第4話

「あれは熊か、死んだふりでいけるのか」

 水瀬は気が動転している。智也も恐怖のあまり足がすくんで動けない。

「アホか、こんな熊がいるか。お前は動物園に行ったことないのか」

 さすがの火鳥も動揺している。

 

 目の前には2メートルを越す巨大な獣が肩を上下させてこっちを睨んでいる。背筋を伸ばせばもっと大きいかもしれない。

 腕はオランウータンのように長く、膝近くまである。肩幅は顔の4倍はあり、良く言えば見事な逆三角形だ。毛むくじゃらに見えたのは、その身体の周囲に黒いもやが立ち上っているためだった。筋骨隆々のいびつな体つきの猿といったところか。


「こんな生き物は見たことがない、つまりは化け物だな」

 火鳥の額から冷たい汗が流れ落ちる。

「目を逸らしたら負けだ、目を逸らすな」

 水瀬は怯えながらもヤクザの流儀に従い、黒い獣を睨み付ける。顔の面積と比較してやたら小さなその目は金色に光っている。

 あまりの恐怖に智也が後退る。そのとき、足元の枯れ木を踏んだ。パキッという乾いた音に驚いて、智也は思わず足元を見る。


「グゥオオオオ」

 恐ろしい雄叫びを上げて、黒い獣が襲いかかってきた。長い腕を振り回し、地面を抉る。土塊が周囲に散乱して、砂が雨のように降り注ぐ。

「うわあああ、ごめんなさい」

「謝るのはあとだ、逃げるぞ」

 涙目の智也の襟首を掴み、火鳥は石段の方へ走り出す。足がもつれてふらつく智也の脇を水瀬が抱え上げる。

「世話の焼ける奴だ」


 三人は狭い石段を駆け下りる。黒い獣はそれに反応し、四つん這いになって石段を駆け下りてきた。巨体にもかかわらず、獣の俊敏さは驚くべきものがある。振り回した腕が火鳥のジャケットの背中を切り裂いた。

「まずい、追いつかれる」

 火鳥が振り向けば、背後に吐き気を催すような獣の匂いを感じた。まるで腐臭だ。肉の腐るような匂いに鼻が曲がりそうだ。

「森へ逃げろ」

 水瀬が石段から外れて木々の間に逃げ込む。火鳥と智也も水瀬の後を追う。


 黒い獣が智也を狙って振り下ろした腕が石段を破壊する。石段は砕け散り、破片が転がり落ちていく。黒い獣はドス黒い瘴気を吐き出し、三人が逃げた森を見据える。そして、後ろ足を蹴り、森の中へ突進していく。


 全く手入れされていない森の中で、木の根に足を取られながら進む。密集した木の幹と急な坂道で、走ることなどできない。

「あいつは一体なんなんだよ」

 水瀬が半ギレで叫ぶ。

「この神社のご神体があいつだったってことなのかな」

 参拝するものもなく、手入れもされず、ご神体が怒り狂っているのだろうか。智也は金色の目を思い出して身震いする。


「奴から無数の獣の気配を感じた。そして強烈な腐臭。俺の予想では、山の裏手にバイパスが通ったことで、車に轢かれて死んだ山の動物たちの怨念のように思える。人の形に似せているが、主に狸や犬だろう。“むじな”の化け物ってところだな」

 龍が淵トンネルの事故が多いのも、もしかしたらむじなのせいかもしれないと火鳥は考えていた。

「小泉八雲の『怪談』にも名前が出てくる妖怪だね。アナグマのことをいうけど、地方では狸やハクビシンのことを指す」

 得意分野の話題に、智也が活気を得た。


「俺についていた狛犬はそのむじなって奴に俺を襲わせようってのが目的だったのかよ」

 狛犬に少なからず愛着を感じていた水瀬が悔しそうに呟く。

「いや、あいつにそんな邪念は感じられなかった。だが、狛犬は神の遣い、何かメッセージがあるはずだ」

 背後からメキメキと木を引き裂く音が聞こえる。鬱蒼とした森で巨大なむじなは身動きが取りにくい。しかし、恐るべき力で木をへし折りながら突き進んでくる。追いつかれるのも時間の問題だ。火鳥は考えを巡らせる。


「智也、この山の泉に龍神を奉納したと言っていたな」

 火鳥はずり落ちた縁なし眼鏡をくいと持ち上げる。

「うん、そうだよ」

 そんな昔話を持ち出して、智也は怪訝な表情を浮かべる。

「泉を探そう」

「えっ」「はぁ?」

 火鳥の言葉に、水瀬と智也は同時に驚きの声を上げる。


「狛犬はここのご神体の龍神の遣いだ。池を失い、むじなに居場所を侵蝕されて、お前に助けを求めたんだ」

「なんで俺なんだ、だが頼られるのは悪い気はしねえよ。探そう、泉を」

 水瀬は吹っ切れたようだ。

「でも、どうやって」

 智也は周囲を見渡す。狭い山とはいえ、どこにあるのか分からない泉を手がかりもなく探すなんて無茶だ。背後からは酷い腐臭をまき散らし、木をへし折りながらむじなが迫ってくる。


「見ろ、狛犬だ」

 火鳥が指さした先に二匹の狛犬の姿が見えた。こちらを振り返り、森の奥へと消えていく。

「泉の場所を教えてくれるのか」

「ついて行こう」

 火鳥の言葉に水瀬と智也は頷いた。枯れ葉と泥で塗れながら、木の幹を避けて道無き道を進んでいく。空には黒雲が立ちこめ、雷鳴が轟き始めた。森の湿度がぐんと下がり、不快な汗が流れ落ちる。


 突然、森が開けた。狛犬の姿がふっと煙のように立ち消えた。そこは落ち葉に覆われた窪みがあるのみ。

「何だよ、これが泉だってのか」

 水瀬は呆然としている。

「月日が経って、水が涸れ果てたんだ・・・」

 湿った窪みを見つめて智也も肩を落とす。火鳥は唇を噛んだ。

 稲妻が光り、背後の木々の間に立つ巨大なむじなの姿を照らし出した。全身から憎悪を漲らせ、金色に光る目がこちらをじっと見据えている。

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