その日、僕は初めて記憶を飛ばした。

 アリサは僕のことを好きだ。いやまだ好きじゃないかもしれないが、気になっているのは間違いない。どのくらいかは定かじゃないが、異性としては確実に意識している段階だ。と思われる。


「ハジメくん、もう酔っちゃったの?」


 ほら、やっぱり僕の隣にきた。さっきまで、机の向かい側、左斜め前の席でノゾミと楽しそうに店長の伊達眼鏡の話をしていた時も、ちらちらと僕の様子を伺ってた。僕の隣はケンジだったが示し合わせたように同時に席を立ち、ケンジが先にノゾミの隣に座り、アリサは後から僕の隣にやってくる。いつもの流れだ。


 僕は苦い酒も度数の高い酒も得意じゃない。だからといって甘い酒も好みじゃないから大抵レモンサワーを頼む。

 一杯終える頃には脳みそごと頭を回されるような感覚になって、とんでもなく瞼が重くなる。それでもいつも自力で帰り、記憶だって飛ばすことなく捕獲し続けてきた。


 だから、終電後にバイト仲間で開催される飲み会のたびに、最初は遠くの席にいても、ケンジと席を立ち合って、アリサが僕の隣の席に必ずやってくるのを僕は知っていた。


「ほら、ウーロン茶頼んどいたから、飲んで」


 手に持っていたレモンサワーから無理やり手を離されて、グラスを持たされる。指が触れ合って解ける。肩がぶつかって離れる。ふわりと花の香りが鼻を擽って消える。


 ウーロン茶をちびちび飲んでいると、アリサはおもむろにケータイを取り出して、向かいに座るケンジとノゾミを撮りだした。これもいつものこと。ノゾミがきーきー喚いて写真を消せとブーイングするまでが定石。


 今日はイレギュラーなことが起きた。


「あ、ハジメくん、せっかくだから写真、撮ろうよ!」


 アリサがなにやらアプリを起動させて僕に笑いかける。アリサは笑うとえくぼができる。毎度僕はそのえくぼに指を入れたくなる。


 えくぼに気をとられている間に準備が終わったのか、アリサはまず僕にカメラを向けた。とっさに顔を背ける。写真を撮られるのは得意じゃない。どんな顔をすればいいのかわからないし、綺麗な笑い方だって知らない。


「大丈夫だよ、このアプリ、めっちゃ盛れるし」


 僕が一人では写らないと思ったのか、アリサはカメラを自分に向けて、僕の横にぴったりと張り付くように座りなおした。アリサが左手で僕の右肩に触れる。人差し指に着けられた指輪が肩の骨を押す。華奢な手首を囲む腕時計から秒針の音が微かに聞こえる。ゆるく巻かれた焦げ茶の髪が首を撫でる。心臓がみっつ、飛び跳ね、針音の後を追っかける。


 チッ、チッ、チッ。

 どっ、どっ、どっ。


「ね、可愛いっしょ」


 気付くと僕は、猫耳とひげをつけた間抜けな顔で、小さな画面の中に潜り込んでいた。彼女の左手は端末を支える為に使われていて、時計の音は聞こえなくなっていた。首がいずい。


 ぽりぽりと無言で首を掻く僕を横目に、アリサは自分の髪をいじりながら写真の拡大縮小を繰り返す。


「そろそろ髪明るい色に染めよっかな……ハジメくん、どっちがいい?」


 どっちの色になっても、花の香りがするならいいんじゃないかな。


「……ハジメくん? なんか怒ってる?」

「え? いや」


 腑抜けすぎて何も返事をしていなかったらしく、アリサが訝しげに顔を覗き込んでくる。近いってば。わかったから。目を背ける。

 まつ毛の長さと下瞼に落ちた影が、白く光る鼻筋が、潤った唇の残像が瞼の裏から離れない。


「ねー、怒らないで。ごめんね。写真、嫌だったんだね」


 落ち込んだような様子に今度は僕が焦りだす。至近距離でも構わない。勢いで目を合わせ、潤んだ瞳を見てすぐに反らし、手元のグラスを見つめる。


 彼女はよく瞳に水分を溜め込む。そういう時は大抵、心から何かを反省しているときで、裏表のないその瞳を僕は大概好ましく思っていた。

 そして素直な瞳を持つ、彼女のことも。


 わかっている。これも彼女の作戦だ。女の子は往々にして、自分からは言わず相手に言わせる。ノゾミが前に言っていた。「あの子ぽやっとして見えるけど、意外としっかりしてるし、積極的で、狙った獲物は逃がさない系女子だよ」……。


「や、違うよ。眠くてぼーっとしてたわ」

「そうなん? ほんとお酒、弱いね」


 ほっとしたように笑う頬にはえくぼが出来ているのだろう。グラスの中の氷が軋むような音を立てて揺れた。僕の頭もゆらゆら、揺れる。


 彼女はいったい、僕のどこを好きになってくれたのだろうか。野暮ったくてぼーっとしてる、とにかく冴えないこの僕を。彼女の欠点を一つだけ言うとしたら、彼女はおそらく、趣味が悪い。


「実はさ、前からハジメくんに、相談したいことがあったんだー」


 ぽつり。周りの騒音にかき消されそうな小声を僕の耳が拾った。


 時は来た。


 彼女は狙った獲物を逃がさないけど、今まで付き合ったらしき人物の3人のうち、1人は自分から告白したという噂がある。僕は口下手で、いつも聞き役で、どちらかというと勇気がない。彼女には、恋仲となった3分の1の男に対し勇気を振り絞ったという実績がある。


「どしたの、改まって」


 声が思わず上擦った。


 僕の想定では、今日の飲み会の帰りあたり、なんとなく二人で抜け出して、最寄りの駅までの道の途中、公園のベンチに座って星空を見ながら話しているときなんかに、この話題が出るはずだった。


 まあいい。構うものか。どうせ誰も聞いていやしない。

 斜め向かいではケンジがノゾミに膝枕されようとして失敗するという漫才をしている。ほほえましい限りだ。


「わたし、いっつも、ほら」

「うん」

「ケンジと席、交換するじゃんか」

「…………うん?」

「ケンジにいっつも頼まれてたんだけどさあ、毎回、つらくてさ」

「……………………うん」





「わたしさー、ケンジのこと、     だよね」











+++


「怒らないで」「悪趣味」「三秒間」

:色々小説お題ったー(https://shindanmaker.com/263068)より

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