裏に入り萩家の控室を目指す。

 その途中、意外な人物に出くわした。


「あれ? ちわわちゃんの兄貴の……十字郎さんだっけ?」


 彦田ひこた家次男――彦田 浮悌うきやすである。


「ああ、彦田家の……」

「浮悌でいいぜ。何せあんたは俺の将来の義兄になる人かもしれないからな」


 それは絶対にないが、とりあえず本人がいいというのならそう呼ばせてもらうことにしよう。


「浮悌もこの大会に参加してたのか」

「ああ、うちは毎年のことだ。今年でこの大会は第十回だから、ガキのころからの常連だよ。十字郎さんも参加してたんだな。あれ? でも演目に狛走こまばしり家の名前はなかったと思うけど」

「俺は萩家ってところに混じって参加するからな」


 浮悌は俺の言葉に目を丸くする。


「名門の狛走家の長男が? 何でわざわざ他所に混じるんだよ?」

「色々あってな。代理の代理で出ることになったんだ」


 俺は楠永との勝負に負けたこと、そのときの約束で、楠永が代理を頼まれていた萩家の役者を引き受けたことを教えた。


「なるほどね。いや、実は楠永の奴がこの大会に出るらしいってのを聞いて、今探してたところだったのさ」

「何か用があったのか?」


 俺からの問いに浮悌は得意気に答える。


「用っていうか、前々からあいつとはどちらが真のもてる男か決着をつけたいと思っててよ。どうやら俺に会うのが怖くて逃げたらしいな」

「いや、勝負するまでもねえだろ……」


 小声で呟いたつもりだったが、思いのほか耳がよかったのか俺の言葉は浮悌にしっかりと届いていた。


「十字郎さんもそう思うか。確かに俺の方がもてるに決まってるもんな」


 何という前向き解釈。

 こいつ、もしかして結構いい奴なんじゃないか?

 初対面の印象では決して高くなかった俺の浮悌に対する好感度が、ここにきて急上昇する。

 それでも妹をやる気はないがな。


「ところで、十字郎さんがいるってことはちわわちゃんも来てるのか?」


 俺の心を読み取ったかのように、浮悌は千和を話題にする。


「ああ、客席にいる。かなり楽しみにしてたみたいだぜ」

「おお! そんなに俺に期待してくれちゃってんのか。こりゃあやる気が漲ってくるぜ。じゃ、俺はそろそろいかねえとやばいんでな。失礼するぜ。よっしゃあ、やってやるぜ!」


 浮悌はそう言うと、舞台袖の方へと駆けて行った。

 まあ、元気がいいのはいいことだ。

 今から出番ってことは彦田家は昼の部での出場らしい。 

 どんなものなのか少し気になったので、後で千和に感想を聞こうと思った。

 改めて萩家の控室を探していると、またも正面から人が歩いてくる。

 三十路くらいと思われる女性(超絶美人)だった。

 これまた綺麗な顔の女の子の人形を抱えているのから考えると、人形師のようだ。

 かなり精巧な絡繰からくり人形で、繋がっている糸が見えなければ本物としか思えなかっただろう。

 そのとき、俺と彼女の目が合った。

 じろじろ見過ぎてしまったかと、俺は相手が美人なこともあってやや気後れする。

 人形師の女性は、しかし物腰柔らかくにこやかに微笑んだ。


「こんにちは」

「こ、こんにちは」


 俺たちは通路途中で足を止めて挨拶を交わす。

 自然、会話を続ける雰囲気となっていた。


「あなたも大会の参加者ですよね。夜の部ですか?」

「ああ。代理の代理で、萩家と一緒に出る狛走 十字郎だ」

「私は市松いちまつ 竹恵たけえ。人形師です。私も夜の部で出ることになっているんです」

「人形師……やっぱり。その人形、まるで生きてるみたいで驚いた」


 我ながら月並みな褒め言葉だな。

 竹恵さんはこんなこと言われ慣れているのか、返事も流暢りゅうちょうだった。


「ありがとうございます。この子は私の自慢の人形なんです」


 それから、お互いに頑張ろうと言い合って俺たちは別れる。

 市松竹恵さんか。

 この大会、随分と色んな人たちが参加しているらしい。

 できることなら、俺も観る側に回りたかったぜ。千和が羨ましい。 

 俺は己の運命を呪いながら、萩家の控室にたどり着いた。

 浮悌や竹恵さんと話していて少し遅れたが、稽古は昼の部が終わってからだから問題はないだろう。

 そんな俺の楽観を、萩家の奥さんの怒声が吹き飛ばした。


「遅いっ! 何をしていたの!?」

「い、いや、遅れたのは悪かったけど、そんなに大声出さなくても……まだ時間はあるだろ?」

「はあ? あなたね、稽古はここでだってできるんですよ! 時間なんていくらあっても足りないわよ!!」


 嘘……だろ。何てこった。まさか、地獄はまだ続くというのか?

 その後は控室で徹底的にしごかれて、予定通りに昼の部終演後、舞台での最終稽古も意地で乗り切る。

 それでも夜の部が始まるまでには時間があるので、本番ぎりぎりまで稽古が続くのではと恐怖していたが……。

 最終稽古は正真正銘の最後ということで、さすがに残りの時間は心と体を休ませるよう言われた。

 はあ。まじで死ぬかと思った。何とか生き残れた。

 俺は息も絶え絶えに劇場を出る。

 すると、入るときにもいた鼠みたいな中年男が、未だにうろついていた。


「…………なあ」


 さすがに不審に思って、俺はその男に声をかける。


「え、あ、は、はい?」


 鼠似の男は俺を見て予想以上に困惑する。


「お前、朝からずっといるけどこの劇場に何か用があるのか?」

「い、いえ、用というか……あの……し、失礼します!」


 慌ててきびすを返すと、転びかけたりしながら危なっかしい足取りで逃げていく鼠似の男。

 怪しい奴ではあったが、何か人畜無害な臭いもする男だったので、俺は見なかったことにしようと決めた。

 まあ、本音は疲れていて一刻も早く休みたい以外にはないんだけどな。

 屋敷に着くと、先に戻ってきていた千和が俺を見るなり昼の部の感想を聞かせてくれた。

 どうやら期待に十分応えてくれる劇ばかりだったようだ。

 俺は聞こうと思っていた劇の感想を求めた。


「そういえば彦田家も参加してたらしいけど、どんな感じだったんだ?」


 喜色満面だった千和の顔が、少し困惑したものになる。


「どんなと言われますと……猿芝居といった感じで」

「猿芝居? どっちの意味だ?」

「ひどい芝居という意味で。いえ、趣向自体は大変よかったんですのよ。真剣を使っていて迫力がありましたし」


 なるほど、面白そうだな。

 なら一体何が問題だったんだろうか? いや、予想はついてんだけど。


「錦斗雲様や奥方様の演技は素晴らしかったんですが、浮悌様が……」


 やっぱりな。


「浮悌がどうしたんだ?」

「何度も科白せりふを間違えてらしたり、果ては舞台から落ちられたり。意気込みがあるのは痛いほどに伝わったのですけれど」


 どうやら緊張のし過ぎでやる気が空回ってしまったらしい。

 哀れ浮悌。そんなお前が俺は好きだ。


「ともかくとても楽しめましたわ。できることならきじのじょう様と一緒に観劇したかったのですが、その代わりお隣の席の方とお友達になれましたし」

「そいつはよかったな」


 雉ノ丞とやらがいないのと、千和に友達ができたことと、二つの意味で俺は言った。


「ええ。夜の部でも一緒に観ようと約束しましたわ。ですから期待していますわよ、お兄様。私に恥をかかせないでくださいね」

「まあ、頑張らせてもらうよ」


 嫌だ嫌だと言ってはいても、曲がりなりにも一か月間俺なりに努力してきたんだ。

 代理の代理ではあるが一応は萩家の役者の一人として、最高の劇にしたいという気持ちも自然と芽生えていた。

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