海底からの誘い

第1話

「は、海の家でバイト?」

 マホガニー材のデスクの前で火鳥は頓狂な声を上げる。スマートフォンの通話の相手は将星会神原組のヤクザ、水瀬博史だ。

「知り合いの組の若い衆がやるはずだったんだけどよ、ビアガーデン行って食中毒でぶっ倒れたらしくてよ」

「ヤクザのくせに虚弱か」

「おう、俺もそう思うわ。それでな、若頭を通して依頼が来たんだよ」


 階段を上がる靴音が聞こえる。水瀬の声が近づいてきたと思うと、火鳥探偵社のドアが開いた。

「そういうわけで頼むぜ」

 水瀬はスマートフォンの通話を終了する。客がいないことを一応確認し、応接セットのソファに腰を下ろした。火鳥は書きかけのブログ記事を保存し、冷蔵庫から取り出した水出しアイスコーヒーと、ガラスコップを2つテーブルに置く。


「おう、サンキュ。外は暑いぜ。アスファルトで靴底が溶けそうだ」

 水瀬はセルフサービスでコーヒーをグラスに注ぎ、ミルクとシロップを入れて美味そうに飲み干す。

「何で俺なんだよ」

 火鳥は腕組をしてソファに身を預ける。強面のヤクザ相手でも全く物怖じしない男だ。

「お前暇そうだろ、今月の家賃大丈夫なのか。仕事の斡旋をしてやってるんだぜ」

 悔しいが、水瀬の言葉は図星だった。今月も身上調査とペット探しがそれぞれ一件、やらせブログ記事の依頼も少ない。正直、苦しい。


「週末土日、海の家で焼きそば焼いて、日当一万円。悪くないだろ」

 一泊二日になるが、民宿での寝泊まりとまかないもついているという。水瀬は必死だ。ここで火鳥にこの仕事を押しつけなければ、自分がやる羽目になる。火鳥は神妙な顔で縁なし眼鏡をくいと持ち上げる。

「交通費は」

「もちろん支給する」

「わかった、乗ってやる」


***


 竜王海岸は美しい砂浜が続く海水浴場だ。内海で波は穏やか、家族連れやカップルが海水浴を楽しみにやってくる。堤防では釣り人が糸を垂らす姿もある。近くには釣り人用の古い民宿が数件あるくらいで、リゾート地というにはほど遠い。

 火鳥は水瀬のBMWで竜王海水浴場へ向かっていた。ハンドルを握る水瀬の表情は暗い。

「クソ、なんで俺まで」

「人には押しつけておいて、文句を言うなよ」

 先ほどから愚痴が止まらない水瀬に、火鳥は呆れている。海の家のバイトは二人一組だ。火鳥の他に事務所の若い衆を当てていたが、そいつが虫垂炎で病院に運ばれたという。


 結局、水瀬と火鳥で頼まれた海の家を切り盛りすることになったのだ。BMWを民宿の駐車場に停める。空は青く、真夏の太陽がギラギラと照りつける。朝八時だが、すでに海水浴場は遊泳客で賑わっていた。

「海の家はすぐそこだ」

 水瀬がテントを指さす。いくつかのブースに別れており、火鳥と水瀬は焼きそばの店を担当することになっている。


 火鳥は赤色のアロハシャツに白い短パン、サンダル姿だ。面倒くさがっていたわりにノリノリのようだった。水瀬は青色の開襟シャツに黒い短パンで、胸元には金のネックレスを提げている。いかにもチンピラ風情だが、開放感のある海では意外としっくりくるものがある。

 材料を鉄板に並べ、焼きそばを作り始める。

「昼前にある程度作り置きしておかないとな」

 鉄板の前でコテを振るう水瀬はなかなかサマになっている。火鳥はできた焼きそばをプラ容器に詰めていく。甘いソースの匂いは人を寄せ付けるようで、海の家にしては意外とリーズナブルな400円という価格と、盛りの良さも相まって昼を待たずにお客さんが途切れずにやってくる。


「焼きそば4つください・・・あれ、遙兄、それにヒロシまで」

 目の前に水着姿の木島真里が立っている。火鳥の従妹で地元の高校に通っている。今日は同級生四人で海水浴にやってきたという。

「遙兄、転職したの」

「まさか、バイトだよ」

 火鳥は乾いた笑いを漏らす。ヤクザに雇われてバイトとは、あまり聞こえの良い話ではない。

「真里ちゃん、サービスしとくわ」

 水瀬が焼きそばを肉、野菜大盛りで手早くパックに詰める。真里は喜んで友達のもとに戻っていった。


 目の前の海岸で叫び声があがった。何やら騒ぎが起きているようだ。

「誰か溺れているみたいだ」

 それを聞いた水瀬は美女なら俺に任せろ、と颯爽と飛び出していく。火鳥も鉄板の火を止めて海岸線に向かった。海岸から10メートルほど離れた場所で、5歳くらいの子供が浮き沈みしている。慌てた父親が泳いで向かっていく。

 子供のところにたどり着いたものの、泣きわめく子供にしがみつかれて父親も溺れそうだ。


「あれじゃあ二人とも溺れちまう」

 水瀬はシャツを脱ぎ捨て、迷わず海に飛び込んだ。水を掻いて父子に近づいていく。父子に手を伸ばそうとしたそのとき、海中に白いものがいくつも揺らめいているのが見えた。それはゆらゆらと揺れながら親子の足に絡みついている。

「なんだあれ、おっかねえ」

 水瀬は開けた大口から水を飲みそうになり、慌てた。海中から何本もの白い手が伸びている。叫びそうになるのを堪え、父の手を掴み、引っ張りあげる。手はなおも執念深く父子の身体に伸びてくる。


「水瀬、つかまれ」

 火鳥の声が聞こえた。振り向けば、火鳥は足のつく位置に立ち、浮き輪を手にしている。

「お前も助けに来いや」

 水瀬は呆れて叫ぶ。

「俺は泳げない」

 腰に手を当てて堂々と言い放つ火鳥に、水瀬は白目を剥きそうになる。火鳥が投げた浮き輪を何とかキャッチし、子供に持たせる。子供から解放された父親も冷静さを取り戻し、浜の方へ泳ぎだした。水瀬も全力で浜へ向けて泳ぐ。


「た、助かりました。本当にありがとうございます」

 父親は何度も頭を下げる。子供は水を飲んでいたが、命に別状はないようだった。普段、水を怖がるのに目を離した隙に沖の方へ泳いでいたという。水瀬は目にした海中の白い手のことは黙っておいた。緊張が解けた今、身震いが止まらない。

「火鳥お前な、泳げないとかふざけるなよ」

「ふざけてはいない。本当に泳げない」

 見れば、アロハシャツを脱いだ火鳥は腹筋がしっかり割れている。細身ではあるが、身体つきはがっしりしている方だ。

「その腹筋は飾りかよ」

 水瀬は小さく舌打ちをした。


 海の家に戻ると、隣のかき氷屋のおやじが拍手で迎えてくれた。

「若いのに、勇気がある」

「あのままだと二人とも危なかったからな」

 水瀬は照れながら頭をかいている。

「しかし、不思議とあの辺でよく人が溺れるな。先週も見たぞ」

 おやじの言葉に火鳥が興味を示す。

「いつもあの辺りですか」

「そうだな、俺はここがオープンしてずっと店にいるんだけどよ、いつもあの辺だ」

 火鳥は穏やかな海を見つめながら、縁なし眼鏡をくいと持ち上げた。

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