消えた黒猫

第1話

 火鳥遙は事務所の窓を開け放ち、大きく深呼吸をする。火鳥探偵社のある雑居ビルの1階には中華料理店があるため、香ばしい油や中華独特の香辛料の匂いが風向きにより入り込むので、できれば締め切っておきたいところだ。しかし、今事務所内に充満するキツい香水の匂いをかき消すにはこうするしかない。

 先ほどまでここにいたマダムが浴びるようにつけていた香水の匂いが根強く残っていた。


 マダムの名前は香西貴子、58歳。旦那は東京に本社を構える大企業のお偉いさんで、彼女は23歳で結婚してから働いたことがない。桜ヶ丘に連なる高級住宅街に庭付き一戸建てを構え、優雅な生活を謳歌している。その彼女がこの閑古鳥の鳴く探偵社にやってきた訳は、いなくなった愛猫を探して欲しいという依頼のためだ。


 3年前に買い始めた黒猫で、子供たちが独立して寂しかった貴子は可愛がっていたのでよく懐いており、夜には必ず家に帰ってきたという。それがここ1週間ほど帰らなくなったのだ。

「本当にどこいっちゃったのしら、私のルナちゃんを探していただきたいのよ」

 太い指にはマットなモスグリーンのマニキュア、大きな石のついたゴテゴテの指輪を嵌めている。ペット探しを人に依頼するような人間は大概は金持ちで、金払いがいい。


「ルナちゃんはね、それは美しい月のような瞳をしているの」

 そう言って写真を差し出した。写真には大きな花柄のワンピースを着た恰幅の良い貴子がでかでかと写っている。火鳥がまじまじ写真を見つめると、太い手の中に美しい毛並みの黒猫が抱かれていた。瞳の色はビビッドなアンバーで、これを月に見立てているのかと合点がいった。

「分かりました。捜索費用は1日18,000円、チラシ制作費、諸経費は別途いただきます」

 人件費と考えると高くはない金額だが、3日もかけるとそれなりの費用になる。発見率は通常ならば70%前後。見つからなければ金をドブに捨てるようなものだ。


「見つかるまでお願いしますわ」

 金に糸目はつけないらしい。火鳥は笑いで口の端が引き攣るのを抑え、ポーカーフェイスに徹した。これで今月の家賃が何とか払える。

マダムの話では、駅前にある名の知れた全国チェーンの探偵社に依頼したが、まったく手がかりが得られず、火鳥を紹介されたらしい。雑多で面倒な仕事がここへ回ってくるのだ。


 マダム貴子が帰った後、火鳥は早速パソコンに向かい、探し猫のチラシを作り始めた。自作のテンプレートに文字を当て込んでいく。デジタルデータ制作は得意で、見やすいデザインにはこだわりがある。マダムの腕に抱かれた黒猫の写真をアップにして嵌め込んだ。

 チラシを商店街の印刷所に依頼すれば、100部程度であればオンデマンド印刷で半日もしないうちに刷り上がる。それを持って近所にチラシ張りや聞き込みに当たる。印刷用のデータをメールで送った。


 腹ごしらえをしてマダム自宅付近へ向かうことにする。火鳥は帆布の肩掛けバッグに荷物を詰め、階段を降りていく。時計を見れば、時刻は13時、1階の中華料理店“揚子江”のランチタイムにはまだ間に合う。

 油の染みこんだ赤いのれんをくぐると、店内は昼休みのサラリーマンでまだごった返していた。店長の陳さんが中国語で声を張り上げ、出来あがった料理の名前を叫んでいる。


「火鳥さん、窓際のテーブルどうぞ。相席だよ」

 陳さんは入って来た火鳥の顔を見るなり、相席を指示する。窓際で派手な柄の赤シャツの男が定食を食べている。火鳥は断り無くその正面に座る。

「今日は鶏肉のカシューナッツだな」

「ぶほっ」

 火鳥が男の食べている料理を見て今日の定食メニューを知る。突然勝手に相席をする火鳥に、男は思わずスープを吹きそうになった。

「相席するなら一声かけろよ」

 文句を言いながら、さほど気にしていない様子だ。強面の赤シャツの男、将星会神原組若頭補佐心得の水瀬博史はおしぼりで口元を拭う。


 水瀬とは火鳥探偵社の入るテナントビルの地上げという妙な縁で出会った。それから事務所に火鳥の淹れるドリップコーヒーを飲みにくるようになり、何度も事件に巻き込まれている。

 火鳥の前にも鶏肉のカシューナッツ炒め定食が置かれた。

「うん、美味そうだ」

 鶏肉とカシューナッツを炒めたメイン料理は赤唐辛子が効いてピリ辛だ。つやつやの白ご飯に、あっさり味の卵スープ、野菜サラダ、小鉢にはいんげんとイカの和え物、蟹シュウマイがついて850円、リーズナブルだ。中国四川省で料理を学んだ陳さんの腕は確かで、日本人向けの丁寧な味付けに、中華スパイスを効かせた本格的な料理はファンが多い。


 デザートの杏仁豆腐まで完食し、火鳥と水瀬は店の外に出る。

「今日はこのまま出掛けるから、事務所には戻らないぞ」

 自分が食べ終わるのを待っていた目的を察知した火鳥が水瀬に向き直る。

「なんだ、コーヒー飲めないのかよ」

 中華料理店“揚子江”には食後のコーヒーを置いていない。火鳥の事務所で一休みしていくのが常だった水瀬は、残念そうに肩を落とす。


「これから仕事に行く。俺は忙しいんだよ」

 火鳥は縁なし眼鏡をくいと持ち上げる。

「いつも事務所にいるから暇してるのかと思ってたぜ」

「探偵業は段取り8割なんだよ」

 実のところ、暇な日の方が多いのだが、こいつには言われたくない。


「お前こそ昼間はふらふらしているだろう」

 水瀬の仕事は夜の街の用心棒や見回りが主だ。

「それがよ、今日はオヤジの快気祝いに行かなきゃなんねえんだ」

 水瀬の言うオヤジとは神原組の組長のことだ。これから商店街で適当に手土産でも買って、自宅へ訪問するところだという。

「お前のところの若頭はどうした」

 普通は組長の次席の若頭が行くものだろう。

「今日は人間ドックなんだと」

「尿道結石はドックか、うまく逃げたな」

 神原組若頭の八木は尿道結石で入院していたことがある。組長の快気祝いをドックを理由に部下に押しつけるとは、ずいぶんおおらかな組だ。

「ひとの組の若頭を病名で呼ぶんじゃねえよ」


「そうだ、お前の組長は桜ヶ丘団地だったな」

 火鳥は黒猫探しの依頼を受けたマダムの住所を思い出す。

「そうだよ」

「俺もそっちに用事があるんだよ、ついでに乗せてくれ」

「ヤクザを足に使うとは、お前は本当に図太いな」

 水瀬は呆れているが、組長の自宅訪問という面倒な仕事に道連れが出来て実のところ悪い気はしなかった。


 火鳥は商店街の印刷所へ行き、仕上がった探し猫のチラシを受け取り、水瀬は老舗和菓子店で最中の詰め合わせを購入した。水瀬のBMWで桜ヶ丘へ向かう。

「組長は病気持ちなのか」

「ヘルニアだ」

 一泊二日の入院だったらしい。それでも、組長が退院したとなれば構成員は慣例として祝い金を用意しなければならない。ハンドルを握る水瀬は面倒くさそうにため息をついた。

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