第二暦・陰 寅の子 下

 まずは北上し水行区すいぎょうくうしところを目指すが、その前に難所がある。

 水行区と木行区の境にある艮峠ういとらとうげ――別名・鬼殺し峠とも呼ばれるほどのけわしい道である。

 俺はさすがに慣れたものでほとんど苦にはしないが、忠吉はこの峠に大分参っているようだった。

 やはりこんな男、足を引っ張るだけではないか。


「も、申し訳……ありません、琥珀こはく様。ですが、水行区に着いた後には必ず御役に……立ちますので……」


 会話は最低限に留めたかったが、名前を呼ばれるのは不快だった。


「気安く俺の名を呼ぶな。助けられた恩だか何だか知らないが、貴様の献身など迷惑なだけだ」

「見返りを求めないその姿勢……感服致します、琥珀様!」


 俺の話を聞く気がないのか、こいつは。


「いいか、俺はまだ貴様を認めていない。そもそも巌流がんりゅうの指示に背き家族を優先した貴様に、忍としての素質は皆無だ」

「で、では琥珀様はなぜおらを助け――いや、いやいや失礼いたしました。ななな……何でもありません」


 忠吉は今の物言いが『俺にも忍の素質がない』と暗に口答えしていることに気付いたのだろう、途中で言葉を取り下げた。

 途中までで十分に伝わりがしたが、俺は気付かないふりをしてその失言を見逃す。

 せっかく忠吉が大人しくなったものを、わざわざ話を続けるような真似をしたくはなかったからだ。

 口を閉じ足を動かすのに集中したからか、そこからは自然に速度が上がり艮峠を無事に越える。 

 そして水行区に着くころには、月は中天で淡く輝いていた。


「そそ、それで琥珀様。これからおらは何をすれば……」


 いつも以上におどおどと話す忠吉に、俺は策を伝える。


「昨日と同じだ。貴様は北東で騒ぎを起こし、敵兵を引きつけろ。俺はその間、北門を見張って奴らがどう動くかを見極める」


 もちろん、今回はたとえ門前が無人になろうが侵入する気はない。

 ただ北門の警備の対応を知るために、忠吉には完全に囮になってもらうつもりだ。


「もし無事に果たせたなら、貴様のことを認めてやる」


 俺の助けなしでは捕まっていた忠吉が、昨夜よりも警戒が強まっているだろう中逃げ切れるとは思えない。

 十中八九こいつの身柄は取り押さえられる。


「は、はい。分かりました。では早速……」


 忠吉にもそれは十分に分かっているのだろう。

 それでも今更止めたいなどと言えるはずもなく、蒼い顔で持ち場へ向かい始めた。

 徐々に小さくなっていく背中を眺めていくうち、俺の中に妙な気持ちが湧く。


「…………いいや、待て」


 それから三十分ほど後。

 俺はひょっとこ面をつけて温応城北東に来ていた。

 別に仏心が芽生えたわけではない。

 忠吉が俺たちのことを喋るかもしれないと考えれば、捕まっては困ると思っただけだ。

 次第に城の姿を捉え始める。その前には堀と塀。

 そして、そのさらに前に大きな人影があった。

 その正体は何と、北の城門守護四士じょうもんしゅごしし――船島ふなしま 巌流その人だった。

 馬鹿な。まさか初めからこの場所を張っていたというのか?

 巌流はこちらの臓腑まで響くような重苦しい声で話し出す。


「……やはり、今夜も現れたか。この私がいる以上、この場所を荒らす輩は何人たりとも逃さん」


 俺は守護四士と対峙するのは初めてではあったが、その実力が自分のはるか上であることは分かっていた。

 勝てるとは思っていないが、簡単に逃げられるとも思えない。

 何とか隙を作り出してから即座に撤退。これしかない。

 俺は苦無は出さず、少しで軽快に動けるよう素手で構える。


「ん、逃げないのか? いい度胸だ」


 そう言う巌流も徒手空拳。

 ただし、両の手首足首には黒曜石こくようせき製の大鉄輪が輝いている。

 巌流が一歩、こちらに近付いた。

 それだけで大地が震えているような錯覚を覚える。

 その震えが治まり切ったと感じた、次の瞬間――巌流はあっという間に俺の目の前まで迫っていた。

 こんな筋肉の固まりのような大男のくせに、その速さは俺をはるかに上回る。

 そこから繰り出される拳打の破壊力は、当然ながらに桁違いのそれだ。

 全力の回避でもかわし切れず、巌流の拳は俺の体をかすめる。

 続けて襲いかかる衝撃は想像を絶していた。

 ほんの少し接触しただけにも関わらず、俺はそのまま宙を舞い、はるか後方まで吹き飛ばされる。

 巌流の拳はなおも勢いを失わず、真っ直ぐに地面に突き刺さった。

 今度ははっきりと大地が震えるのが分かる。容易に身動きさえ取れないほどの揺れ。

 そんな中でも、巌流は平然とこちらに歩いてきていた。


「その動き……どうやら昨夜の面の男とは別人のようだな」


 まずい。完全に甘く見ていた。まさか、これほどのものだったとは。

 打つ手のない状況に、俺は諦めて目を固く閉じた――そのとき。


「危ないっ!!」


 俺の体はまたもや突き飛ばされた。

 しかし今度は攻撃ではなく、俺を庇った男の――忠吉の仕業だった。

 忠吉は俺の代わりに巌流の拳をまともに喰らう。


「――――!!」


 俺は思わず忠吉の名前を叫びそうになったが、息継ぎさえ困難なひょっとこ面のせいでできなかった。

 冷静に考え直せば、面のおかげで巌流に余計なことを聞かれずにすんだとも言える。

 それでも俺は、この場で忠吉に何も言えないことがもどかしかった。

 なぜここに来た、とか。

 どうして俺をかばった、とか。

 俺に認められたいのではなかったのか、とか。

 言いたい言葉はいくらでもあった。

 だが聞かずとも忠吉には俺が何を求めているか分かっていたようだ。

 蚊の鳴くような声で俺の耳元にささやく。


「申し訳……ありません、琥珀様。北門を見張れと……言われていたのに……。巌流様が不在なのを見て……もしやと……おらはじっとしてられ……なくて……」


 それだけ言って、忠吉は気を失った。


「………………」


 こいつは馬鹿だ。

 あれだけ言ったのにも関わらず、またも命令に背き、その上で俺の名前を呼ぶなといっても聞かない。

 忍の素質は皆無だ。

 そしてそれは、俺も同じなのかもしれなかった。

 俺が忍として抑えつけている感情を、忠吉の言動は揺り動かす。

 だから俺はこの男に対してあんなにも苛立っていたのだ。

 それに気付いたところで、この発見を持ち帰ることはできそうになかった。


「そいつが昨日の男か? まあいい。捕えてからじっくりと聞くことにしよう」


 気絶した忠吉を連れて巌流から逃げられるわけもない。

 少しだけ伸びた寿命は、今度こそ終わりを迎えるはずだった。

 そのとき、空から救いの神が舞い降りた。

 母上――地賀ちが つぐみが、俺たちと巌流の間に割り込んできたのだ。

 巌流と向かい合ったまま、手の動きで背後の俺に指示を送る。


『ここは私が食い止める。忠吉を連れて早く逃げろ』


 俺はそれに従って、辛くも窮地きゅうちを脱することができた。

 地賀の里に戻ってからすぐに忠吉を布団に寝かせた。

 その後、俺を庇って負わせた傷の手当てをしながら考える。

 忠吉の処遇をどうするか。

 どうするも何も、忠吉がいなければ俺は巌流にやられていたのだ。

 この結果を前に『使えない』なんて判断を下せるわけがない。

 夜が明けたころに母上が帰ってきた。

 何とか巌流から逃げてきたらしいが、黒装束が所々擦り切れている他には怪我一つないのはさすがだった。

 俺が忠吉を認めることを告げると、初めから分かっていたかのように一言、そうかと言った。

 忠吉の怪我が大事に至らないことが分かると、俺は二日ぶりの睡眠を摂るため自室で着替える。

 眠気が頂点に達していた俺は、少しだけ気を緩めてしまい、その結果とんでもない失態を冒してしまった。


「こここ……琥珀様!! つぐみ様からお聞きしました! おらのことを認めてくださっ……た……と」


 目を覚まし部屋に駆け込んできた忠吉は、俺のはだけた胸部を見て凍り付く。

 何たる不覚か、俺の最大の秘密があっさりとばれてしまったのである。


「あ、いや、琥珀……様? その決してわざとではなく……そもそも存じておりませんでしたので……あの、その」

「忠吉。貴様、今からもう一度巌流と戦ってこい」

「そ、そんな殺生な……」


 俺は忠吉を蹴り飛ばして部屋から追い出した。

 戸の向こうで、忠吉は何度も俺への謝罪の言葉を繰り返す。

 あの男を本当に認めるのは、まだまだ先になりそうだった。

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