第5話
むじなが低い唸り声を上げ、その口元からは黒い瘴気が立ち上る。野太い腕が杉の木の幹を掴んだ。腕の筋肉がいびつに盛り上がったかと思うと、太い幹が砕け、木片が飛び散る。メリメリと音を立てて木が倒れていく。
「ひぇえええ、俺たちもあんなふうになっちゃう」
智也は両手で頭を抱えながら震え上がっている。
「冗談じゃねえ」
水瀬は背中に隠したドスを抜いた。もちろん、こんなものでどうにかなるとは思えない。しかし、ここで抵抗せずやられるのは極道の名折れだ。
水瀬の殺気を敏感に感じ取ったむじなが腕を薙ぎ払い、木をへし折った。進路を塞ぐものが無くなり、むじなは水瀬をロックオンして襲いかかる。
「うぉおおおお」
水瀬は叫び声も勇ましく、背を向けて逃げ出した。
「おい、敵に背を向ける奴があるか」
むじなの標的から外れた火鳥が遠くから無責任に叫ぶ。
「近くで見るとメチャクチャでかい、こんなの無理だろ」
水瀬は悲鳴を上げる。
むじなの強烈なパンチが地面を穿つ。水瀬は太い木の幹の後に身を隠した。むじなは木の幹を両手で掴み、恐ろしい握力でねじ切った。
「クソッ」
水瀬は降りかかる木片を払いながら、むじなのふくらはぎにドスを突き立てる。肉を突く手応えはあった。しかし、浅い。筋肉の塊のようなむじなの身体に十分に突き立てることはできなかった。
「グォオオオオ」
むじなは怒りの雄叫びを上げる。耳をつんざくようなその怒声に、水瀬は思わず両手で耳を塞ぐ。むじなの目が血のような赤色に光る。鋭い歯を剥き出しにして、水瀬を睨み付けている。
「こうなりゃとことんタイマン勝負やってやる」
極限の恐怖で吹っ切れた水瀬はドスを握り絞め、むじなを睨み返した。むじなは肩を上下させて興奮している。そして大きな拳を握り、振りかぶる。水瀬は意識を集中させる。むじなのフルスイングを水瀬は身を屈めてかわした。間髪入れず、猛スピードの拳が飛んでくる。その風圧で水瀬はバランスを崩し、その場に転倒した。
むじながにやりと笑う。両手を固めて拳を作り、それを振り上げた。
「クソ、ここで終わりなのかよ」
水瀬は恐怖に震えながら唇を噛む。
「おい、こっちだデカブツ」
不意に声がして振り向けば、火鳥が枯れた泉の端に転がっている岩の上に立っている。むじなの注意が火鳥に向いた。むじなの動きは速かった。瞬時に向きを変え、火鳥に襲いかかる。
むじなの渾身の拳を火鳥は身を逸らして避けた。拳は空を切り、火鳥の立っていた岩を砕く。火鳥はそのまま背を向けて一目散に逃げ出す。
「遙兄、逃げて」
木の幹に隠れた智也が叫ぶ。
「何がしたいんだ、あいつ」
水瀬は火鳥の奇行の意味が分からない。しかし、助かった。むじなは大股で火鳥を追う。火鳥は器用に木の幹の隙間を縫って逃げていく。
むじなは怒りに任せて木の幹をなぎ倒し、土や石を跳ね上げる。火鳥に注意を向けている隙を突いて水瀬はむじなの背中にドスを突き立てた。
「グァアア」
不機嫌な唸り声を上げ、むじなが水瀬の方を振り向く。ドスはむじなの背中に残したままだ。刺さりはしたものの、致命傷にはほど遠いようだ。むじなの纏う瘴気がさらに大きくなる。
「もうどうすりゃいいんだよ」
水瀬は情けない声を上げる。
「見て、泉が」
智也が叫ぶ。その指さす先を見れば、枯れ果てたはずの泉に滲むように水が湧き出している。水はむじなが破壊した岩の隙間からじわじわと染み出していた。むじなが怯え始める。雷鳴が轟き、天を裂く稲妻が走った。
「泉が水で満たされていく」
火鳥は木の幹から顔を出して、元の姿に戻りつつある泉を見つめている。泉に波紋が広がり、突如巨大な水柱が立った。
泉から天へ向かい、巨大な龍が昇っていく。
「りゅ、龍だ・・・」
水瀬は腰を抜かした。紺色の美しい鱗を鎧のように纏う長い身体が目の前を通り過ぎていく。火鳥と智也も龍の姿を見守っている。天には黒雲が渦巻き、その中央に龍は姿を消した。一瞬のことだった。雨が降り注ぎ、雲の中で無数の稲妻が光る。腹に響く轟音とともに、目を眩ませるような稲妻が光った。
一筋の閃光が走る。その光はむじなを貫いた。
「グォアアアアアア」
むじなは断末魔の悲鳴を上げ、炎に身を焦がしながら地面を転がり回る。炎が瘴気を焼き尽くし、やがて消炭のような塊だけが残った。唖然として見ていた水瀬はそこに残された柄の焦げたドスを拾い上げる。
「こいつに落雷したのか」
水瀬は信じられない思いで天を見上げた。いつの間にか雨は止み、黒雲は晴れて鬱蒼とした森を月の光が照らし始めていた。
泉は湧き水で満たされ、天空の月を映している。
「お前の機転のおかげだ」
火鳥が呟いた。岩が泉の水を塞いでいると気付いたのは智也だった。火鳥が囮になり、岩の上に立ちむじなに破壊させたのだ。
「俺にはあんなことはできなかったよ」
智也の考えを聞いた火鳥はすぐに動いた。智也は火鳥の運動神経の鈍さは自殺行為だと慌てて止めようとしたが、図太さと逃げ足の速さという点にかけて心配は無用だったようだ。
「泉の水が涸れて、龍神は力を無くした。神社はあの化け物の住処になり、聖地は荒らされた。それで、お前に狛犬が助けを求めたんだな」
火鳥はずれた眼鏡をクイと持ち上げた。
「とんだありがた迷惑だぜ」
水瀬はため息をついて肩を竦めた。
「とんでもない御利益があったね」
智也は泉を見つめる。
ふと、泉の水にキラキラと光る鱗が一枚浮いているのを見つけた。火鳥は鱗を掬い上げる。手の平ほどの大きさの鱗は紙のように薄いのに鋼のように堅く、重厚感があった。月の光に照らすと、それは青から紫に色を変えて美しく輝いている。智也もそれを興味深く見つめている。
「龍神の鱗か」
「記念にもらっておくか、御利益があるかもしれないぞ」
火鳥は水瀬に鱗を差し出す。
「いらねえよ、蛇のうろこなんざ気味が悪いぜ」
水瀬は鳥肌を立てながら首を振った。
―後日
事務所のソファに腰掛けた火鳥は新聞の地方欄に目を留めた。古い神社を建て直し、ご神体を奉納したという記事だ。写真には綺麗になった社を拝む神主の写真が掲載されていた。
「弥無瀬神社に龍神が戻ったか」
むじなが去り、穢れが落ちたのだろう。しかし、人間が森や山を切り開いたせいで、住む場所を奪われた動物たちが哀れではある。
「きちんとした神様が祀られたら、龍が淵トンネルの事故も減るかもしれないね」
智也は新しくなった神社に行ってみよう、と思った。
階段を上がってくる乱暴な足音が近付いてくる。事務所のドアをノックすると同時に開けて、黒いスーツに赤シャツ姿の水瀬がずかずかと上がり込んできた。
「この間は世話になったな」
大股開きでソファに座り、テーブルに商店街のケーキ店スイートショパンの菓子折を置いた。
「お前もなかなか見どころあるじゃん」
水瀬は智也の肩をバシバシ叩く。
「いえ、そんな」
智也は恐縮して小さくなっている。火鳥が水瀬に新聞を投げてよこした。
「神社がリニューアルするらしいぞ。お前に縁がありそうだし、寄付でもどうだ」
「冗談じゃねえ、また犬に取り憑かれるのはご免だ」
あからさまに嫌そうな顔をする水瀬の肩にはいつもの如く浮遊霊が纏わり付いていたが、騒がれると面倒なので火鳥は黙っておくことにした。
ニャア、と声がしていつの間にか事務所に入り込んだルナが水瀬の足元で昼寝を始めた。
二人が帰った後、火鳥は弥無瀬神社の龍神の概要をレポートにまとめ、紺色の鱗とともにKファイルに綴じ込んだ。
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