忘れられた聖域

第1話

 今日の中華料理“揚子江”の日替わりランチは海鮮五目あんかけ炒飯だった。海鮮五目あんかけ炒飯は店の看板メニューのひとつで、この日を狙ってくる常連客も多い。セットメニューには玉子スープに、大ぶりの唐揚げ一個とシュウマイが二個ついていた。

「ごちそうさん」

「ありがとね、また来てよ」

 ランチで腹を満たした水瀬博史に店長の陳さんが声をかける。水瀬はポケットに左手を突っ込んだまま、後ろ手に右手を振った。


 水瀬は神原組の若頭補佐心得という中途半端な肩書きの構成員で、一度は“揚子江”がテナントとして入るビルの地上げに押しかけてきた。しかし、結局同じビルの三階に入っている火鳥探偵社の主、火鳥遙の口添えにより和解して常連客の一人になっている。

 上機嫌で“揚子江”を出た水瀬はそのまま店の脇にある階段を登り始める。胡散臭い占い師の店を通り過ぎ、三階の火鳥探偵社の前にやってきた。


 踊り場では黒猫のルナが美味しそうに水を飲んでいる。一ヶ月ほど前、心無い男により廃工場の容器に閉じ込められ、瀕死の状態だったところを助けられた元飼い猫だ。火鳥はルナを飼っているつもりはないが、すっかり懐いてこの事務所に寄りつくようになっていた。

「おっ、ルナじゃねえか」

 水瀬がしゃがみ込んでルナの顔を覗き込む。犬派だと豪語していた水瀬も、かわいい猫には弱いらしい。ルナも事務所に頻繁に立ち寄る真里や智也とともに、水瀬にも懐いていた。


 ルナが水瀬を振り返った途端、金色の目を見開き全身の毛を逆立てて逃げるように手すりに飛び乗った。

「どうした、ルナ」

 水瀬が手を伸ばそうとすると、ルナはフーッと水瀬を威嚇し、怯えた様子で手すりを伝って逃げていった。

「なんだよ、愛想のねえ奴だな」

 そう言いながらも、水瀬は少し寂しそうな表情を浮かべる。火鳥探偵社のドアをノックすると同時に開く。


「邪魔するぜ」

 一応、客の気配が無い事を確認し、ずかずかと事務所に入り、大股開きでソファにどっかりと腰を下ろす。この事務所に似つかわしくないマホガニー製の事務机でパソコンのキーボードを叩いていた火鳥遙は、迷惑そうな顔で眉根を寄せた。

「またコーヒーをたかりにきたのか」

「閑古鳥の鳴く事務所に世間話をしにきてやったんだよ」

 水瀬は悪びれもしない。火鳥はしばらく画面に向かっていたが、怪談ブログの更新ボタンをクリックして伸びをしながら立ちあがった。


 趣味と副業を兼ねた怪談ブログはちょっとした小遣い稼ぎになっている。この間の狸穴遊園地のマジックハウスとピエロの話を更新した。閲覧はそれなりに伸びるだろう。

 火鳥は手狭なキッチンでコーヒーを湧かし始めた。深みのある香りが事務所に満ちる。コーヒーを注ぎ、カップを二つテーブルに置いた。

「おっ、サンキュ。ここのコーヒーは美味いぜ」

「喫茶店みたいに言うな。うちは探偵事務所だぞ」

 調子の良い水瀬に火鳥は苦言を呈す。水瀬は火鳥に凝視されていることに気付いた。


「なんだよ、俺の顔に何かついてんのか」

 水瀬は神妙な顔で訊ねる。火鳥は首を傾げながらじっと水瀬を見つめている。

「お前はよく肩に何か乗せてるが、今日は特に面白いものが乗ってるな」

「な、なんだと」

 水瀬は一気に青ざめる。


 火鳥の母はこの世のものでない者が“見える”人だった。その血を受け継いだ火鳥も多少の霊感があった。よく背後にこの世のものでない者をつれているが、全く鈍感な水瀬が近くにいると不思議と霊感が強くなる。ついでに普段何も見えない水瀬まで見たくないものが見えてしまうのだ。

 水瀬は恐る恐る横目で自分の肩をチラリと見やる。視界の外で何かが動いている。

「ひぇっ、何かいやがる」

 水瀬は頭を抱えて身体を竦める。この男は強面のヤクザのくせに人一倍怖がりなのだ。


 この間は髪の長い女、その前はしわくちゃの老人を肩に乗せていたが、指摘すると怖がるのが面倒なので火鳥はいつもあえて黙っておく。しかし、今日は珍しいものをしょっているので教えたくなったのだ。

「な、何がいるんだよ」

 水瀬の声は震えている。

「自分で見てみろよ」

「おっかねえよ、勘弁しろよ」

 火鳥は情けない様子の水瀬を眺めながらニヤニヤしている。水瀬は涙目になっていた。

「犬だな」

「い、犬だと」

 そう聞いて、恐怖が少し和らいだようだ。水瀬はゆっくりと自分の肩口を見つめる。


 そこには灰色の大きな犬が鎮座していた。

「うわっ、なんだこれ」

 もう片方の肩を見れば、同じくらいの大きさの犬が寝転がっている。水瀬は驚愕して口をパクパクさせている。

「犬、といっても狛犬だなこれは」

 火鳥は水瀬の両肩に憑いている狛犬をまじまじと眺める。ところどころ苔むした石造りの阿吽の狛犬が水瀬の肩の上でじゃれあっている。


「お前、どこでこんなものを拾ってきた」

「好きで連れてきたんじゃねえよ」

 水瀬は観念したのか腕組をしてソファに身を投げた。狛犬は水瀬の頭を甘噛みしたり、顔に頬をすり寄せたりしている。

「ずいぶん懐かれているようだな」

 火鳥はコーヒーを啜りながらその様子を面白そうに眺めている。


「火鳥、どうにかしてくれよ」

「俺は坊主じゃないからな」

 泣きつく水瀬に火鳥は肩を竦める。

「こういうのは智也が得意そうだな、明日まだ肩に乗ってたらここに来いよ」

 ルナが警戒して逃げて行った訳が分かった。犬が怖かったのだ。蠱毒を生き抜いたルナにも不思議な力があるのかもしれない。

「頼んだぞ。どうりで肩が重いと思ったぜ」

 水瀬は肩をさすり、ぼやきながら帰っていった。火鳥は従弟の智也にラインでメッセージを送った。明日の午後4時に事務所に集まることになった。

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