学校の帰り道
香ばしい醤油の香りの奥にひっそりと隠れているのは海の匂い。ちょっと生っぽい青い匂い。
「おいしそう!」
貝殻を手に取る華奢な指と爪先に乗るモカブラウン。肉厚な身を啜る口元まで凝視するのはいかがかと思い自分の手元に目線を戻す。毎年ビアガーデンの後にそう日も置かずに開催されるオータムフェストだが、ビールが苦手なのでうまい飯を大量に食えるこの秋の催しの方が僕は好きだ。
白く輝く焼き牡蠣に唾液が口の中でじゅわじゅわと増える。マスクを外そうとして思い直して顎まで引き下げ、身を啜った。熱い! うまい!
「てつくんってほんと美味そうに食べるよね」
可笑しそうに笑う顔から目を反らし、そうかな、と呟く。だってうまいから。あと、吉田さんの方が美味そうに食べる。普段から。言わないけど。
手に着いた粉を地面に向かってほろい、次なる獲物に手を伸ばす。ドイツのソーセージはハーブが入っているものやチリっぽい辛みのあるものまで種類豊富でおいしいが、なんといってもうまいのが、横にいつもついているキャベツの付け合わせみたいなやつ。酸味が効いていて、家では絶対に出されない、やみつきになる味だ。それと、ぼくはソーセージにマスタードをつけるのが絶妙にうまいことについ最近気づいた。マスタードとからしを一緒に考えていた僕が悪かった。
「あ」
均一にムラなく色の乗った爪先が僕の口元を指す。正確には僕の口より下、顎のあたり。
「マスタードついてるよ」
くすりと笑われて、慌ててマスクを外して表面の黄色い汚れを指で拭う。どうしようか迷って卓上のおしぼりで拭う。吉田さんはまだ僕の口元を見ている。まだついているのか。赤ちゃんかよ僕は。ぐいぐいと口を掌で擦っていると、パタパタと手を横に振られた。
「違う違う。もうついてないんだけど、ひげ、生やしてるんだなーと思って」
「え?」
しまった。無精がばれた。朝の自分の寝坊と剃り残した髭を憂う。いや、べつにどうってことないんだけども、なんとなく、ちょびちょびと髭を数本点線くらい伸ばしているだけだと不潔にみられるぞと姉に脅されただけで、ちょっと気をつかっただけ。別に、吉田さんにいいかっこしよとか、そんなことじゃない。
「意外と似合うんじゃない?」
「…………え?」
間の抜けた回答を彼女はまた笑う。口元を押さえた手の先でネイルが光る。頬は妄想かただ寒さのせいか朱く染まっている。外は真っ暗でオレンジ色の灯りがあちこちついているせいで、外灯のせいかもわからない。
皿を空けて、トレイと共に返却し、満足したので会場をあとにする。ビルの間を抜けようとして、強風がビルから叩きつけるように押し寄せる。
寒い事を理由に、手を繋いでみようか?
しまった、人の多い通りを使えばよかった。
はぐれないようにと言い訳できた。
僕にしては在り得ないくらいの勇気を振り絞って、おそらくこのあたりかと位置を予想し手を伸ばす。頼む、このまま、このままで、振り切らないで――探った指先が触れる。ふわふわした布地に。
「…………もう手袋する季節だね」
「ちょっと早いんだけどねー! わたし寒がりでさ」
「そ、そう」
雑魚かよ、僕。
【秋風】【髭】【夜店】
:三題噺スイッチ改訂版(https://mayoi.tokyo/switch/switch2.html)より
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